【参考リンク】

現代思想の諸論点

精神病理学の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2016年10月11日

精神病圏における〈父の名〉の排除、あるいは3月のライオン

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いよいよアニメが始まり、来年には実写映画を控え、社会現象の兆しも見せ始めている『3月のライオン』。ようやく原作12巻まで読了したので小感を書いておきます。

誠二郎氏の件の後、物語はあかりさんのパートナー探しへと遷移していきます。読んでいて思ったのは、いまの状態は、精神分析でいうところの「〈父の名〉の排除」の状態にあるのではないか、ということです。

もちろんいうまでも無く、誠二郎氏は、これほど漫画のキャラでイライラするクズも珍しいくらい、どうしようもない人間というのは疑いない。故に御本人に同情する余地は微塵もないことは明白で、娘達からの完膚無き拒絶は当然の結末でしょう。

ただ、かと言って、「私たちはこの3人でいい︎」っていう決断は美しくとも同時に相当に危うさをも孕んでいる状況ともいえる。


先に述べました〈父の名〉というのは現実の父親の名前というよりも母親と子供を切り離す「父性原理」ともいうべき一種の精神力動作用です。これが機能していないと、子どもは母親から心理的に自立ができません。具体的にいうと、言語機能に欠損が生じ、精神構造が精神病圏に留まることになる。

例によってラカン派の理論を参照するのであれば、人の精神構造は神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに必ず帰属します。もちろん、これはあくまで精神構造の問題であり症状として発症するかどうかはまた別問題なんですが、ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もあります)。

精神病圏とは父性原理の存在しない世界です。これが先に述べた「〈父の名〉の排除」という状態でして、例えばパラノイア患者の諸々の幻覚症状は父性原理の参照に失敗したエラー表示に他ならず、「世界の神になる」とかそういう誇大妄想は父性原理を代替する為に自分なりに作り上げた原理であると理解されうる(妄想性隠喩)。

つまり父性原理の設立により心的な意味での母子分離に成功すれば、子どもの精神構造は神経症圏に遷移し、失敗すれば精神病圏に留まるということになります。フロイトの主張した例の、エディプスコンプレックスなどと言う、一見すると荒唐無稽なストーリーは父性原理設立の神話的表現に他ならないのです。



さてさて。いろいろ長々と回りくどい説明が続いてしまいましたが、要するにはっきり言えば、いまの状況はモモちゃんの発達心理上、非常によろしく無いという事です。

モモちゃんにとってのあかりさんは疑いなく母親で、いい意味で普通の母親以上に母性原理に満ちている。他方、モモちゃんにとっての誠二郎氏は徹頭徹尾、「いきなり闖入したかと思えば、すぐさまつまみ出された『オトウサン』などと呼ばれている、よくわからないオッサン」に過ぎず、父性原理を体現する「父親」にまるで値していない。

要するに問題は目下、あかりさんからモモちゃんを心的に切り離す父性原理を起動させる人物が周りにいないということです。もちろんあかりさんに全然非は無いんですけど、現状このままではモモちゃんはあかりさんの重力圏を脱出できない危険性は極めて高いということです。これは精神分析の見地からのみならず、ユング派からもグレートマザーの脅威として理解可能な事象です。

だから、あえて誤解を恐れずに言うのであれば、早急に探し出さ無いといけないのは「あかりさんのパートナー」というより、「モモちゃんにとっての〈父の名〉」なんですよ。だから多分、羽海野さんはこのタイミングで藤本雷堂と言う、極めて解り易くファルス関数に忠実な「ある父」のエピソードを投入してきたんだと思うんです。

もちろん、藤本棋竜は誠二郎氏と行状こそ多少は似てるけども、対比には全くなってはいません。藤本さんは別居後もきちんと奥さんに生活費を入れて、一応は責任を取り(取らされ?)続けているし、何より御本人が後ろめたさを十分に自覚している。

けどそれでも、この寓話があかりさんとひなたちゃんに与えるインパクトは決して小さくないはずです。騒動の顛末における、あかりさん達のモノローグが仄かしているように「誠二郎は去ったが〈父の名〉という問題自体は全く終わっていない」ということではないでしょうか。

「本当はどうすれば良かったのかな…」

ーなんて問いが

痛みとともによぎるけど

ーどっちにしたって もう

「こっちを選んで正解だった︎」って思えるようなエンディングを目指して

私たちは

精いっぱい泳ぐしかないのだ…

したり顔の「運命」ってやつに

クロールのふりをして

「グー」でパンチを浴びせてやるその日迄……!︎

(Chapter.123)


そういうわけで、11巻が徹底した「〈父の名〉の排除」の物語だとすれば、12巻は「〈父の名〉の探索」へ旋回していく為の過渡期の話だったのかなって、そういう風に読めました。最後に出てきたあの人と、ごく普通にフラグも立ちましたし、月並みな結語ですが、これからの展開が楽しみです。
posted by かがみ at 01:27 | 文化論