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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2025年03月24日

コレクティフとリトルネロ



* グループとコレクティフ

1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた欲望の奔流を原理的に考察し、1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした哲学書として知られている『アンチ・オイディプス』(1972)を哲学者ジル・ドゥルーズとともに世に送り出した精神分析家フェリックス・ガタリの思想的原点は彼の生涯の職場であったラボルド精神病院における「制度論的精神療法」の実践にあります。

ここでいう「制度論的精神療法」とは病院における集団性を根本的に変革した開放的な環境の下で、さまざまなクラブ活動や演劇祭といった表現を通じて患者自身の主体性を取り戻していくという横断的な実践をいいます。ラボルド病院を開設した精神科医ジャン・ウリはこのような患者という個人よりもむしろ病院という制度に注目するアプローチを手術と滅菌法の関係に例えています。滅菌法が確立される以前の時代においては病気そのものではなくそれを治療するための手術によって命を落とす人が後を絶ちませんでした。それゆえにウリはまずは患者よりも病院という「制度」が、それも無意識に陥っている病を治療する道を選択します。

そしてこのようなラボルドにおける実践のコンセプトをウリは「コレクティフ」という概念から説明しています。この概念はもともと実存主義を代表する思想家ジャン=ポール・サルトルが『弁証法的理性批判』(1960)で用いたものです。例えば停留所でバスを待っている人々がいるとして、これはひとつの集団として考えることができますが、サルトルによれば彼らは決して革命の主体となることはありません。サルトルは単に群れているだけの集団ではなく、特定の目的を共有する組織化された集団こそが社会を牽引すると考え、前者の不十分な集団を「コレクティフ collectif」と呼び、後者の望ましい集団である「グループ groupe」から区別しています。

しかしウリはサルトルがその必要性を訴えた目的の共有と組織化こそが人間を疏外しているとして、むしろ望ましい集団とは「グループ」ではなく「コレクティフ」であるべきだと考えました。こうしたことからウリの提唱する「コレクティフ」とは「構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながら、しかも全体の動きに無理に従わされていることがない状態」のことを指しています。

すなわちガタリがラボルド病院で取り組んだ「制度論的精神療法」とは、このようなウリのいう「コレクティフ」と呼ばれる集団性を前提としているといえます。そして、こうした「コレクティフ」というコンセプトを発展的に継承した日本における実践例として批評家の宇野常寛氏は近著『庭の話』(2024)で「ムジナの庭」の取り組みを紹介しています。


*「あたりまえ」を反復すること

東京都小金井市にある就労継続支援B型事業所「ムジナの庭」はさまざまな心身の障害を持った人たちが収入を得るための技術を身につけることを目的とした施設です。また同時に同施設は利用者のケアにも注力しており、同書は「より正確には、その就労支援とケアとの境界線が曖昧になっていると、表現した方がよいだろう」と述べます。

その具体的な仕組みとしては利用者がそこで行われた作業の成果物(お菓子や雑貨や衣料品など)を販売し、その売上げを工賃として受け取るというもので、利用者の障害がどのようなものであったとしても(身体、知的、精神のいずれの障害であったとしても)18歳以上であれば利用することができるようになっており、その利用も心身のコンディションに合わせて、週に1回や1日1時間など短時間の利用も可能だそうです。

「ムジナの庭」では食べ物や小物を製作する手仕事、庭の植物の世話、アロマテラピー、散歩、当事者研究、オープンダイアローグなどといったさまざまな作業が午前と午後の2時間に配置されていますが、とくにどの作業をどのタイミングで行うかは決められていないそうです。形式上これらの作業は「生活と仕事」「からだプログラム」「こころプログラム」の3つのカテゴリーに分類されていますが、実際にそこでそれが行われている時は「単に『作業』なのだ」と同書は述べます。

そして、この「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子氏は「誰かと一緒に食事をとりながら会話をすること、昼間にしっかり身体を動かして夜にぐっすり眠ること、こうした『あたりまえのこと』を毎日反復することで、心身の回復をうながす」と述べています。

こうした「あたりまえのこと」の中に結果的に就労につながる作業が組み込まれており、むしろ鞍田氏の意図はこのような「あたりまえのこと」の反復により「眠っている身体感覚を取り戻す」ことにあり、ここから「ムジナの庭」が掲げる「ふと嗅いだ香り、ふいに投げかけられた言葉、何気なく食べているもの、作業に没頭する時間。いつの間にか心や体へ作用している要因をキャッチし、自分なりの暮らし方を見つけていきます」というミッションへ向かっていきます。それが彼女の考えるリスタートの条件であり、宇野氏のよく使う言葉でいえば世界との距離と進入角度の(再)発見に他なりません。


* ほんのちょっとしたこと les moindres des choses

「ムジナの庭」では日によって訪れる利用者の顔ぶれは入れ替わり、そこで行われる「作業」もあえて決められておらず、あらかじめ枠組みを可能な限り設定しないことが何よりも重視されているそうです。結果、そこにはある種の「わかりづらさ」が発生します。しかしこの「わかりづらさ」を引き受けることこそが重要だと鞍田氏は述べています。そしてそのような「わかりづらさ」によって確保される、ばらばらのまま人々がつながっている状態を氏はやはり「コレクティフ」という言葉で説明しています。

同書によれば「ムジナの庭」はその建物も庭も「半分だけ閉じていて、半分だけ開かれている場所」という「半透明性というべき設計」になっており、そこでは当事者研究やオープンダイアローグといった言語的アプローチによるケアの実践と並行して、身体、特に手を動かす「手仕事」という非言語的アプローチが重視されています。

こうした「手仕事」の中心にあるのは庭の手入れと、そこに生息する植物を生かしたお菓子や香料、雑貨などの製作といった作業です。つまり「ムジナの庭」とは建物や庭(の植物たち)といった「もの」の力を引き出すことで「コレクティフ」を実現しようとしているといえます。

この点、鞍田氏の夫であり民藝研究者でもある鞍田崇氏はラボルド病院と「ムジナの庭」の類似性を、その「日常へのまなざし」にあると指摘しています。氏は「生きる意味への応答−−民藝と〈ムジナの庭〉をめぐって」(2021)においてウリのいう「ほんのちょっとしたこと les moindres des choses」をキーワードとして取り上げ「僕らのまなざしは、おうおうして、この『ほんのちょっとしたこと』を見逃してしまう。コレクティフをめぐるウリの議論は、まさにこの見逃しをセーブする作用を論じるものと見ることができる」と述べています。

そして氏は「コレクティフ」な集団の成立条件としてサルトルの「バス停」の例えを引用し、むしろそこに人々をただ集める「バス停」という「もの」に注目しています。「コレクティフ」を「たまたま」という訳する氏はその「たまたま性」を担保するために「もの」の必要性を説きます。

それは同時にラボルド病院と「ムジナの庭」の大きな相違点でもあります。ウリのアプローチは病院における人間間のコミュニケーションを「コレクティフ」な状態に保つための制度設計を重視していました。対して鞍田氏のアプローチはこのようなウリのアプローチをベースにしつつ、その力点を建物や庭(の植物たち)といった人間外の事物へのコミュニケーションに移行しているところにその特徴があります。


* 事物を経由するコミュニケーション

鞍田氏は「ムジナの庭」のコミュニティ運営の指針を「コンパニオンプランツ」という園芸用語で説明しています。「コンパニオンプランツ」とは例えば家庭菜園においてトマトの側にネギを植えて害虫を遠ざけようとするように、近くに2種類以上の植物を栽培することで結果的に良い影響を与え合うことを指しています。そして「ムジナの庭」においては施設の庭に生息する植物を生かした多岐にわたる「手仕事」がこの作物たちにあたります。

また氏は「ムジナの庭」をひとつの「生態系」として捉えているといいます。こうした施設ではある利用者がいなくなったり、逆に新しい利用者が加わったりすると、全体の雰囲気や、それを生み出す利用者たちの関係性が一気に変わります。だからこそ氏は「手仕事」というむしろ人間外の事物とのコミュニケーションを重視します。

ここで重要なのは人間が一度事物を経由することで、他の人間に触れることであると同書はいいます。人間間のコミュニケーションだけで完結するのではなく、あくまで利用者の主な対話の対象は事物であり、その結果「たまたま」人間間のコミュニケーションが発生していることによってはじめて「グループ」ではなく「コレクティフ」が保たれるということです。

ばらばらのままでたまたまつながるということ。豊かな事物間のコミュニケーションが行われていること=生態系があり、そこに触れることは、人間の心身を変化させ、こうして変化した身体だからこそ成立する人間間のつながりがあると同書はいいます。このように「ムジナの庭」におけるさまざまな「手仕事」を通した試みは、当事者研究やオープンダイアローグといった人間間のコミュニケーションを用いたケアの効果を最大化するための試みであるともいえるでしょう。


* プラットフォームから「庭」へ

宇野氏は『庭の話』において今日の情報環境は社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こす「相互評価のゲーム」に支配されているとして、ソーシャルメディアに代表される「プラットフォームの時代」を内破するための方法を「庭」という比喩を用いて論じています。なぜ「庭」なのでしょうか。氏は次のように述べます。

プラットフォームには人間間のコミュニケーションしか存在しません。しかし「庭」は異なります。「庭」は人間外の事物であふれる場所です。草木が茂り、花が咲き、そしてその間を虫たちが飛び交います。「庭」にはさまざまな事物が存在し、その事物同士のコミュニケーションが生態系を形成しています。しかし同時に「庭」とはあくまで人間の手によって切り出された場です。完全な人工物であるプラットフォームに対して「庭」という自然の一部を人間が囲い込み、そして手を加えた場は人工物と自然物の中間にあります。

だからこそ人間は生態系に介入し、ある程度まではコントロールできます。しかし完全にコントロールすることはできません。「庭」とはその意味で不完全な場所です。しかし、だからこそプラットフォームを内破する可能性を秘めています。つまり問題そのもの、事物そのものへのコミュニケーションを取り戻すためにはいまプラットフォームを「庭」に変えていくことが必要であると同書はいいます。こうした同書のいう「庭」の条件とは次のようなものです。

まず「庭」とは第一に人間外の事物とのコミュニケーションを取る場所であり、第二に事物同士がコミュニケーションを取り、豊かな生態系を構築している場所であり、第三に人間がその生態系に関与できるが、完全に支配することはできない場所である必要があります。

そしてここでは人間が事物に対して「受動的な存在」になる時間が生まれる場所である必要があり、さらにそこは「共同体」であってはならず、むしろ人間を「孤独」にする場所でなければならないとされます。このような「庭」において人は事物とのコミュニケーションを通じて疑似的な「変身」を遂げることになると同書はいいます。

もちろん「庭」の条件はひとつの場所ですべて満たされる必要はなく、むしろいくつかの機能を持つ場所の複合体としての都市があり、そのなかにどれだけこの「庭」の条件をある程度満たす場所を作ることができるかが問われます。こうした意味で「ムジナの庭」は同書のいう「庭」の条件にかなり近い実践例であるといえるでしょう。


* コレクティフとリトルネロ

思えばガタリもまた事物を重視した思想家であったといえるでしょう。ガタリ(とドゥルーズ)は『アンチ・オイディプス』において様々な事物を「機械」として捉え、このような「機械」の連結によって個人の実存としての「宇宙」が立ち上がるといいます。そして、こうした「宇宙」が立ち上がるプロセスをガタリ(とドゥルーズ)は同書の続編である『千のプラトー』(1980)において「リトルネロ」という概念によって捉えています。

「リトルネロ」とはもともとイタリア語のritorno、ritornareに由来する音楽用語であり、歌の前奏、間奏、後奏における反復演奏を含意していますが、ガタリ(とドゥルーズ)によれば「リトルネロ」とはカオスの中で一瞬の準安定状態を確保して「生きられる空間」としての「領土」を創り出す契機であり、この領土はまさに事物とのコミュニケーションによってアレンジメントされることになります。

すなわち「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるリトルネロとは世界に散乱するさまざまな事物と直接結びつき、絶えず生成変化していく「領土化」「脱領土化」「再領土化」からなる一連のプロセスに他ならないということです。

このように事物とのコミュニケーションとは他者とのあいだを「コレクティフ」に留めおくと同時に、世界とのあいだに「リトルネロ」を立ち上げる契機となる存在であるといえるでしょう。そうであれば何でもない毎日の「いまここ」における「ここでいい」から「ここがいい」へという世界への棲まい方の変容とは、こうした事物とのコミュニケーションを契機とした「コレクティフ」と「リトルネロ」の相互の連関から生じるのではないでしょうか。
















posted by かがみ at 23:08 | 精神分析