*「まなざし」の作用
光の空間として私へと現れているものの中で、まなざしとはつねに、光と透過不能性による何かの働きです。それは、さっきの私のちょっとした物語の中心にあったあの輝きです。そしてそれは、スクリーンであったり、スクリーンから溢れるきらめきとして光をあらわにしたりすることによって、つねに私を引きつけ魅了するものです。要するに、まなざしの点はいつも、宝石の輝きのような曖昧さを帯びているのです。
(ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』より)
フランスの精神分析家ジャック・ラカンはセミネールⅪ『精神分析の四基本概念』(1964)において次のような若き日のエピソードを交えつつ「まなざし」について論じています。
20代の頃、都会のインテリ知識人という身分をもて余していたラカンは、過酷な自然の中に飛び込み危険な肉体労働に従事するという実践体験に興味を持ち、ある日、田舎の漁師一家と小さな船に乗って漁に出掛けました。そして船上のラカンが網を引揚げようとしたその時、同船していたプチ・ジャンという漁師が波間に漂うイワシの缶詰を指し示しながら若きラカンに対して「あんたあの缶が見えるかい、あんたはあれが見えるだろ。でもね、奴のほうじゃあんたを見ちゃいないぜ」といいます。
漁師はあくまでユーモアのつもりだったのかもしれませんが、当のラカンはあまり面白い気分ではなかったようです。彼はその理由として「厳しい自然の中でやっとの思いで生きているこれらの人々に混じってすっかりその気になっていた私は、実に珍妙な絵をなしていた、ということです」と述べています。ひらたくいえば、ここでラカンは自分が今やっていることが所詮はインテリのなんちゃってごっこ遊びに過ぎないことに気付いてしまったということです。
これが「まなざし」の作用です。若きラカンは波間に漂いながら太陽の光を浴びてきらきらと光るイワシの缶詰を眺めるうちに、その乱反射する輝きの中に「まなざし」を意識しかけていることを、図らずも漁師から否定形のメッセージとして受け取ったわけです(ちなみに、このイワシの缶詰は漁師の納入先の缶詰会社のものだったようです)。
この点、ラカンは同じ講義中で二つの三角形からなる次のような図式で主体にとっての「まなざし」の位置を示しています。
(ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』122頁の図表をもとに制作)
まず、上段の図は、人間の視覚機能を構成する実測的領野、すなわち「見る」という領野を構成します。この「実測点」に位置するのが主体です。そしてその主体の向こう側に対置されるのが「対象」であり、両者の間には「象」すなわち「表象」が定位します。すなわち「見る」という領野においては、主体は対象を表象化する外部に位置することになります。
そして、下段の図は、「見る」とは異なるもう一つの領野、すなわち「見られる」という領野を表現しています。ここで「光点」に位置するのは主体にとっての超越的審級を体現する〈他者〉です。すなわち「見られる」という領野においては、主体は〈他者〉の「まなざし」にとらわれた内部に「珍妙な絵(ラカン)」として描きこまれることになります。
* 自閉症スペクトラム障害における視線恐怖
このような「まなざし」を人が日常において感じるひとつの具体的例として「注察感」があげられます。例えば何かしら後ろめたい行為や良くも悪くも秘密裏に進めたい行為の最中において人は周囲には誰もいないことがわかっていても、やはりどことなく「誰かに見られている」というような「注察感」を感じることがあるでしょう。
また、こうした「注察感」が病的に現れる例として統合失調症における注察妄想が挙げられます。しばし統合失調症においては周囲に誰ひとりいない時でもいつも誰かに見張られていると感じてしまい、その結果、彼らは自室のあちこちに目張りをしたり壁紙を剥がしてカメラを探したりといった不毛な作業を際限なく繰り返すことになります。
けれども、このような「注察感」は決して自明のものではありません。この点、ラカンのセミネールの邦訳者の1人でもある菅原誠一氏は論考「見られるとはどういうことか」において自閉症スペクトラム障害(ASD)の自験例を挙げた上で、現象学者の村上靖彦氏が提唱した「視線触発」という概念を参照しつつASDにおける視線恐怖を論じています。
ここで村上氏のいう「視線触発」とは「視線や呼び声、触れられることなどで働く、相手からこちらへと一直線に向かってくるベクトルの直感的な体験」であり、必ずしも他人の眼それ自体を知覚しなくても、物音や気配で視線を感じ取ることもある「知覚とは異なる次元で成立している概念」です。また村上氏は「(絶えず誰かに見られているという)統合失調症の妄想であるにしても、眼球の知覚を伴わない視線の経験はありうる」といいます。つまり、眼球知覚なしに視線を感じ取る「視線触発」とは定型発達者から統合失調症患者まで幅広く認められる現象であるということです。
この「視線触発」は定型発達児の場合、乳幼児のごく早期から成立する体験であるといわれます。村上氏は「ほとんどの人は覚えている限り視線を感じる世界のなかで育ってきている」といい、定型発達には「もっとも原初的な層においてすら視線触発を前提とせざるを得ない」としています。これに対して自閉症児の場合、村上氏は「目も合わず他者というものを知らない重度の自閉症児から、他者の存在に気づいているけれど視線を怖がる自閉症児、あるいは特に視線を怖がらないがコミュニケーションにぎこちなさを残す自閉症児など、さまざまな状態がある」といいます。
この点、菅原氏は「(村上氏が挙げる)自閉症患者が視線恐怖を持つようになった実例は全て、目が合うことへの恐怖を訴える例ばかりであって、例えば後ろから見られることへの恐怖、視野の外にある視線の恐怖は登場しない。よって当然ながら、周囲にだれもいない場面での視線恐怖も登場しない」といい「以上の村上の著書と自験例からの知見をまとめると、ASDの視線恐怖の特徴として、目が合うことへの恐怖を訴えることが多く、誰もいないところで注察感を感じることはほとんどなく、後方など視野外からの注察感を感じることもほとんどないということになる」と述べています。
さらにここから氏はラカンの「まなざし」の議論を参照し、ASDにおいてはラカンのいうところの「目とまなざしの分裂」の不成立があると表現できるのではないかと述べます。すなわち、ASDにおいてはラカンのいう「まなざし」が機能していない可能性があるということです。そうであればASDにおいては定型発達とは別の仕方での主体化を果たしていると考えるべきなのでしょうか。
* 自閉症スペクトラム障害における顔認知−−記述主義と反記述主義
この点、清水光恵氏は論考「他者の顔、わたしの顔」においてASDにおける他者の顔との出会いの困難という問題を概観しています。ASD者は他者の顔をまなざさないこと、そして他者の顔や名前を覚えるのが苦手なことがよく知られています。清水氏は患者の話を聞いていると彼らは知っているはずの他者が髪型を変えたり、あるいはいつもとは違う場所でその他者と出くわしたりするとたちまち誰なのかわからなくなってしまうことが多いといいます。しかも驚くべきことにこの他者には同居の家族さえ含まれています。
例えばある患者は街の雑踏の中で母親を見分けるのには母親の髪型といつも持っている鞄を手がかりにしています。また別の患者は人の顔を見分けるのは問題ないといっていましたが、さらに聞いてみると例えば妹について「(自分が)大学から帰る時間に自宅にいるのは妹に決まっているので間違いない」と言い、では街路で偶然妹に出会ったらどうかと清水氏が尋ねたところ患者はあっさりと、わからないだろうと答えます。
つまり、彼らは他者の髪型や眉毛や鼻や顎の形、眼鏡、服装や持ち物など外見全体のうち比較的変化に乏しく固定的な部分的特徴や、その他者と出会う場所と時間の経験則に頼ってなんとか他者の同定を試みているということです。例えばASDの当事者研究で知られる綾屋紗月氏は論考「発達障害当事者から−−あふれる刺激、ほどける私」において顔認知にあたって「目、鼻、口、耳というそれぞれのパーツ」や「表情や顔や筋肉が動くパターン、声のトーンや話し方の癖」など顔情報を細分化して記憶すると述べる一方で、これらのパーツ情報を全体像として捉えるのが難しく、ひとりの人としてまとめ上げにくいと分析しています。こうしたことから清水氏は「ASDの世界では基本的には、『パーツ』はあるが顔はない、その意味ではのっぺらぼうの名もない現象(という他者たち)が生起している」と述べます。
また清水氏は別の論考「自閉症スペクトラム症の患者はなぜ人の顔と名前を覚えるのが苦手なのか」において他人の顔を覚えることのできないというASDの自験例を取り上げています。初診時20歳の大学生であったX子は4回目の面会の際にも担当医師(清水氏)の顔を覚えておらず、そのことを問うてみたところ、彼女は他者の顔を目の形や鼻の形、あるいは髪の毛の生え際、おでこの広さ、肌の荒れ具合、出っ歯といった様々な属性の組み合わせで覚えているため、その他者が急に髪を染めたりとか坊主頭になったりするとわからなくなるといいます。
清水氏はこのような他者の顔を覚えることができないというASDの特性をバートランド・ラッセルやソール・クリプキの「固有名 proper name」をめぐる議論から理解しています。この点、固有名とは何かということを考える哲学的立場には大きく分けて「記述主義 descriptivism」と「反記述主義 anti-descriptivism」の二つがあります。
一方の記述主義の立場では固有名は確定記述(=その固有名を定義する属性や説明)の束に還元できるとされます。たとえば「アリストテレス」という固有名は「古代ギリシアの哲学者」「アレクサンダー大王を教えた」などの一連の確定記述の束に還元できると考えます。ところが記述主義の立場をとった場合、もし仮に歴史的調査によって「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」ことが判明した場合に「アレクサンダー大王を教えた人物は実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という無意味な命題が生じてしまいます。他方、反記述主義の立場からは固有名は確定記述の束には還元できず、むしろ確定記述に還元できない反記述的なクオリア(主観的に感知される特定の質)こそが固有名を支えていることが帰結されることになります。
このような固有名をめぐる議論の文脈からいえばX子は人の顔を記述主義的に確定記述の束として捉えており、反対に定型発達者は人の顔を反記述主義的に「〈この〉顔」として捉えているともいえそうです。
*〈この〉性と確定記述のあいだ
こうしたことから松本卓也氏は論考「自閉症スペクトラムと〈この〉性」において清水氏が提示した固有名をめぐる議論を「〈この〉性 thisness」の不在の問題として論じてます。
この点、定型発達においてはしばし〈この〉性と確定記述の接続が問題となります。例えば「私は私である Je suis Moi」という文における主観的自我としての「私 Je」と対象的自我としての「私 Moi」の関係は〈この〉性と確定記述の関係に相当するものであり、ここで「私」は自分が何者かであるかを陳述するため「私」を対象化し、その確定記述(年齢、性別、出身、所属等)を数え上げていくことになります。けれども、そのようなやり方では主観的自我としての〈この〉性としての「私」は対象化され得ない「無」となり、時にこの「無」が危機的な裂け目として迫り出してくることがあります。
そして、このような意味での「無」を20世紀を代表する哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーは「存在 Sein」という言葉で名指しました。例えばハイデガーは1929年の公開講義「形而上学とは何か」において「存在」を問うために「無」とは何かを議論する必要があると述べ、その顕われとして統合失調症における妄想気分や世界没落体験のような「何となく不気味だ Es ist einem unheimlich」という体験を参照しています。
すなわち、存在者の総体(世界を構成する事物)には何の変化も「無」いにもかかわらず、この世界はどこか不気味であり、むしろ世界には何の変化も「無」いことそれ自体が不気味であると感じられるような意味未満の意味のざわめきに満ちた「何となく不気味だ」という体験においては「何も無い Nothing exists」ことが「無がある Nothing exists」ことへと転化してしまうということです。
ところが、このようなハイデガーの主張に対して論理実証主義を代表する哲学者であるルドルフ・カルナップはそれは単に「言葉のあや」に過ぎないと批判します。すなわち「外に何があるか What is outside?」という問いに対して「何もない Nothing is outside」という答えを「無が外にある Nothing is outside」と読み替えることによって「無」の積極的な性質をいおうとするのは無意味な論理に過ぎないということです。
このようなカルナップの立場を松本氏は固有名を確定記述の束へと還元することによって把握しようとするX子に類似しているといいます。そして、こうしたことから松本氏は村上氏が取り出した「視線触発の不在」とは不安を引き起こすハイデガー的な「無」に対する志向性の欠如として理解することが可能であろうと述べています。すなわち、ラカン的な「まなざし」の機能不全とは突き詰めればハイデガー的な「存在」の機能不全に起因するということです。
*〈この〉性だらけの世界
その一方で松本氏は同論考でX子とは対照的に他者の顔を覚えることが極度に得意なASDの症例としてレオ・カナーが1943年に発表した自閉症に関する初の論文に登場する症例ドナルドを取り上げています。ドナルドは2歳になる前に人の顔と名前に関して異常な記憶能力を持っていたとされています。すなわち、ASDには顔の認知が極度に苦手である症例(X子)と反対に極度に得意である症例(ドナルド)の両方が存在するということです。
この点、ドナルドはある行動をそれを初めて覚えた時と全く同じやり方で反復します。例えば彼は自分が靴を脱ぐことに成功した際の母親の言葉である「あなたの靴を引っぱって」という言葉を「靴を脱ぐ」という行動と一対一対応するものとして結びつけています。換言すれば彼にとって「あなたの靴を引っぱって」という母親の言葉は「あなた/の/靴/を/引っぱって」というふうにいくつかの単語に分節されたものではなく、むしろ「開け、ゴマ!」と同じような「靴を脱ぐための呪文」として扱われているということです。
カナーが「同一性保持 maintenance of sameness」と呼び、のちにバーナード・リムランドによって「閉回路現象 closed-loop phenomenon」という名前が与えられたこの現象は、彼らが入力された刺激を「原料のまま」に再生することに専念しており、その「原料」を混ぜあわせ新しい「化合物」を作ることがないということを意味しています。
ドナルドに見られるこのような特徴は極端に反記述主義的であるといえます。すなわち、彼はある瞬間に自分の目の前で起こった新しい出来事を固有の〈この〉クオリアを持つものとして名指し、その驚きと喜びを既存の確定記述に還元することなく絶えず反復しているということです。いわば彼は〈この〉性だらけの世界を生きているといえるでしょう。
この意味でASD者は一方でX子(アスペルガー型)のように〈この〉性の存在しない領域において確定記述の束によって固有名を把握しようとする徹底的に記述主義的な世界に生きており、他方ではドナルド(カナー型)のように他のものに分節不可能な〈この〉性に溢れた徹底的に反記述主義的な世界に生きているといえます。すなわち、ASD者においては〈この〉性と確定記述の接続それ自体が拒絶されているということです。
* まなざし過剰と自閉の技法
この点、松本氏はドナルドのような〈この〉性だらけの世界を生きるASD者を捉えるモデルとして「思弁的実在論 speculative realism」や「オブジェクト存在論 object-oriented ontology」といったゼロ年代以降の現代実在論をあげています。これらの立場はカント哲学における物自体と現象という区別以降、近代哲学を規定してきた「相関主義(世界には接近不可能なものがあり人間はそのような不可能性を整除した限りのものしか認識し得ないという立場)」を破棄して、例えば物自体といった相関主義とは無関係な実在を問題にします。
さらに氏はここまで見てきた展開をラカン理論における「存在論から〈一者〉論へ」という転回と対応させています。周知の通りかつて(1950年代〜1960年代)のラカンは「S1→S2」として定式化されるシニフィアン連鎖のあいだの消失点として生じるハイデガー的な無=存在にもとづく主体モデルを前提としてきました。ところが晩年(1970年代)のラカンはS1→S2以前に単独的に実在するS1を〈一者〉と名指し、この〈一者〉にもとづく主体モデルを考えようとしていました。
こうしたことから現代ラカン派においてはラカンの娘婿であるジャック・アラン・ミレールが提唱する「逆方向の解釈」のようにS1→S2の切断からのS1の析出が重視されることになります。そして、このような現代ラカン派におけるS1とS2の連関は、まさにASDにおける〈この〉性と確定記述の連関とパラレルに考えることができるでしょう。
こうしてみるとハイデガーやかつてのラカンが提示した世界や主体のあり方は〈この〉性と確定記述の接続を問題とする「統合失調症モデル」にもとづいており、これに対して現代実在論や現代ラカン派が提示する世界や主体のあり方は〈この〉性と確定記述の切断を問題とする「自閉症モデル」にもとづいているといえるでしょう。そうであれば、ここから現代の肥大化した情報環境が引き起こす「まなざし過剰」の外部に立つための「自閉の技法」を読み出していくこともできるのではないでしょうか。