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ラカン派精神分析の基本用語集

2025年04月21日

当事者研究と中動態の世界

* 当事者研究とは何か

当事者研究は2001年に精神障害等を抱えた当事者の地域活動拠点である北海道浦河町の「浦河べてるの家」で生まれました。この営みが考案されるきっかけは統合失調症を抱えるある男性が「爆発」と呼ばれる問題行動を繰り返して親を困らせていた時に、べてるの家を運営していた向谷地生良氏がふと「”爆発”の研究をしないか」と誘いかけたことにあったといいます。

綾屋紗月氏は『当事者研究の誕生』(2023)において「当事者研究の実践では、自らに生じる苦労のメカニズムの解明や対処法を専門家に「丸投げ」することなく、「仲間と共に、自分の苦労の特徴を語り合うなかで」、自らの症状における苦労の規則性や「自己対処の方法」などを研究していく」と述べています。

「統合失調症」は「専門家(精神科医)」が患者へ与える名称(診断)です。それはそれで意味があるものです。けれども、この名称(診断)だけでは患者一人一人の中に起こっていることは理解できません。そこで医師のような専門家に対処法を「丸投げ」するのではなく、それを仲間とともに語り合い研究していくことはできないかという着想から当事者研究は始まりました。

このような当事者研究においては当事者が自らの「苦労」をグループの前で発表することで参加者と共にその「苦労」のパターンを明らかにしながら自分の助け方を考えて、ソーシャルトレーニング(SST)と呼ばれる当事者主体の運用が可能な訓練技法によって自分の助け方を練習していくことになります。

そこでは、これまで当事者があいまいな形で抱えていた「苦労」をきちんと言語化して仲間とシェアすることにより、例えば自分を侵襲する迫害的な幻聴が対話の相手である「幻聴さん」になっていくというように「症状」と呼ばれていたものの性質に大きな変化が見られることがあります。

そしてこうした「苦労」のシェアにより当事者の周囲においても「爆発を繰り返す〇〇さん」という理解から「爆発を止めたいと思っても止まらない苦労を抱えている〇〇さん」という理解に変わり、その人の抱える「問題」がその人自身から切り離されることになります。

また当事者研究のプロセスにおいては、例えば「統合"質"調症・難治性月末金欠型」というような「自己病名」が案出されることがあります。このように自身の「苦労」にオリジナリティを与える「自己病名」は当事者が自分自身の個別性を回復する試みの一環であると同時に、自身の抱える「苦労」をユーモアと共にシェアするきっかけにもなるのでしょう。


* 意志のあるところに責任がある?

このような特徴を持つ当事者研究という営みのなかに國分功一郎氏は一見したところ奇妙な「責任」の生成を読み出しています。國分氏の主著の一つである『中動態の世界』(2017)には「意志と責任の考古学」という副題がついています。同書ははかつてインド=ヨーロッパ語に存在していた「中動態 middle voice」に注目することで現在の能動態と受動態の対立の自明性に疑問を呈するとともに、この能動態と受動態の対立に強く結びついてきた「意志」の概念を批判した著作です。

我々は日々あらゆる行為を「能動(する)」と「受動(される)」に分類しています。そしてこの「能動(する)」と「受動(される)」の区分は通常「意志」の有無に求められます。「意志」があれば能動であり「意志」がなければ受動であるとされます。

このような能動と受動を切り分ける「意志」という概念について同書は『全体主義の起源』(1951)や『人間の条件』(1958)といった著作で知られる20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アーレントが与えた定義を取り上げています。アレントはその遺作となった『精神の生活』(1978)においてこのようなアリストテレスの哲学における意志概念の欠如に注目し、アリストテレスが提示したプロアイレシスと意志の相違を論じています。

ここでアリストテレスのいうプロアイレシスとは理性と欲望の相互作用のもとで生じる何ごとかを「選択する」能力をいいます。こうした意味でプロアイレシスとは過去からの帰結であるといえます。これに対してアーレントは意志とはプロアイレシスのように過去からの帰結ではあってはならず、過去から切断された真正の時制としての未来への「絶対的な始まり」を司る能力であるといいます。

このようにアーレントの考える「意志」には切断の機能があります。あるいは「意志」とは切断そのものであるといえます。そして人はそのような「意志」を持って何らかの行為を開始したからこそ、その行為の「責任」を問われることになります。

このようにアーレントは「意志」を過去の因果関係から切断された行為の純粋な出発点に位置付けます。けれども意志が仮にもしそのようなものであるとすれば、それはとても存在するとは思えない不可能なものであると言わざるを得ないでしょう。このような「意志」があったから「責任」が生じるのではなく、むしろ「責任」を負わせるため、このような「意志」なる概念装置が呼び出されているといえるでしょう。


* 応答としての責任と堕落した責任

もとより「責任」の概念は社会の秩序を維持する上で絶対に必要とされるものです。にもかからずそのような重要な概念が意志などというよくわからない概念によって根拠づけられることを同書は批判します。その一方で同書における「責任」の概念については意志によって根拠づけられる「責任」を論ずるに留まっており、こうした意志から切り離された形での「責任」の概念を積極的に提示するには至っていません。

國分氏もこうした同書の限界はもちろん承知の上であり、こうしたことから本年出版された文庫版で新たに書き下ろされた「文庫版補遺 なぜ免責が引責を可能にするのか−−責任と帰責性」では、意志の概念によらない「責任」の積極的な概念の提示と、さらにはそのような意味での「責任」がいかにして可能になるかという仮説の提示がなされています。

同論考はまず「責任」を意味する英単語であるresponsibilityに注目します。この英単語は「応答する」という意味のrespondという動詞に由来しています。だとすると「責任ある」と翻訳できるresponsibleという形容詞は「応答できる」「応答可能性を持っている」という意味であり、responsibilityとは「応答可能性」「応答能力」とも翻訳できることが分かります。

こうした意味で責任ある世界とは人が人に応答する世界であるということです。すなわち、それは自分の振る舞いに誰かが答えてくれる世界であり、他人の振る舞いに自分が答える世界です。これに対して責任がない世界というものを仮に考えるとすれば、それは応答の可能性がゼロになっている世界であり、端的にいえば、困っている人間がいても誰も手を差し伸べてくれない世界です。

このような「応答としての責任」のあり方は「意志による責任」とは全く異なるものです。例えばある人物が何らかの加害行為を行った場合、その人物には加害の意志があったのであれば、その責任はその人物にあることになるでしょう。ここに応答に契機は全くありません。もちろんこのプロセスをより仔細に見るのであれば、次のように考えることができるでしょう。

加害行為が行われた場面においては「この人が応答すべきだ」と思われる人物がいるはずです。ところがその応答をするべき人物が応答しないため、その人物に何とかして応答させる必要があります。そこでその行為の所属先がその人物であることを示し、当然その帰結に対しても応答するべきであるという論法が用いられることになります。そして、このような論法において利用される概念装置こそが因果の切断を機能とする意志に他なりません。

ここで重要なのは「応答する」という自動詞表現で記述される行為が発生しないがために「応答させる」という使役表現で記述される行為が誘発されるということです。つまり確かにここでも応答能力が問題になっているし、その発揮が期待されているのに、期待されていることが発生していないということです。そこで何とか応答させるべく意志のような概念装置が呼び出されることになります。

応答すべきなのに応答しないから応答させる。これが「意志による責任」の内実です。このようなものを「責任」と呼ぶのであれば、それは「堕落した責任」でなくて何であろうかと國分氏はいいます。応答を強制することで生じるものは所詮「応答に似た何か」に過ぎません。しかし我々がよく知る「責任」とは畢竟このような機序から生じるものです。


* 帰責性から責任が生じるか?

そして、このような「意志による責任」とは、過失を誰かに帰するという「帰責性 imputability」と呼ぶべきものであると同論考はいいます。こうした意味での「帰責性」とは能動態と受動態の対立の中で作動する概念です。すなわち、ある行為を誰かに帰属させる側(能動)が一方にいて、他方にはそれを帰属させられる側(受動)がいるということです。

では、こうした「帰責性」から区別される「応答としての責任」とはいかなるものなのでしょうか。言うまでもなく「応答としての責任」は「負う」ものであり「負わせる」か「負わされる」ものである「帰責性」とは明確に区別されます。

この点「応答としての責任」における「応答する」とは何かを受け取った結果としてなされるものであり、さらにはその行為は自身の身にも跳ね返ってくることになります。このように「応答としての責任」には同書のいう「中動態」の意味素、すなわち「自動詞表現」「受動態表現」「再帰表現」が含まれています。つまり「責任」とは中動態によって描かれる概念であるということです。

もとより「帰責性」は社会を運営するには必ず必要なものです。ただし「帰責性」を「意志」の概念で根拠づけてしまうとかえって「帰責性」の所在をぼやかしてしまう恐れもあります。それは「そんなつもりはなかった(そんな「意志」は持っていなかった)」という極めてありふれた言い訳を考えればすぐさまに分かるでしょう。こうした意味では、社会的に必要であることが明らかな「帰責性」を根拠づける上で「意志」の概念は無益どころか有害であるともいえます。

また「帰責性」の判断が行われる場面で人々は当初は応答しようとしなかった人物が「責任」を感じて応答するであろうと期待します。けれども一方で「帰責性」は能動態/受動態の対立によって作動し、他方で「責任」は中動態によって描き出されるものであり、両者はまったく別の論理で動いています。これは「帰責性」が必ずしも「責任」をもたらさないことを意味しています。当たり前のことですが、人は罰されたからといって必ずしも自分が悪かったとは思いません。


* 当事者研究と中動態の世界

ならば中動態によって描かれるような「責任」は一体どのようにして可能になるのでしょうか。まず中動態から行為を考えることは、行為者を過去からも周囲からも完全に独立した行為の主体と見做さないということです。ある行為はその背景に無限に多くの原因を有しており、一人の行為者によって排他的に所有されることはできず、いわば無数の行為者によって共有されています。中動態の世界として描かれるこのような行為のあり方を同論考は「行為のコミュニズム」と呼びます。そして、このような「行為のコミュニズム」から生じる「責任」を考えるにあたって多くの示唆を与えてくれるものして同論考は当事者研究を取り上げています。

当事者研究はまさしく科学が自然現象を研究するというのと全く同じ意味で当事者の行動を研究します。我々は他人の行為が理解できないとき、通常「なぜそんなことをしたのか」と問うでしょう。しかしその一方で、例えば「雨が降る」というメカニズムが理解できないときは、通常「いかにしてそれは生じるのか」と問うでしょう。つまり「なぜ why」ではなく「いかに how」と問うとき、その人は科学的に考えているといえます。

当事者研究も当事者自身が自身の問題行動をあたかも自然現象のように、いかなる条件下でいかなる頻度で何を原因として起こるのかを研究します。研究である以上、研究倫理を遵守しなければならず、データ捏造や調査結果の改ざんなどは許されません。そして、科学と同様、研究成果を発表することになります(もちろん、その研究の性質上、その聞き手は一定の範囲に限定されることになるでしょう)。

このように問題行動をまるで自然現象であるかのように、換言すれば他人事のように考察するとは、ある面で当事者の「免責」を意味しています。しかし、このような研究における「免責」の段階を経て初めて、他者からの「帰責」ではない自らの「引責」が可能になるという逆説があることを同論考は指摘します。

なぜ「免責」が「引責」をもたらすのでしょうか。ここで「免責」と呼ばれているものは自らの行為が無数の原因によってもたらされた結果であることを理解する手続きであり、他方で「引責」とは「応答としての責任」の生成であり、両者はいずれも中動態によって記述される「行為のコミュニズム」に属しています。そして先述のように中動態には「自動詞表現」「受動態表現」「再帰表現」によって記述される三つの側面がありますが、これらの三つの側面は「免責」によって「引責」が可能になるプロセスのなかで順々に生じてくる段階に対応しているように思われると同論考はいいます。

もちろん当事者研究において「免責」が「引責」をもたらすという事例はあくまでたまたま上手くいった「幸運な事例」に過ぎません。けれども、少なくとも「免責」の中核をなす自身の行為の中動態による再記述は自身の行為を高い解像度で捉え直す契機となることは確かです。

かつて17世紀の哲学者スピノザはいわゆる「自由意志」を否定する一方で、自己の本性の必然性に基づいて行為することを「自由」であると定義しました。いわばスピノザの哲学は「自由意志」なきところで「自由」を志向する哲学です。こうした意味で当事者研究のアプローチもまた、自らの行為を高い解像度で捉え直していくことでスピノザのいう「自由」を回復するための技法であるともいえます。そして、このような「自由」の回復こそが「応答としての責任」をなしうるための条件であるといえるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 22:26 | 精神分析