なので、まずは自動思考から矯正していくことが認知行動療法の第一歩なんですが、「いやアレは忙しかったとか気付かなかったとかそんなもんじゃない、どう考えても明らかに自分はあの人に急に冷たくされた・・・」などと思わざるを得ないケースもやはりある。特にいわゆる両価的な態度についてはなかなか難しいところがあると思います。そういった場合の反駁の一つとして、たまたまその人が防衛機制を発動させていると察してみるのもいいかもしれない。
防衛機制 - Wikipedia
ジークムント・フロイトの提唱による防衛概念はそれ以後も末娘のアンナ・フロイトの自我心理学や、メラニー・クラインの対象関係論を経て発展し体系化されていきますが、フロイト系の精神分析理論では、人の社会行動は全ては畢竟、自我の防衛行動でして、いわゆる昇華の機制を始め、ユーモアや自己洞察なども、成熟した防衛行動ということになります。
一方でユング派は防衛概念自体は基本的には承認してはいますが、先に述べた昇華やユーモア、自己洞察などの肯定的な精神力動作用は、自我サイドが行う防衛というより、自己サイドから行われる自我の再統合作用と捉えているようです。
フロイトもユングも同じように無意識という領域の存在を前提とするわけですが、なんでこういった説明の違いが生じるかというと両者の無意識の捉え方が違うからです。すなわち、フロイト系の精神分析理論では、無意識というのは得たいの知れない真っ暗闇で、そこに自我理性の光を恃んで抗っていくという二元論的構図を取るんですが、集合的無意識と自己元型を承認するユング派は自我の不完全を自覚する一方で無意識の暗闇の中にも自己実現という一縷の光明を見出していく相補的ないし太極図的構図を取っているわけです。
そんな感じで、どうも話がだいぶ脱線してしまいましたが、やっぱりね、対人関係というのは親しければ親しいほど、難しいと思うんですよ。どんな状況でも通用する万能の処方箋なんてどこにもないし、時には理不尽でアンビバレンスな感情の光彩の中で一体どうすればいいのかうろたえることもあるでしょう。けれど、それもね、仔細に見てみると、それは或いは反動形成的なものだったり、或いは置き換えや投影同一視による感情転移ではないか、などと、いろいろな観点というものが出てくると思います。そうやって色々と思いを巡らせていくと、ある種の哀しみや繊細さを見出したりすることもあったりして、そうなるとその両価性がむしろ愛おしい個性にすら思えたりするのかもしれませんね。共感的に理解するとはそういうことなのかもしれません。
若干、論旨がよくわからない文になってしまった気もしますが、なんか、そういう覚書。秋も深まりつつありますこの頃、皆様、どうかご自愛を。
参考:神楽菓音:防衛機制概論
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