【参考リンク】

現代思想の諸論点

精神病理学の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2016年09月01日

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピーの功罪

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
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幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
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アルフレッド・アドラーの慧眼は、精神病圏へのアプローチの可能性をばっさり切り捨てて、敢えて神経症圏に特化した理論体系を構築し、精神分析の奇怪なテクニカルタームを誰にでも分かるシンプルで優しい言葉に翻案したという点にあるのではないかと、個人的には思っていたりもするんですが、それはそれとして、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の二部作はアドラー=岸見理論をコンパクトに、かつ面白可笑しくパッケージした近年稀に見る自己啓発の名著であることは争いの無い処でしょう。

ただ、例の「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピー。あれって結構、罪作りだと思うんですよね。真面目な人ほどそれを真に受けて「叱らない、褒めない」コミュニケーションを「実践」し、結局、失敗したという事例も割と散見されます。

果たして「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というテーゼは、例えば「バカモノ!」「ダメじゃないか!」「まだまだ半人前だ」などという「叱責の言葉」、あるいは「えらいねえ」とか「すごいねえ」とか「がんばったよね」などといった「褒め言葉」といったものを「使ってはいけない」ということまでも意味しているでしょうか?

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というのは、つまり「対人関係を縦の関係に捉えてはいけない」ということです。「叱る、褒める」というのは能力がある人がない人を評価する行為であり、「縦の関係」であり、「縦の関係」は劣等コンプレックスを形成する要因となるからです。

ここでおさらいしましょうか。精神分析における人の根本衝動はお馴染みの「性欲動」だとされますが、これに対して、アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定して、その優越性に追求の駆動された結果、形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼ぶ。

ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って結構です。人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成され、逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成される。

つまり、アドラーが提案するように、「勇気づけ」により、劣等コンプレックスを上書きして、共同体感覚の涵養を目指すのであれば、教育やカウンセリングはどこまでも「横の関係」でなければならないのです。

すなわち、この「横の関係」こそが「勇気づけ」の本質であり、「縦の関係」は理論上、絶対に勇気付けになり得ない。だから「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というテーゼが帰結されるわけです。

こんな風にアドラーの理論は極めてシンプルです。でもね。そうだからといって、「叱責」「褒め言葉」が直ちに縦の関係に結びつくと考えるのはこれも早計過ぎる話です 。

「叱責の言葉」にせよ「褒め言葉」にせよ、いずれにせよ当たり前の話ですが「言葉」なんですよね。「言葉」というのは言語学的に言いますと「シニフィアン(聴覚像)」と「シニフィエ(意味作用)」の側面があります。ここも面倒くさい理論が色々ありますけど、簡単に言えば、あるシニフィアンは一つだけでは意味をなさず、他のシニフィアンと結合することで初めてシニフィエが形成されるという関係が成り立っています。

さて。「叱責の言葉」「褒め言葉」というのはいずれもシニフィアンです。これに対して、「叱る」「褒める」「勇気付ける」はシニフィエの位相にある。

従って言語構造的には「叱責の言葉」「褒め言葉」というシニフィアンは単体では直ちに「叱る」「褒める」という意味作用を持たず、他のシニフィアンと結びつくことで「勇気づけ」のシニフィエを形成することもあるわけです。

アドラー心理学的に言えば、要するに「横の関係」という基本的態度が大事なわけで、どんな言葉を使えばいいのかはそう重大な問題ではないということです。

こうして「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というのは、キャッチコピーとしては秀逸ですが、それをなんかドグマティークに理解してしまうと、「あれもいけない、これもいけない」となってしまい、かえって対人関係は不自然になってしまうと思うんですよね。
posted by かがみ at 10:35 | 精神分析