認知行動療法というのは基本的に無意識というものを対象としていないわけです。精神分析が無意識下に抑圧された幼少期の心的外傷体験などに遡っていくアプローチであることに対し、認知行動療法は逆で、過去のことはとりあえず置いておいて、とにかく現在の嫌な気分を産み出している認知という思考システムを将来へ向かって矯正する所に焦点が当てられる。
うつ病や不安障害に高い威力を発揮することで知られてる認知行動療法ですが、その基本的な考え方はごくごくシンプルで、「認知」すなわち状況に対する自動思考やこれを支えるスキーマ(中核信念)の歪みを論理的に反駁、代替的な適正思考を立てて、それを行動により確信に至らせることで認知の歪みを矯正するという、方法論としてはPDCAサイクルそのものです。従って、心理療法の域を超えて家事や恋愛に至るまで様々な局面で応用可能という汎用性の高さがあると思います。
ただ、自動思考やスキーマの歪みを矯正する際、その反駁に精神分析的な洞察を用いることはなお有益だと思います。目の前の他人の不可解な行動も防衛機制やコンプレックスという観点から見ると案外意外な観点で読み解けるものが多いはずです。例えば、わかりやすいのが本心と真逆の態度をとる反動形成。こういう機制が発動しているのであれば、それはもう嫌われているどころか、これはもうこの上なくめちゃくちゃ好かれていることになってしまいますよね。冷たくあしらわれたから嫌われているという自動思考をそういう観点から反駁していくわけです。
要は認知行動療法は方法論として優れているけれど、無意識を考えることは全く不要か?というとそうではないということです。無意識の底を洞察するということは、いわば、この現実を現象ではなく、物語として観るということ。仮にそれが事実ではなかったとしても、それでもなお、現実をものがたることによって、ものがたりが現実を変えていける可能性も決してゼロではない、そういうこともきっとあるでしょう。
こういうものを統合的心理療法というのかどうか知りませんけど、この辺りを少し考察するのもなかなか面白いかなと、そんなことを、最近思いました。
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