【参考リンク】

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現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2024年08月23日

生命の円環




* 生命一般の根拠

日本を代表する哲学者、西田幾多郎は『善の研究』(1911)においてこの世界を構成する実在として主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」を位置付けました。その後西田は「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達します。さらにここから晩年の西田は「絶対無」を破断的に内在させた「個物=生命」の世界を描き出していきます。

このような「個物=生命」による相互限定からなるポイエシス的作用を西田は「行為的直観」と呼びます。この点、西田は「行為的直観」とは「作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものと云うことそのことが、否定せられるべきものであることを含んで居るのである。併し作られたものなくして作るものと云うものがあるのではなく、作るものは又作られたものとして作るものを作って行く」と述べてます。

かなり難解な言い回しですが、要するに「個物=生命」とは世界によって「作られたもの」であると同時に世界を「作るもの」でもあるということです。そして、こうした「個物=生命」による「行為的直観」が織りなす世界を西田は「絶対矛盾的自己同一」と呼びます。

ここで西田は「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」という術語を用いてある種の生命哲学を展開しています。そして、こうした西田哲学を基盤として独自の精神病理学理論を築いた木村敏氏はその「生命論的転回」の嚆矢となった著作『あいだ』(1988)において次のような仮説を提示します。

この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。

(木村敏『あいだ』より)


生命の実体や生命の起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることは言うまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学的視野に中にある「生命」とはどこまでいっても「生命物質の生命活動」のことです。たとえ「生命物質の生命活動」が余すところなく解明できたからといって、個々の「生命物質の生命活動」とはまったく位相を異にする「生命それ自身」ともいうべき存在様式が明らかになったとはいえません。

このような「生命それ自身」は「生命物質の生命活動」のように個別的な認識の対象になりませんが「生命それ自身」はこの地球上に存在するすべての生きものが現に「生きている」ということの根拠となっています。すなわち、すべての生きものが「生きている」とはこの意味においての「生命一般の根拠とのつながり」が保たれている、あるいは切れていないということに他なりません。そうであれば我々が世界や自己における経験を事実のままに説明するためにはどうしてもこのような「生命一般の根拠」というべき存在を仮定しなくてはならないということです。


* ヴァイツゼッカーの医学的人間学

そして木村氏がこうした生命論を展開する上で西田と共に特権的に参照する思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーです。ヴァイツゼッカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物ですが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られています。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえます。しかし、ここでヴァイツゼッカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念です。

彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指しています。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼びます。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになります。

このような「相即」と呼ばれる事態を支えている知覚と運動の円環構造をヴァイツゼッカーは「ゲシュタルトクライス」と呼びます。そしてこのような構造を生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになります。すなわち、彼のいう「主体」とは、いわば生きものとその環境との「あいだ」の現象であると理解できます。

こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用されます。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということです。

こうしたことからヴァイツゼッカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができません。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということです。このような生きものと「生命」の「あいだ」を、彼は「根拠関係」と呼びます。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張します。


* 世界とのかかわりと生命とのつながり 

この点、木村氏は世界とのかかわりとしての「主体」と生命とのつながりとしての「主体性」という二つの主体概念の関係を音楽を例にして説明します。この点、音楽の演奏は少なくとも次のような三つの契機から成り立っています。すなわち⑴瞬間瞬間の現在において次々と音楽を作り出していく行為と⑵自分の演奏している音楽を聞く作業と⑶これから演奏する音や休止を先取り的に予期することで現在演奏中の音楽に一定の方向を与える作業です。

その上で氏は音楽を演奏する行為的な側面を音楽の「ノエシス的」な面と呼び、その時に我々が意識している音楽の演奏を音楽の「ノエマ的」な面と呼びます。いままさに音楽を演奏するという第一の契機は音楽のノエシス的な面にほぼ相当し、これまで演奏された音楽を参照する第二の契機とこれから演奏される音楽を先取りする第三の契機は音楽のノエマ的な面に相当します。

音楽のノエシス的な面であるその都度の演奏行為がそれ自体として独立に意識されることは決してなく、我々が経験できるのはいつもこれまでに演奏された音楽かこれから演奏する音楽のどちらでしかなく、これはいずれも音楽のノエマ面の意識に他ならりません。

つまり我々は演奏という行為と聴覚という感覚の両面で音楽の世界と関わっているということです。これは知覚と運動を一元的に把握するヴァイツゼッカーのいう「ゲシュタルトクライス」の格好の実例であるといえます。すなわち、ここで演奏者は絶えず「世界とのかかわり=主体」というものに直面すると同時に「生命とのつながり=主体性」を見出すことができているということです。


* ノエシス・ノエマ・メタノエシス

これは何も音楽だけではなく、例えばわれわれが何か話したりする時や本を読んだりする時にも当てはまります。これらの場合も「話し手/読み手」の意識に表象されたノエマ面である「話された内容/読んだ文章」が「次の話/次の読み」を限定するノエシス的な作用を営むことになります。

すなわち、ここでは「話し手/読み手」の意識の中には現在「話している/読んでいる」という「第一の主体」の他に「話された内容/読んだ文章」そのものが「第二の主体」としてノエシス的な作用を営んでいることになります。

このような直接的に世界と出会って音楽や言葉や文字を作り出し意識の中にノエマ的表象を送り込んでいる「第一の主体」も、すでに「作られた」ものの背後から働いてその「作る」行為に一定の方向を指示する「第二の主体」もいずれも意識のノエシス面に位置していますが、この二つの関係は決して互いに平等ではなく「第二の主体」は「第一の主体」に対して「ノエシスのノエシス」としての間主体的な「メタノエシス」の立場にあります。

つまり二つの主体が別々に存在するわけではなく「第二の主体」がその一局面として「第一の主体」を包摂しているということです。すなわち、ヴァイツゼッカーのいうところの「根拠関係」としての「主体性」は「世界との出会いの原理」としての「主体」を包含して限定しており「ゲシュタルトクライス」の究極の根源は生命一般の根拠とのつながりの中に見出されることになります。


* 生命の円環

以上の議論の全体の構造はほぼ次のようになっています。人間は生物として生命一般の根拠との「あいだ」に絶えず関係を持ち続けています。この関係は世界との「あいだ」の瞬間瞬間のノエシス的・実践的な行為的関係を通じて保持されています。この刻々のノエシス的行為は、そのつど意識の中に認知対象として個々のノエマ的表象を送り込みます。

そして、このノエマ的表象は、そのつどのノエシス的行為が全体的な生命一般の根拠とのつながりから外れないようにこれを制御する標識として役立っています。それゆえにこのつながりが個々のノエシスを包む高次のメタノエシスとして作用する際にも、個々のノエマ的表象の複合的な全体、つまり世界表象のようなものが制御の標識の役目を果たすことになります。

このノエシス的行為面とノエマ的意識面との「あいだ」でノエシスがノエマを生み出すそれ自体ノエシス的な働きが、いわゆる「自己=我」を成立させる場面ということになります。つまり「自己=我」という概念はノエマ的意識を抜きにしては考えられません。それゆえに我々はこうしたノエマ的意識を滅却した純粋なノエシス的な行動を通常「無我」とか「忘我」などと呼んでいます。

こうしてノエシスとノエマはひとつの円環を描きだすことになります。このような円環を西田は「作られたもの」と「作るもの」からなる「行為的直観」として捉え、ヴァイツゼッカーは知覚と運動からなる「ゲシュタルトクライス」として捉えました。そして、このような円環を駆動させているものこそがヴァイツゼッカーのいう生命との「根拠関係」であり、木村氏のいう「生命一般の根拠とのつながり」ということになるでしょう。

こうした意味で我々が日々において固執する「自己=我」とは、いわば「生命の円環」というべき、より大きな存在様式の中から産み出されたものであるといえるでしょう。そして、こうした根源的な関係をあえて比較的、馴染みのある日本語に言い換えるとすれば、それはおそらく「物語」と呼ぶことができるようにも思えます。社会共通の「大きな物語」が失われ、人間の固有性が問い直されつつあるポストモダン/ポストヒューマニズムにおいてはより一層なお、こうした人の生のアクチュアリティを基礎付ける「物語」としての生命の存在様式を直視する必要があるのではないでしょうか。






















posted by かがみ at 22:45 | 精神分析