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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2024年12月27日

リトルネロの魔法



* 機械からリトルネロへ

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察し、1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こした哲学書として知られています。同書の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判です。同書は精神分析のいうエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図を真正面から批判し、精神分析のオルタナティヴとして、いわば「神経症の精神病化」というべき「分裂分析」を提示することになりました。

この点、同書が展開する議論はガタリがラボルド精神病院において従事した精神病治療の実践に裏付けられています。「制度論的精神療法」と呼ばれるその実践の狙いは患者を取り巻く人やモノの空間的・時間的配置を自在に組み直していくことで、異質な要素を横断的に結びつけ、垂直的にも水平的にも脱中心化した連携からなる環境を創出し、そこから患者自身における実存としての「宇宙」を立ち上げることにありました。

このようなラボルドにおける実践を理論的に把握するためガタリが「機械と構造」(1969年)という論考で提唱した独自の概念が「マシーン=機械」です。ここでいう「機械」とはひとまず通常我々が思い浮かべるメカニカルな工業機械や産業機械のみならず、マテリアルな質料を伴う物質すべてを含む概念として定位されています。すなわち、人間や動物の身体も、植物の根も葉も茎も、そして鉱物や大地もガタリのいう「機械」です。そして、このような「機械」は「構造」としてのシニフィアン連鎖からの「切断」を促す作動原因として、新たな主観性の生産に直接的に結びついているとされます。

こうしたガタリのいう「機械」の概念はドゥルーズとの共同研究を経由して『アンチ・オイディプス』においてさらに練成されることになります。同書では人間の身体を「器官機械」として、自然界の対象を「源泉機械」として、さらには星や虹や山岳といった景色までも「機械」として把握され、こうした複数の「機械」の連結プロセスの総体は「欲望機械」による「欲望生産」と呼ばれ、ここから「無意識」とは、精神分析が想定するような抑圧された性的トラウマが浮上し再演される「劇場」ではなく、さまざまな欲望を新たに生産する「工場」である「機械状無意識」として捉え直されることになります。

さらに、ここでいう「機械状無意識」は後にガタリの著作『機械状無意識』(1979)では「共立平面」の問題系として、さらにドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』(1980)では「内在平面」の問題系として論じられ、意識作用がはじまる手前の前-意識的な身体の情動が触発される地平が一貫して問題にされていくことになります。

このようにガタリとドゥルーズによれば人がその主観性を構成する発端には機械の連結が存在するということです。すなわち、ここでいう主観性の構成とは例えば部屋に溢れかえるモノであったり、SNSでたまたま目に留まった何気ないつぶやきであったり、四季をめぐる花々の彩りであったりと、さまざまな「機械」との連結がその発端にあり、それは「共立平面」ないし「内在平面」という地平における「欲望生産」により、その実存としての「宇宙」が立ち上がるということです。そして、こうした実存としての「宇宙」が立ち上がるプロセスをガタリとドゥルーズは「リトルネロ」という概念で名指します。


* カオスのなかに領土を創り出す

「リトルネロ」とはもともとイタリア語のritorno、ritornareに由来する音楽用語であり、歌の前奏、間奏、後奏における反復演奏を含意しています。『千のプラトー』の第11セリー「1837年−−リトルネロについて」はよく知られた次のような印象的な場面から始まっています。

暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。

(『千のプラトー』より)


ここで述べられているようにリトルネロとは、まずもって「カオスの中に秩序を作りはじめる」ための営みです。暗闇の中、何が起きるかわからない状況におかれた幼い子どもは歌を口ずさみ、それを何度も反復することで、何とか不安を打ち消して一瞬であれ世界と自己との安定した関係を仮固定的に築いていくことになります。

そして、そのような営みは「領土」を表示することでもあります。換言するとリトルネロとはカオスの中で一瞬の準安定状態を確保して「生きられる空間」としての「領土」を創り出す契機であるということです。

その一方でガタリとドゥルーズは続けて次のような場面からもリトルネロを説明しています。

逆に、今度はわが家にいる。(中略)一人の子供が、学校の宿題をこなすため、力を集中しようとして小声で歌う。一人の主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ。(中略)だが、とりわけ重要なのは、子供が輪になって踊るのと同じように、輪の周囲を歩き、子音や母音を組み合わせてリズムをとり、それを内に秘められた想像の力や、有機体の分化した部分に対応させるということである。速度やリズムやハーモニーに関する過失は破局をもたらすはずだ。それをカオスの諸力を回復させ、創造者も被造物も破壊することになるからである。

(『千のプラトー』より)


室内という外部から遮断された空間においても、あるいは子供が手をつないで輪をつくった中においても、口笛を鳴らしたり、歌を歌を歌うことで、その空間を自らの「領土」とします。しかし一瞬でも歌う速度やリズムやハーモニーが狂いはじめると、そこにはたちまちカオスが回復してくることになります。

いずれにしてもリトルネロとは石や木々や星や椅子や机や玩具など、あるゆる欲望機械の部品(部分対象)における質料のエネルギーを器官機械たるもうひとつの物質たる身体が受容して、発声や動作によって世界にエネルギーを折り返していくという「質料とのコミュニケーション」による「領土性のアジャンスマン(アレンジメント)」として表現する過程であるということです。


* 輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開く

そしてガタリとドゥルーズはさらに続けてリトルネロを次のような場面として描き出しています。

輪を半開きにして開放し、誰かを中に入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分が外に出て行き、駆け出す。輪を開く場所は、カオス本来の力が押し寄せて側にではなく、輪によって作られたもう一つの領域にある。それはあたかも輪そのものが、みずからの内部に収容した活動状態の力と連動して、未来に向けて自分を開こうとしているかのようだ。そして、いま目的となっているのは未来の力や宇宙の宇宙的な力に合流することなのである。身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体になるのとなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作や音響の線に、「放浪の線」が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作や音響があらわれる。

(『千のプラトー』より)


つまり、最初の子どもが暗闇を歩いているというリトルネロの場面がいわば大地に輪を描く局面であり、次の家の中で子どもが宿題をしたりしているリトルネロの場面がいわば描かれた輪の周囲で躍る局面であるとすれば、ここで描かれるリトルネロの場面は輪の内部に蓄積された活動力が輪を突き破り外へと自らを開いていくこと、また外部の力を内部に引き込んでいく局面であるといえるでしょう。

この点、こうしたリトルネロの三つの局面を伊藤守氏は『フェリックス・ガタリの思想』(2024)において「輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開く」というシンプルな言葉で言い表しています。そして、こうしたリトルネロの三つの局面の関係につきガタリとドゥルーズは次のように述べています。

いま述べたことは特定の進化における継続的な三つのモメントではない。同一の事象における三つの局面なのである。そして同一の事象とはリトルネロのことだ。三つの局面は、ホラーにも、おとぎ話にも出てくるし、リートにもあらわれる。リトルネロは三つの局面をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場面が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラック・ホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。あるときは、一つの点の周りに静かで安定した「外観」を作り上げる(形式ではなくて)。これによって、ブラック・ホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラック・ホールの外に出る。

(『千のプラトー』より)



* 宇宙を生み出すということ

ガタリは遺作となった『カオスモーズ』(1992)において以上のようなリトルネロの三つの局面を次のように再定式化しています。まず第一の局面は「実存の領域をとらえる境界画定のリトルネロ」であり、次に第二の局面は「集合的実存の領土」といわれる領土の内部で集合性を形成するものです。

これに対して第三の局面をガタリは「横断的リトルネロ」と呼び「そこに関係してくるのは参照の宇宙ではなく、生産されると同時にその所在を割り出すことができ、生み出したばかりでも元来そこにあり、まるで無窮の過去から存在したかのような非物質的実在の領域」としての「非物質的な宇宙」が広がっているといいます。

『リトルネロ』の概念によって、われわれは、まとまった塊のような情動だけではなく、最高度に複雑で、音楽や数学のように非物質的な宇宙への入り口を開く触媒となり、脱領土化の度合いが最も高い実在の領土を結晶させるリトルネロをも捉えようとしている。

(『カオスモーズ』より)


ここでリトルネロは世界の具体的な状況のなかでさまざまな要素が同時に絡み合いながら出現する出来事において一瞬与えられる「非物質的な宇宙」を触媒する契機として位置付けられることになります。そしてこのような契機は日常のいたるところに見出されるでしょう。例えばひとつの詩や音楽が紡がれる時、その速度やリズムやハーモニーから思いもかけない新たな「宇宙」が生み出されるということです。
 
   
* リトルネロの魔法

人はカオスに直面した時、不安や恐れに襲われ、自らの進路を見失ってしまいます。けれども人は何とかそれを乗り越えるべく、その時空にかすかな秩序を、あるいは希望を取り戻すべく、ひとつなぎのリトルネロを口ずさみます。まさにそこにガタリは「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるための「領土」を見定めます。

すなわち「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げるリトルネロとは世界に散乱するさまざまなモノ(質料)と直接結びつき、その置かれた環境に応じて絶えず生成変化していく「領土化」「脱領土化」「再領土化」からなる一連のプロセスに他なりません。そして、ここでいう「領土」とは、あるいは「居場所」と言い換えてもいいでしょう。

輪をつくり、輪の内部をアレンジし、輪を開くということ。こうしたリトルネロにおける三つの局面は、人の「領土」ないし「居場所」としての「いまここ」をいわば「ここでいい」から「ここがいい」へと変えていきます。こうした意味でリトルネロとは例えば読書をしたり、料理をしたり、片付けをしたり、創作をしたりといった日常における様々なモノとのコミュニケーションからなる「いまここ」のただなかに「実存の時空間」としての「宇宙」を立ち上げる日常のアレンジメントであるといえるでしょう。
















posted by かがみ at 00:23 | 精神分析