2015年07月04日

フロイトとロジャーズどちらが正しいのか

まさに目の眩むような巨大な問いでして、もとよりこんなところで答えは出ないんでしょうが、現時点での所感として、思ったことを書き留めるという意義も小さくないでしょう。

まずそもそもとして、どちらが「正しいのか」という問い自体、正しいのかという問題があるわけです。

例えば法律学とかだと、ある法規定の解釈についてA説B説C説と対立する説があり、そのどれかを「正しい」と主張し、他は「不当」と断じ去るわけですが、臨床心理の世界においては、各学派は一応の共存関係にあるように思えるわけです。

それでもなお、上の両者はあまりにも対照的だと言わざるを得ない。方やフロイトは無意識下で欲望にまみれたイドと倫理規範たる超自我が鬩ぎ合い、自我がその鬩ぎ合いを止揚して人の行動は決定されるという悲観的人間観を取り、その治療法である自由連想法は治療者が患者の背後から「解釈」を与えるという点で父性原理的といえます。

対してロジャーズは人は先天的に自己実現と自己治癒能力を持つ存在であるという楽観的確信があり、クライエントの言動を無条件に受容し共感的に理解するという点で母性原理的といえる。母性原理社会な我が国でロジャーズが強い人気を誇っているのはある意味で当然のことでしょう。

ともかくもロジャーズの人間性心理学はフロイト的精神分析理論のアンチテーゼとして発しているのでこのコントラストは当然と言えば当然なんですが、そうなれば、やはり人間観として性悪説なのか性善説なのかという二項対立的な問いに帰着するようにも思えるわけです。

この点において、大きく見れば精神分析の系譜に属するユングも心の中心に自我(Ego)を超越した自己(Self)を措定し、人間の自己実現傾向を認めており、そういう意味で言えば、「人はより善くなろうする存在」であるとするロジャーズ的性善説には正しい核心があるように思える。

しかしながら、心の中心である自己と意識の主体である自我の間には複雑な精神回路が介在しており、我々が日々接する現実の人間は「より善くなろうする存在」などとは遥かに程遠い、臆病でネガティヴでわがままな存在であることもまた認めないといけない。こういった現実の人間と相対しこれを素で無条件に受容できるかというと、ロジャーズならぬ我々凡人には無理な話なわけです。

そこで自己と自我の間に介在する複雑な精神回路の理解が必要となってくるわけですが、この点においてはロジャーズの自己一致モデルはあまりにも単純とも言え、ここにおいては精神分析の鋭く怜悧な心的装置概念モデルが大きな参照価値を持つ。

要はロジャーズは人の心の最深奥部のいわば「中心点」に着目したので当然に性善説的であり、フロイトは精神回路という「全体構造」に着目したのでこれもまた当然、性悪説的であるという違いという気がします。こうして、やはり本質的にどちらが正しいのかという問いは立たないという凡庸な結論に差し当たり着地したわけです。


カール・ロジャーズ入門―自分が“自分”になるということ
諸富 祥彦 
コスモスライブラリー 
売り上げランキング: 54,531
posted by かがみ at 15:57 | 心理療法