2016年12月16日

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」



精神分析の過程においては、自由連想がある程度、機が熟した時、分析家が患者の無意識の中を詳らかにすること、すなわち解釈投与が行われます。

とはいえ、どのような解釈が望ましいかは、諸派によって見解が分かれてくるところです。この点、ラカン派における「解釈」とは患者が意識レベルで納得するような「説明による安心」ではなく、むしろ「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」であることこそが望ましいとされています。そのような解釈こそが、むしろ患者(主体)のFrustrationを呼び込み、連想過程を胎動させるということをラカン派においては熟知しているからです。

従ってラカン派においては「解釈」の意味は「解釈の解釈」を要する多義的なものであることが多いと言われます。その謎めいた意味作用は主体の内面で反響して、無意識の主体が鳴動し始める。日常的理性的な思考過程が退き、無意識の連想過程がこれに取って代わり欲望を弁証法化させていくことで、ずっといままで主体が言葉にできないまま、不安や症状として、その周囲の堂々巡りに終始していた「何か」を穿っていく。

この辺り、無意識の主体を顕現させるという意味で句読法や短時間セッションと同様の思想が通底しているといえるでしょう。フロイトの言葉を借りれば、「解釈とはその真偽よりも生産的であるか否かが問題」となるわけです。例えば、愛の言葉が多くの場合そうであるように、解釈とは相手の最も深い処、もっと大げさに言えば「いのちそのもの」に突き刺さらないといけない。そういう意味において「解釈とは現実的なものを打つ」ものでなければならない。

こうした過程を経ることで「欲望の主体(=代替可能な象徴的主体)」の中に、かつて母子分離の過程(ラカン派でいう「疎外と分離」)で失われた「欲動の主体(代替不能な現実的主体)」を再び顕現させることが可能となります。換言すれば、現実的なものが言語化、シニフィアン化されていくわけです(ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールはこれを「干拓」と表現しています)。

これが、フロイトのいう「かつてエスがあったところに、自我を成らしめよ」という言葉の意味するところであり、ラカンがセミナールXI「精神分析の四基本概念」において宣明した「根源的幻想の横断」に他ならない。あるいはもっとシンプルに「〈他者〉からの分離」もしくは「自己実現の過程」とも言い得るでしょう。

さて、また長い前置きになってしまいましたが、そんなことをなんとなく考えているタイミングで「この世界の片隅に」という作品を観て参りました。柔らかいタッチの絵だけれども描写は細密。本作では徹底的な史実研究がされているそうで、穏やかな日常の営みにじわじわと戦争という「異物」が侵入してくる様相が、すずさんの視点から非常に丁寧に描き出されています。このような一つ一つのシークエンスの積み上げが、中盤以降で、物語に圧倒的かつ静かな狂気性を孕ませる動線となっている。

そのひとつの頂点に位置していたのは玉音放送の場面だったと思います。こうの史代さん自身もあの場面は「ヤマ」と考えておられたようで、映画では原作に比べてさらに演出が盛られており、一見かなり唐突な印象さえ与えます。

けれども、あの時を境に、彼女の世界観は、それまでの「私には右手がない(=もう生きている価値がない)」から「私には左手も両足もある(=生きていれば何でもできる)」というように、明らかに変容を被っています。

つまり、あの「玉音」はラカン的な意味での「解釈」として考えるべきなんでしょう。漢文で紡がれる難解極まりないディスクールは図らずも「説明による安心」ではなく「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」としてすずさんの無意識に作用し、作品の文脈に沿って言えば一度喪失した「居場所」を回復したといえる。そういう意味で、そこには明らかな「根源的幻想の横断=自己実現」の過程が見て取れるでしょう。

少し穿った視点からの所感となってしまいましたが、普通に観ても「この世界の片隅に」は本当に素晴らしい作品なのは言うまでもありません。「君の名は。」や「シン・ゴジラ」を観て「イヤ、ホント凄く良かったけど、ちょっとね、何か足りないような・・・」と思った人にこそ、この作品は是非見て頂きたいですね。


posted by かがみ at 01:54 | 文化論