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2024年02月22日
統合失調症中心主義とポスト・ヒューマニズム
* 存在と狂気
20世紀最大の哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーが1927年に公刊した主著『存在と時間』は「存在の意味」の解明をその目的に謳っています。同書はまず上巻でその準備作業として現存在(人間)の実存論的分析を展開し、続く下巻では同書の本来の目的である「存在の意味」が解明されるはずでした。しかし同書上巻の公刊後「存在の意味」を問うための準備作業であったはずの現存在の実存論的分析がまさに「存在の意味」の解明という本来の目的を阻害するという構造的欠陥に気づいたハイデガーは同書下巻の公刊を断念します。
それ以降、ハイデガーは現存在を経由することなく「存在の真理」を直接問うようになります。これがいわゆるハイデガーの「転回 Kehre」と呼ばれるものです。そして、このまさにその「転回」を迎えつつある時期に執筆された「芸術作品の根源」という論文においてハイデガーは芸術を通じて「存在の真理」を論じています。
本論文でハイデガーは芸術作品を次のような4つの時代に区分けしています。まず、プラトンが『国家』において論じたような⑴芸術作品が模倣によって作られた時代があります。そのあと⑵芸術作品のうちに「存在」が据えられるようになる時代が来ます。次に⑶中世になると芸術作品は「神によって創作されたもの」としての存在者になります。そして⑷近代に入ると芸術という存在者は「計算」によって統御可能なものに変貌します。そして、ハイデガーはこの論文では⑷の近代以降の、いわば神が不在になった時代の芸術作品を論じています。
そして本論文の中でハイデガーはフィンセント・ファン・ゴッホが描いた百姓靴の絵画《古靴》(1888年)を近代以降の芸術における範例として取り上げています。一見するとこの絵は単に百姓靴を描いただけですが、ハイデガーはこの靴は道具としての靴が属する「世界」と道具としての靴を生み出す「大地」の「抗争」が力強く立ち現れているとして、絵画が事物と一致しているか(本物そっくりに描けているか)どうかは絵画において真理が生起しているかどうかとはまったく関係がなく、むしろ絵画は事物をこれまで気づかれていなかった新たな角度から描くことで、その見方を一変させて「不気味で途方もないものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できるとみなすものとを、衝撃的に打ち倒す」ものであると主張します。
すなわち、絵画という芸術は事物を見る我々の視点を「移動=逸脱 Verrückung」させて、日常的な物の見方をすっかり変容させてしまう働きを持っているということです。ここからハイデガーは次第にこの「移動=逸脱」という言葉についての考察を深めていきます。例えば1937〜1938年の冬学期講義『哲学の根本的問い』の第一草稿の中でハイデガーはこの「移動=逸脱」という言葉を理性が正常から偏奇=逸脱 Verrückenした状態を指す「狂気 Verrücktheit」と関連づけて論じています。
この点、ハイデガーは神の庇護を失った西洋の近代人には人間という存在の変貌が生じており、かつてあったような自分の所在地を失ったという意味において危機的な状況にあるとして、そのような時代には人間の本質の根拠へと「移動=逸脱」することが必要となり、そのように「移動=逸脱」はしばし「狂気」として現れるといいます。こうしてハイデガーは近代における特権的な芸術家として、時に「狂気の詩人」とも呼ばれるドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンを繰り返し論じ、彼の詩作の解明を通じて「存在の真理」の探求を行っていく事になります。
* ヘルダーリンと統合失調症
ヘンダーリンは1770年3月20日にネッカール湖畔の小さな町で出生しました。父親は修道院と教会の管理人でしたがヘンダーリンが2歳の時に亡くなっています。ヘルダーリンは元来傷つきやすく孤独を好み、どこか人生によそよそしさを感じており、他者に対してはしばしば猜疑心を起こすメンタリティの持ち主だったようです。
十代の頃より詩作に深い関心を寄せていたヘルダーリンは1791年に「調和の女神への讃歌」で詩人としてデビューし、当時を代表する詩人であったフリードリヒ・フォン・シラーの知遇を得て、1794年にはシラーが編集する雑誌に「断片ヒューペリオン」を発表し、1797年には『ヒューペリオン』第1巻を刊行します。しかしその後、恋愛トラブルと生活苦に陥り、この頃から精神に不調をきたし始めます。
1799年の『ヒューペリオン』第2巻の刊行後、ヘルダーリンの頭には新たな文学的・美学的・哲学的雑誌を創刊するという考えが閃きますが、シラーの協力を得られず、その閃きは結局のところ実現化することはありませんでした。その後、ヘルダーリンの精神の危機はいよいよ深刻なものとなり、痴呆化が徐々に潜行し、叫んだり暴れたりする狂暴発作を繰り返すようになり、まさに「狂気」というべき様相を呈していきます。こうしてヘルダーリンは1807年には『ヒューペリオン』の熱心な読者の家に引き取られ、以後、1843年に73歳で没するまでの生涯をその家の塔の中で過ごすことになりました。
もしもカルテが残っていればヘルダーリンの「狂気」は現代においては統合失調症と診断されていた可能性が高いといわれています。そして「パンと葡萄酒」といった彼の代表的な詩作はまさにその発病前後からその極相を迎えた時期にかけて作られたものでした。この点、精神病理学者カール・ヤスパースは1922年の『ストリンドベリとファン・ゴッホ』において統合失調症者においては一時的に「形而上学的な深淵」が啓示されるとして、1801年から1805年にかけてのヘルダーリンがまさにそのような状態にあり、それゆえに彼は優れた詩作を行うことができたのだと主張しました。
* ハイデガー哲学の統合失調症化
そしてハイデガーは、この「狂気」の中でヤスパースのいうところの「形而上学的な深淵」に不可避的に引き寄せられながら詩作を行ったこの詩人を範例として「存在の真理」をめぐる自身の思索を深めていきます。
例えば1936年の講演「ヘルダーリンと詩の本質」でハイデガーは詩人が行う詩作は神に名前を与えることであるが、詩人が神に名前を与えることができるのは、神の側が詩人に「合図 Wink」を送り、その合図のなかで詩人たちのことを話題にするかぎりにおいてであるといいます。すなわち、神のような超越的な他者から人間に向けて何らかの謎めいた「合図」が起こられ、その「合図」が人間に対して「何か」を仄めかすという体験はまさに統合失調症の初期から急性期にしばしば報告されるものであり、ハイデガーによる神の「合図」の記述はまさに統合失調症の体験を描写しているかのようでもあります。
この点、精神病理学者の松本卓也氏は『想像と狂気の歴史』(2019)において病跡学的な観点からいえば「転回」以後のハイデガーによるヘルダーリンの詩をめぐる議論は統合失調症の精神病理学に肉薄していると指摘し「統合失調症化」した後のハイデガー哲学はいわゆる「否定神学」的な構造を持つようになると述べています。ここでいう「否定神学」というのは神は人間の認識や言語では捉えられないが、むしろその「捉えられなさ」という否定性それ自体が重要だとみなす考え方をいいます。そして、この「否定神学」では「神は現れないが『現れない』という仕方で現れる」という思考法がしばし用いられます。
こうした意味でハイデガーのヘルダーリン論における「否定神学」的な構造が最もよく現れているのが1946年の「何のための詩人たちか」という論文です。この論文の中でハイデガーはヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」を参照しながら、ヘルダーリンを「乏しい時代 dürftiger Zeit」の詩人であると規定します。ここでいう「乏しい時代」とは、神によって支えられていた時代が過ぎ去った後に到来する神なき時代のことをいいます。
そして、ハイデガーによればヘルダーリンのような詩人の詩作とは、いまや逃げ去ってしまった神々の「聖なるもの」としての「痕跡」を感知し、その「痕跡」に名を与えることで、再び人間が神々と出会うことのできる場を準備し、将来において神々が到来する可能性を確保する営為に他ならないということです。つまり神が人間の前に姿を現さなくなった時代においても人々は「痕跡」という否定的な形で神と出会うことができるということです。すなわち、ハイデガーが論じる「神」とは人間の通常の認識や言語では捉えられないものですが、むしろその「捉えられなさ」という否定性それ自体が、神との出会いや将来における来るべき神の到来を保証する条件になっているということです。
* 詩の否定神学と統合失調症中心主義
こうしたハイデガー哲学における否定神学的な傾向は1950年代以降の詩論においてより洗練された形態をとって反復されることになります。例えば1952年の講演をもとにした「詩における言葉−−ゲオルク・トラークルの詩の論究」という論文でハイデガーはトラークルの詩を題材にしながら、偉大な詩人が作り上げる個々の詩は、そのすべてが唯一の「語られぬまま」の詩、すなわち不在の詩の場所から由来しているとして、詩人の偉大さとは「詩人の心がこの唯一のものにどの程度まで吐露されており、それによって詩人がその詩の言葉をこの唯一のものの中でどれ程純粋に保ちうるに至っているか」によって測られると主張します。この考え方にも(神の)不在の近くに留まりながらその不在に忠実であることから詩作が行われるという否定神学的な構造を見ることができます。
さらに1958年の講演「語」では再びヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」が参照され、ここでハイデガーは「かつて神々が立ち現れた場所は、かつてはそこに語があったのに、いまでは拒絶された語である」と述べ、シュテフィアン・ゲオルゲの詩「語(ことば)」における「語の欠けるところ ものあるべくなし」という一節を「(語が欠けた場所においては)語るという行為 Sagen が転換し、語りえない言い伝え unsäglichen Sage がほどんど隠されたざわめく歌のように反響するようになる」と解釈します。ここでもやはり「語」の欠落という否定性は、むしろその欠落した語を暗示する言葉に向かうという否定神学的な構造が語られています。
このようなハイデガーの語る詩作における否定神学的な構造は統合失調症の発病時にみられる現象とよく似ています。統合失調症は進学、結婚、出産、就職、昇進といったライフイベントの際にしばしば発病することが知られていますが、発病直後に多く見られる幻聴は単にデタラメな内容の声が聞こえてくるのではなく「何か」を暗示するような言葉として現れます。こうして統合失調症者は自分に聞こえてくるようになった声が正体不明の「何か」を仄めかしていることに気づき、やがてその「何か」はしばしば「FBIに狙われている」などといった妄想の形をとることになります。
こうしたことから松本氏はハイデガーの展開した一連の詩論を「詩の否定神学」と名指し、このような思考が「創造と狂気」における「統合失調症中心主義」として20世紀の精神病理学/病跡学を決定的に規定することになったといいます。
ここでいう「統合失調症中心主義」とは統合失調症を患っていたと考えられる傑出人の創造性に特に注目し、反対にうつ病や躁うつ病(双極性障害)のような病を患っていた傑出人の創造性にはあまり注目せず、それどころかこれらの病や創造性を統合失調症と比べて「二流の病」「二流の創造性」として扱う考え方です。
そして、このような「統合失調症中心主義」はヤスパースのいう「形而上学的な深淵」のように統合失調症を理想化して「統合失調症者は理性の解体に至る深刻な病に罹患することと引き換えに、人間の本質にかかわる深淵な真理を獲得するに至った人物である」という「悲劇主義的パラダイム」に支配されていました。けれども、その一方で定量的な研究によれば統合失調症よりもうつ病や躁うつ病のような気分障害の方が創造性と関係しているというデータが多数得られているという事実もあります。
* 統合失調症中心主義とポスト・ヒューマニズム
なぜ統合失調症は長らく精神病理学/病跡学において特権的な狂気に祭り上げられてきたのでしょうか。この点、ポスト構造主義を代表する思想家の1人であるミシェル・フーコーは『狂気の歴史』(1961)において近代以降、人々は狂気の中に真理を見るようになったと述べています。フーコーはこういう態度を「弁証法的人間 homo dialecticus」と呼びます。つまり自分(理性的人間)にとっての他者(非理性としての狂気)の中に自身の真理をみるという態度です。
すなわち「統合失調症者は理性の解体に至る深刻な病に罹患することと引き換えに、人間の本質にかかわる深淵な真理を獲得するに至った人物である」という「悲劇主義的パラダイム」に支配された「統合失調症中心主義」とはこうしたフーコーのいう「弁証法的人間」の一つのバリエーションであるということです。
もっとも、現代においては統合失調症は病それ自体が軽症化しているといわれており、創造性に関しても統合失調症以外の病理、例えば境界例や躁うつ病、最近では自閉症スペクトラム等が注目されはじめていることから、長らく精神病理学/病跡学を規定してきた「統合失調症中心主義」はその覇権を徐々に失っていくかもしれない、と松本氏はいいます。
この点、フーコーは彼を時代の寵児に押し上げた主著『言葉と物』(1966)において「人間の消滅」という挑発的なテーゼを提示しています。同書においてフーコーは西洋の歴史における「エピステーメー(ある時代における思考様式)」はルネサンス期(16世紀以前)における「類似」から、古典主義時代(17〜18世紀)における「表象」を経て、近代(19世紀以降)における「人間」へと不連続的に変化してきたと主張しています。その上でフーコーはいまや「人間」も主役の座から降りようとしているといい、同書は「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」と結語しています。
もちろん、フーコーのいう「人間の消滅」とはあくまでも「人間」という観念の終焉を指す思想的な出来事でした。しかし21世紀に入ると生物工学(ゲノム編集)や情報工学(人工知能)といったテクノロジーの発展によって「人間の消滅」がいよいよ現実のものとなり始め、ここから従来の「ヒューマニズム(人間中心主義)」を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき状況が前景化してくることになります。こうした意味で「人間(弁証法的人間)」を前提とする精神病理学/病跡学における「統合失調症中心主義」も目下加速する一方であるポスト・ヒューマニズム的な状況の中で抜本的に問い直される時が来ているといえるでしょう。
posted by かがみ at 23:53
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