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ラカン派精神分析の基本用語集
2024年09月22日
精神病理と民俗
* 強迫性障害の諸相⑴
「強迫性障害 Obsessive-Compulsive Disorder:OCD」とは強迫観念や強迫表象と呼ばれる不安を伴う思考やイメージを解消するため何らかの強迫行動を繰り返し日常生活に支障が出てしまう精神疾患です。「強迫 Zwang」という概念そのものは1867年にリヒャルト・フォン・クラフト=エビングが用いた強迫表象の語に由来し、このような強迫表象をカール・ウェストファルは「強迫表象とは、知能は正常で、感情状態或いは感動状態に関係がなく、当人の意志に反して、或いは意志に矛盾して意識の前景にあらわれ、追い払うことができず、観念の正常な流れを妨げ、当人にとって異常で無縁なものに思われ、健康な意識に対立している」であると定義しています。
このウェストファルの定義によれば強迫にとって第一義的なものは強迫表象ないし強迫観念であって、強迫行為は二義的なものとなりますが、これに対して強迫観念や強迫表象はその背後にある不安に対する防衛として生じているという見解もあります。
フランス語圏では強迫を一種の「狂気 délire」とする見解もありますが、ジークムント・フロイトらの精神分析的な研究により長らく強迫性障害は「神経症」の一種と見做される傾向にありました。もっともDSM-5ではそれまで不安障害 anxiety disorderという大分類の中で転換症などと一緒に並べられていた強迫性障害が大分類として独立させられており、これは強迫性障害の生物学的な基盤が近年はっきりとしてきたことを受け、かつての神経症とは区別して捉えらえようというニュアンスを持った変更であるとされます。
また近年の傾向として、強迫を単一の定まった精神障害としてではなく「強迫スペクトラム障害 Obsessive-Compulsive Spectrum Disorder」として捉え、醜形恐怖、心気症、摂食障害、抜毛症、強迫買い物症、さらには妄想性障害や自閉症の一部を含むものとして考える動きも出てきています。
* 強迫性障害の諸相⑵
強迫性障害においてしばし見られる強迫観念としては、手にばい菌がついているのではないかと不安になる洗浄強迫、特定の動作がきちんとできていないのではないかと不安になる確認強迫、自分が汚れているのではないかと不安になる不潔恐怖、自分が不注意によって他人に危害を加えたのではないかと不安になる加害恐怖、自分に被害が及ぶのではないかと不安になる被害恐怖、重大な病気にかかってしまったのではないかと不安になる疾病恐怖などが挙げられます。また重大なものを捨ててしまうのではないかと思いから、ありとあらゆるものを溜め込んでしまい、結果として家がゴミ屋敷のようになってしまう「強迫的ためこみ compulsive hoarding」も知られています。
そして、洗浄や確認といった強迫行為は必ず強迫観念や強迫表象の後に生じる二次的なものであり、強迫観念や強迫表象なしに強迫行為が一次的に出現している場合は脳炎などの器質性精神障害を考えるべきとされています。
強迫性障害の治療には大きく分けて薬物療法と精神療法があります。薬物療法では主としてセロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)が用いられています。強迫性障害の精神療法はかつては力動的なアプローチがなされていましたが、現代では薬物療法に加えて行動療法や認知行動療法が行われており、特に「暴露反応妨害法 Exposure and Response Prevention:ERP」という方法がよく用いられています。
この方法ではまず患者が不安に思っていることを多数書き出し、それらを不安の強さに基づいて階層化します。そしてなるべく不安の強さの低いものから順に、不安を引き起こす事柄に「暴露」されても、強迫行為を行わないようトレーニングしていきます。このような作業を反復的に行うことによって徐々に不安が低減されるようになるといわれています。
* 民俗神経症
精神科医の成田善弘氏は「強迫観念にとりつかれると、今まで健全で、信頼しうる合理的な空間が後退し、世界が変質する。明るい表層の現実が後退し、暗い、不気味な、本来秘密で隠されてあるべきものが顕在化してくる。彼らはいたるところに崩壊、腐敗、死の影を見るため、それを防衛する呪術を展開せざるを得ない」と指摘しています。すなわち、同じ時空間を生きながら強迫症の患者はまったく違う日常を生きているということです。
ところで、このように強迫性障害の特徴である「強迫観念/強迫表象→強迫行動」という「繰り返し」は、ある面において「民俗」と呼ばれるものと共通する要素を持っています。この点、民俗学者の及川高氏は「来るべき日の民俗学−ルーチン・フィードバック・スケール−」(『現代民俗学研究』二号(2010)所収)という論考において民俗学の対象とは人びとが一日、一年といった単位で繰り返す「ルーチン」、すなわち繰り返される日常であり、現代民俗学が解明していくべきは繰り返されるルーチンとそれらが生み出すフィードバックの機制であるというように論じています。
そして、こうした観点から民俗学者の辻本侑生氏は「繰り返すことの民俗学 日常・クィア・強迫症」(『現代思想』2024年5月号「民俗学の現在」所収)という論考において強迫性障害(同論考では強迫症と表記)への民俗学的アプローチの試みを論じています。
まず同論考において氏は精神科医、北山修氏の「病的であれ日常的なものであれ、私たちが共有する祟り、祓い、汚れなどの習俗に根ざした訴えを同形に共有する事例を私は「民俗神経症」と呼んでいる」という言葉を引用しつつ、民俗学と比較的親和性のある強迫症の症例報告をいくつか取り上げています。
例えば「忌み言葉」など縁起担ぎと呼ばれる民俗事象がありますが、縁起担ぎの度が超えるとその人が「縁起が悪い」と思っているものに触れた途端、着替えたり、必要以上に手を洗ったり、といった行動に支配され、日常生活が困難になる「縁起強迫」と呼ばれる症状となります。また神仏への信仰も日常に根ざした民俗事象ですが、これが一線を超えて例えば神仏像の前を通るたび「ごめんなさい」と謝罪しなければ気が済まなくなったりすれば、それは「瀆神強迫」と呼ばれる強迫行為となります。
* 民俗学的手法と当事者研究
このように精神病理学においては強迫症に見られる「民俗的なるもの」の要素を指摘しています。では民俗学においては強迫症にいかなるアプローチができるのでしょうか。
この点、辻本氏自身、2015年から強迫症に罹患しており、特に「他人に何か危害を加えてしまったのではないか」という「加害恐怖」に支配され、それを打ち消すため、本当に危害を加えていないか、来た道を何度も確認する強迫行動に支配される日常を繰り返していたそうです。もっとも症状がひどい時には恐怖が原因で新宿区の打ち合わせ会場から当時暮らしていた品川区の実家まで来た道の確認を繰り返し、帰宅するのに5時間かかったことがあると氏は述べています。
そこで氏は日々の生活をノートに記録した上で、どういうタイミングに強迫観念が襲い掛かるのかという分析を行ったそうです。これは日常生活を捉える民俗学的手法であると同時に、精神疾患を有する人々が自身の症状を分析し、より良い生を送ろうとする「当事者研究」と呼ばれる手法に強く影響を受けているとのことです。
そして分析の結果、氏は楽しかった飲み会や自身が進行して首尾よく議論が進んだ仕事での会議の帰り道など、幸せなことや物事が上手くいったことの後に加害恐怖が襲い掛かりやすいことが明らかになったといい、このような幸せなことがあった後に強迫観念が襲い掛かるという分析結果は川島秀一氏がフィールドワークをもとに示した東北地方太平洋沿岸部の災害観と極めてよく似ていると述べます。
ここで川島氏が漁師から聴き取ったという「大漁が続いた後には、何か不幸なことが起こる」という感覚は幸福と災害が繰り返し現れ、幸福なことの後に不安に苛まれるという強迫症ではない人々も有する民俗的な心性を見出すことができるでしょう。ここでは個人的な日常に生起する状況を理解する上で、一見離れた地域の災害観が極めて重要な補助線をなしており、こうした事例をつなぎ合わせることで日常的な「被災」状況を過ごしている強迫症の人々は「異常」とされない人々が生きている日常に自らを接続することができるのであると辻本氏は述べています。
* 精神病理と民俗
日本民俗学の祖、柳田国男は民俗学の対象となる「民俗資料」を「有形文化」「言語芸術」「心意現象」に分類しています。これは「三部分類」と呼ばれています。その第一部「有形文化」は日々の暮らしの物質的側面であり、物体として可視的に存在するゆえに目によって観察ができるため、それは誰でも採集が可能なものです。その第二部「言語芸術」は暮らしの中にある言葉の営みであり、口から語られ耳で聴き取られるものであるため、それは当該言語を理解する者によって採集されます。
そして、その第三部「心意現象」は人の心に刻まれ心で感じるものであることから、それは「同郷人」によって採集されることになります。なお、ここでいう「心意現象」の典型は「〇〇をしてはいけない」という「禁忌」であり、また「同郷人」とはこのような「心意現象」を共有できる広い意味での当事者を意味しています。
こうしてみると強迫性障害の枢要部にある強迫観念や強迫表象はいわば属人的な「心意現象」であるといえるでしょう。そしてある地域社会において「伝統」や「風習」や「しきたり」などと呼ばれる民俗的事象とは、その地域における集団的な強迫行為であるともいえそうです。
すなわち、精神病理学が扱う「疾患」とは決して「異常」な「非日常」ではなく、むしろ民俗学が扱うような「伝統」や「風習」や「しきたり」などと呼ばれる「正常」な「日常」と地続きであるといえるでしょう。そうであれば、こうした観点から精神病理学と民俗学を架橋することにより「正常/異常」や「日常/非日常」といった二項対立を揺るがしていくような知を得ることができるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 21:23
| 精神分析