個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)
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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
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岸見 一郎 古賀 史健
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【書評】アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』〜劣等感と劣等コンプレックスは違う: かぐらかのん
『嫌われる勇気』の続編タイトルは『幸せになる勇気』。例の「青年」は更にめんどくさい人になって帰ってくる模様。: かぐらかのん
「すべての人は劣等感を持っている。しかし、劣等感は病気ではない。むしろ、健康で正常な努力と成長への刺激である。無能感が個人を圧倒し、有益な活動へ刺激するどころか、人を落ち込ませ、成長できないようにする時、初めて、劣等感は病的な状態となるのである。(個人心理学講義:45頁)」
「現在、わが国では『コンプレックス』という言葉が、劣等感と同義であるかのように使われています。ちょうど『わたしは一重まぶたがコンプレックスです』とか『彼は学歴にコンプレックスを持っている』というように。これは完全な誤用です。本来コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等感とは関係ありません。(嫌われる勇気:81頁)」
まずよく言われる「劣等感と劣等コンプレックスは違う」というのはどういうことかという問題について、アドラー心理学の基礎理論から順を追って考えてみましょう。
フロイトは人の根本衝動をおなじみ「性的欲動」と位置付けましたが、これに対しアドラーは人の根本衝動を「優越性の追求」であるとしました(・・・本当は2者択一の関係ではないと思うんですが、話がごちゃごちゃになるのでまた別の機会に)。
ともかく優越性の追求は「自己のあるべき理想」に向けて行われる自己実現衝動ともいうべきものです。
そして優越性の追求と表裏の関係にあるのが「劣等感」です。優越性を追求するということは、現状は「自分の思い描く理想には程遠い」という自己認識があるから、優越性の追求が存在するということは劣等感が存在するということなんですね。
別に「自己のあるべき理想」なんて高尚なもの持っていない・・・などと仰る方もいるかもしれませんが、なんにも「劣等感」を感じないということはないでしょう。「劣等感」とはドイツ語で「Minderwertigkeitsgefühl(価値がより少ない感覚)」といい、「理想と現状の落差を認識している状態」に他なりません。どんなひとにでも無自覚的・無意識的なものかもしれませんが「あるべき理想」というものは持っています。
こうした「あるべき理想」への優越性の追求(劣等感)の結果、そのひとの個人的な傾向、世界観が形成されていきます。これを「ライフスタイル」と呼ぶ。このライフスタイルこそが認知行動療法でいうところのスキーマに相当します。
そして何らかの理由でー「無能感が個人を圧倒し、有益な活動へ刺激するどころか、人落ち込ませ、成長できないようにする時」ーこのライフスタイルが拗れてしまった状態が「劣等コンプレックス」ということになります(場合によっては、その劣等感を補償するために優越コンプレックスが出現します)。
こうして順を追っていけば、劣等感と劣等コンプレックスは全く違うレベルの問題であることがわかります。劣等感を持つというのは健全な状態ですが、これが拗れて劣等コンプレックスになるのがまずいというわけです。
以上をすごく乱暴に定式化してしまうと「歪んだライフスタイル=歪んだスキーマ=劣等コンプレックス」という風に理解が可能かと思われます。
つまり、認知行動療法の治療目標がスキーマの適正な上書きにあるのと、ほとんどパラレルな関係で、アドラー心理学の目的はライフスタイルの適正な上書きということになります。アドラー心理学が認知行動療法の源流と言われますが、こうしてみると基本モデルは全く同じということがわかる。
アドラー心理学の独自性は「望ましいライフスタイル」の積極的な提案という点にあるでしょう。これが「共同体感覚」であり、共同体感覚を育むための援助の方法を「勇気づけ」と呼ぶわけです。
アドラー本人の著作である『個人心理学講義』は総評的には「読みづらい」とかまあ、言われますけど、今述べた優越性の追求、劣等感、劣等コンプレックス関係の箇所の解説に関して言えばものすごくわかりやすいです。『嫌われる』の補足にお勧めです。
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