2016年10月01日

しあわせ・享楽・対象 a

最近、オキシトシンという神経伝達物質が「幸せホルモン」とか「愛情ホルモン」などと呼ばれて、脚光を浴びるようになりました。

かつてはもっぱら分娩時の子宮収縮薬や陣痛促進剤などが主な用途だったんですが、近年の研究において心筋梗塞の予防、降圧作用、肥満防止や睡眠の質などの体の様々な領域に深く関係することがわかりまして、さらに不安やストレスを緩和させ人間関係に積極的になったり寛容になったりするといった精神に対する作用も認められるようになります。

オキシトシンの点鼻薬投与により、従来から根本的治療がないとされていたアスペルガー症候群などの自閉症スペクトラム障害(ASD)の症状改善が認められたという話題も耳新しいでしょう。

自閉症に効くオキシトシン、使用量増が症状改善 福井大:朝日新聞デジタル

母子の絆の「愛情ホルモン」が自閉症の治療に コミュニケーション力を高める効果に期待 : J-CASTヘルスケア

そもそも、オキシトシンというのは9種のアミノ酸がつながった構造のペプチドホルモンで、下垂体後葉部から分泌され、ドーパミンやセロトニンの調整を担う物質でして、授乳時に大量に分泌されることは古くから知られており、昔はもっぱら母親になった時に初めて分泌されるホルモンだとか思われていたんですね。

ところが90年代半ばからは脳内での働きについての研究が進み、オキシトシンは性別や年齢に関係なく分泌されることが判明しました。親しい相手とのスキンシップといった物理的接触、さらには、例えば優しい言葉、温かいまなざし、あるいは誰かに対する親切心、そういう精神的な触れ合いによっても、オキシトシンは分泌されることがわかった。



それでね、ふと思ったんですが、これって完全にラカンでいう「対象 a 」なんですよね。つまり、ラカン派の精神分析で言う所の「享楽」の正体ってオキシトシンなんじゃないのかなって。

説明します。まず「享楽」というのは、まあ定義的にはいろいろあるんですけど、すごく端的に言えば、胎児期、乳児期における母子が渾然一体となった「求めるだけ与えられる」という万能感に満たされた欠如なき完全円満な世界のことです。

胎児は出産、離乳といった母子分離のイベント(ラカン的にいうと「疎外と分離」)を通じて、この始めの享楽を漸進的に失っていく。そして結局、始めの享楽の残滓ともいうべき欠片だけが僅かに残るのみとなってしまう。

この欠片こそが、あの名高きラカンの「対象 a 」でして、こうして人は、言語の獲得(ラカン的にいうと「象徴界への参入」)と引き換えに始めの享楽を失い、以後の人生に於いては、対象 a を通じて得られる僅かな享楽(より正確には「ファルス的享楽」)を求めて、終わり無き反復運動に終生を費やすことになる。ラカンはこれを称して「欲望」といい、対象 a は「欲望の原因」と呼ばれるわけです。

ある物がある人にとって「それを得る事で僅かでも享楽を回復できるだろうと信じるもの」であれば、なんでもそれは対象 a になります。従って、何が対象 a になるかは人それぞれとしか言いようがないですが、ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは4つ。「乳房、糞便、声、まなざし」です。

この中で糞便というのは一見、異様ですが、排泄物は子どもの母親への最初の贈り物と言われており、他人に対し、優しく親切にするっていう原初的な感情に他ならない。お判りでしょうか?対象 a はオキシトシンの分泌条件と完全に重なっているわけです。

こうして、対象 a を通じて得られる享楽の正体とはまさしく、オキシトシンではないかという仮説が得られることになります。両者ともに最も高まるのはオルガズムの時であるとされるのもやはり強力な傍証たりうるでしょう。

オキシトシンが幸せホルモンとして注目され始める30年以上も前に享楽や対象 a の概念を提唱したラカンの慧眼にはただ脱帽するしかないですね。オキシトシン生成という神経科学の観点から、精神分析はもちろん諸般の心理療法の理論や技法を捉え直すことは面白い試みだと思ったりもするんですが如何でしょうか?と最近、思うんですよね。

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posted by かがみ at 02:22 | 心理療法