2015年05月29日

衛宮士郎の正義の味方への希求はメサイヤコンプレックス

衛宮士郎の正義の味方への希求はもはや強迫観念めいたものを感じるわけですが、精神分析的にこれはメサイヤコンプレックスというべきものでしょう。ユングによればコンプレックスとは無意識下に沈み込む感情に色付けられた心的複合体と定義される自我の統合性を脅かす存在であり、自我はその安定を保つため様々な防衛機制を作動させるわけです。ノイローゼやヒステリーもある意味で自我防衛であり、失敗した防衛機制といわれます。

衛宮士郎のケースは代償行為という防衛機制で説明できる。10年前の第4次聖杯戦争時の冬木大火災で衛宮士郎は「皆死んでしまったのに自分だけが」衛宮切嗣に「救われてしまった」。その経験は無意識層に抑圧されコンプレックスと化したことは想像に難くない。そこで「自分は自分以外の全てを救う正義の味方になる、ならなければならない」という信念を形成することで自我の安定を図った。救われてしまった代償を救うことで払うわけです。メサイヤコンプレックスは医療関係者や宗教家に多いとされますが、昏い歪な過程を経由しているだけに、その精神的基盤は思ったより脆いといわれます。結局は何かの躓きが契機となり、これまた防衛機制の作動により転じて正反対のニヒリストになってしまうことも少なくはない。まさにいまのアーチャーがそうであり、あの「理想に溺れて溺死しろ」という言葉は、メサイヤコンプレックスの成れの果ていうことなんでしょうか。


posted by かがみ at 03:00 | 文化論