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2025年09月22日
オープンダイアローグにおける「斜め」の空間
* オープンダイアローグとは何か
フィンランドの西ラップランド地方トルニオ市にあるケロプダス病院のスタッフを中心に開発された「オープンダイアローグ(OD)」は、従来、薬物や入院が必須と考えられていた急性期の統合失調症を「対話」の力で寛解に導くことで精神医療に大きなインパクトをもたらしました。
ODの実践は一見、極めてシンプルです。クライアントやその家族から電話などで支援要請を受けたら24時間以内に治療チームが結成され、クライアントの自宅を訪問。治療チームと本人、家族、友人知人らの関係者が車座になって対話が行われます。
この対話においてはすべての参加者に平等に発言の機会が与えられます。ミーティングは1回につき1時間から1時間半程度で、ミーティングの最後にファシリテーターが結論をまとめます。本人抜きではいかなる決定もされないこともODの重要な原則です。何も決まらなければ「何も決まらなかったこと」が確認されることになります。このミーティングはクライアントの状態が改善するまで、ほぼ毎日のように続けられる場合もあります。
このようにODの特色は治療者側が「チーム」で介入する点にあります。チームは精神科医、看護師、臨床心理士などで構成されますが、チーム内での序列はありません。皆が自律したセラピストとして対等の立場で対話に加わります。
そして、今後の治療方針を決める治療者同士の話し合いも患者側の前で行われます。これは「リフレクティング reflecting」と呼ばれる家族療法家のトム・アンデルセンによって開発された技法です。診断、見通し、治療方針に関する議論を全て患者の前で開示することで、さらなる対話が促進され患者の意思決定も容易になるということです。
こうしてODでは対話の場に参加者の言葉が投入されることで、自律性的に作動する対話システム(対話クラウド)が形成されていきます。こうした対話システムが作動する目的はその作動それ自体がであり、その結果として患者の中で「新しい現実」が創出され、その副産物、ないし廃棄物として症状の改善や治癒が降ってくるというイメージです。では、このようなオープンダイアローグという対話システムはいかなる治療原理によって作動し、そこではいかなる主体が現れ出る空間として把握されうるのでしょうか。
* 精神分析との比較から考える
この点、松本卓也氏は「精神分析とオープンダイアローグ」(2022)という論考(初出:石原孝二・斎藤環編『オープンダイアローグ 思想と哲学』)で精神分析との比較からODの特性を際立たせています。精神分析とODの相違はまず何よりもそれぞれの臨床が行われる空間配置にあります。よく知られるように精神分析の創始者ジークムント・フロイトはごく初期には対面法(治療者と患者が相対するような形で面接を行う方法)を用いていましたが、のちに患者を寝椅子(カウチ)に横たわらせ、治療者はその傍らに座るという特異な空間配置(背面式自由連想法)を用いるようになりました。
このような空間配置は精神分析が分析家と分析主体のあいだに生じる垂直的な関係を治療のための原動力として用いていることを意味しています。すなわち、分析家に頭を向けて寝椅子に横になることで、分析家という他者が自分の頭上にいるような位置関係が生じます。換言すれば精神分析における空間は寝椅子に横たわることで人間同士の水平的関係を人工的な垂直的関係へと作り替えているということです。そして、このような空間配置は当然、精神分析の過程で生じる現象にも関わってきます。
その典型例が「転移 übertragung」です。ここでいう「転移」とは患者が幼少期において体験していた重要な他者(両親などの養育者)との関係が現在時における患者と分析家とのあいだで再現されることを指しています。このような転移の発生を本論考は分析の場と幼少期との空間的な類似性に関連づけており「いまだ直立二足歩行を身につけていない子どもは、横たわった状態で、自分の『上』に他者がいるという空間配置のなかで人生を始めるのである」といいます。
そして精神分析の治療原理とは、このような転移を通じて患者が分析家を「厳しい超自我(これは患者の幼少期における養育者の権威的な像に由来するとされます)」として体験することに始まり、このような超自我と同一視された分析家が患者に解釈を投与することで患者が徐々に過去に形作られた超自我のイメージをより抑圧的ではないものへの更新することによって終わると考えられています。
* 水平方向のダイアローグと垂直方向のダイアローグ
では翻ってオープンダイアローグにおける臨床空間はどうでしょうか。先述のようにODのミーティングの特徴は関係者が車座になって座り、平等で開かれた対話がなされる点にあります。こうしたことからODにおける患者の語りは独語的モノフォニーではなく、多数の声が響き合うポリフォニーとなります。
このようにODでは精神分析のように患者と治療者の関係が垂直方向において展開されるのではなく水平方向において展開されており、しかも患者と治療者の関係はふたり(だけ)の関係から多数の関係へと拡張されることになります。
ただしそれはODが水平的な他者関係のなかだけでなされる治療法であるということを意味しません。ODにおいては患者の前で治療者同士が治療方針を決める「リフレクティング」により、水平的な関係のなかに垂直的な関係がいわば「弱毒化」された形で再導入されていることがきわめて重要となります。つまり患者は「リフレクティング」を観察することで、自分の心から発せられる「内なる声」と垂直的に対話することが可能となるということです。
ODの開発者であるヤーコ・セイックラが述べているようにODにおける対話には、すべての参加者のあいだで行われる「水平のダイアローグ」と、それによって触発された個人の内部での「内なる声」としての「垂直のダイアローグ」のふたつがあり、このふたつの対話の協同こそが重要になってきます。すなわち「『内なる声』が超越的な権威として作用しないようにするための「抑え」として水平方向のダイアローグを用いること。そうすることによって個人における変容を引き起こすこと。それこそがオープンダイアローグの空間で生じる治療の原理なのである」と本論考は述べています。
* 裂け目としての主体
次に本論考は精神分析とオープンダイアローグの相違を「主体」との関係から検討します。この点、精神分析における「主体 subject」とは「自我 ego」とは似て非なるものです。ここでいう「自我」とは精神分析において様々な対象を取り込んで作り上げられるパーソナリティのような比較的安定したものを指すのに対し「主体」とはむしろそのような安定したものの「裂け目」においてはじめて現れるものであるといわれます。
そしてフランスの精神分析家ジャック・ラカンは精神病(統合失調症)は「発言すること prendre la parole」を要請されるときに発病すると述べています。つまり統合失調症とは、患者が他者との関係のなかで生じた裂け目に対して主体定立的な言語的応答を行わなければならないときに、自分が他者に向けて「発言すること」ができない代わりに、他者が自分に向けて語り始めるという仕方で、発病するということです。
こうしたことからラカン派においては統合失調症の患者に対して主体を再生するようなアプローチが推奨されてきました。その一つに治療者がラカンのいう「狂者の秘書 secrétaire de l'aliéné」になるというものがあります。すなわち、妄想する患者に語りに同調するのではなく、語りを聞き届ける役目を果たすというアプローチです。
この点、本論考は統合失調症の患者は一方では「他者の世界(すなわち妄想の世界)に否応なく引き寄せられてい」ますが、他方では妄想を「自ら主体的に語り直すことによって、現実世界とも関わりを持つことができる」のであり「このような二重のあり方を利用し、妄想を否定せずに現実とも折り合いをつけていけるような構造的な二重見当識を獲得させること」こそがラカン派における統合失調症の治療指針とされてきたといいます。
* オープンダイアローグにおける「斜め」の空間
これに対してオープンダイアローグでは統合失調症における主体化の困難に対してオルタナティヴな解答を提供しているように思われると本論考はいいます。すなわち、統合失調症が主体化の要請によって発病する病であるとすれば、その主体なるものを単数的な個体に属するものとして扱うのではなく、複数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間へと開くということです。
このような実践は精神分析の文脈でいえばラカン派の臨床に対するラディカルな批判を行った精神分析家フェリックス・ガタリのそれと一定の類似性を持つように思われると本論考はいいます。フランスのラボルド病院における「制度論的精神療法」の実践から出発したガタリは病院というシステムがしばしば患者に対して上から命令を押し付ける「垂直方向」と平準化された横並びの「水平方向」の両方においてそれぞれ極端化しがちであるという認識に基づき、その両方の極端さを乗り越える次元としての「斜め横断性」の重要性を説いています。
ここには全ての参加者のあいだで平等に行われる「水平方向のダイアローグ」と各個人の中で行われる自己対話である「垂直方向のダイアローグ」の協同としての「斜め」を重要視するODとの共通性を見出すことができるでしょう。
またガタリはラカン派の精神分析が想定していたようなあらゆる言語的な行為を個人における「主体」に帰属させる「言表行為の主体」の単数的モデルを批判し、その対立物として「集団的主体性」という概念を採用しています。こうしたガタリのいう「集団的主体性」の概念もやはり専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)を持つ人物が主体の座を占めるのではなく、複数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間のなかで「主体を別様に機能させる」というODの実践に通じているといえます。
松本氏は本論考も収録されている近著『斜め論』(2025)において従来の精神病理学や精神分析が特権化しがちであった「垂直方向」の言説や実践に対する異議申し立てとしての「水平方向」の言説や実践が開く「ちょっとした垂直性」としての「斜め」に注目した議論を展開しています。こうした観点からいえばオープンダイアローグは極めて洗練された「斜め」の実践であるといえます。そして同時にそれは従来の精神病理学や精神分析がほとんど自明視していた「主体」とはひとりの個人に帰属するという前提を根本から揺るがす契機をもたらす実践であるといえるでしょう。
posted by かがみ at 21:34
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