⑴第一項において「国際紛争を解決する手段として」の戦争を放棄しているが、これは国際法上の用語例に習い「侵略戦争」と解すべきであり、「自衛戦争」までは放棄してない(自衛戦争留保説)
⑵ところが第二項では、戦力の不保持と交戦権の否認が規定されている為、結果的に「自衛戦争」といえどもその遂行は不可能となる(遂行不能説)
⑶もっとも「自衛戦争」に至らない「自衛権行使の為の自衛行動」の為の必要最小限の実力は保有できる(自衛力説)
⑷かかる自衛権には、自国に対する急迫不正の攻撃に対して発動する個別的自衛権のみならず、他国が第3国から攻撃を受けた場合に当該第3国に対して発動する集団的自衛権も含まれ、後者は@密接な関係にある他国への攻撃であり、かつA国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合などに限り、必要最小限度の範囲で行使可能である。←NEW!
以上、やや乱雑な素描だったかもしれませんが、ざっくり言うとそういうことです。法理的に言えば、集団的自衛権は国際法上も主権国家固有の権利であり、その行使が認められないのは、法解釈上、あまり自然なこととは言い難い。なので今回の閣議決定は憲法解釈論としてはさほど不当なものとは思えない。完全に余談ですが、昔、学生だった頃は何を隠そう憲法ゼミでして、全面放棄説に立つお花畑な女の子を限定放棄説の立場から完全論破して泣かせてしまった思い出とかがあったりして、昨今の集団的自衛権の議論を観るにつけ、ああ、あの子は今頃どうしているのかな、などと下らないノスタルジーに耽ったりもしますが、やはり芦田修正が入った制定経緯は重く見るべきでしょう。すなわち第二項冒頭「前項の目的」とは「国際紛争(=侵略戦争)を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことを指し自衛戦争の為の戦力保持は許容されるべきという限定放棄説が解釈論としては正当な筋であるとは思いますね。
集団的自衛権に対する立場を7分類&観念的平和論と個別的平和論 : 異常な日々の異常な雑記
だから煎茶さんの分類で行くと2の立場になるんでしょうかね?ただね。憲法解釈というのはそういう風に法理論だけで単純に割り切れないからこそ難しいんです。例えば、経団連なんかが9条改憲をたびたび提言していますが、その根底にある思考は政情不安定な新興国労働市場におけるリスクヘッジだったりして、それは国内産業の空洞化と表裏の関係にある。今回の閣議決定は憲法解釈論としては不当とまでは断じ去ることは出来ないものの、そういった弱者を置き去りにする新自由主義的な意図に与するものであるとすれば、果たしてそれでよいのだろうかと、複雑な思いに囚われてしまうんですよね。