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ラカン派精神分析の基本用語集
2023年06月27日
精神病における「排除」の諸相
* 統合失調症の構造的条件
統合失調症は2002年までは「精神分裂病」と呼ばれていた精神疾患です。主な症状として「妄想」「幻覚」のような陽性症状と「意欲低下」「感情鈍麻」「無為自閉」といった陰性症状があります。これらの症状のほかに患者の社会的、職業的生活における機能のレベルが低下していること、そして、この症状がある程度の期間(6ヶ月以上)持続しており、他の障害ではうまく説明できない場合、統合失調症と診断されます。
このように統合失調症といえば一般的に「妄想」と「幻覚」の二大症状がまずは思い浮かべられるでしょう。もっとも統合失調症の概念を基礎付けたエミール・クレペリンやオイゲン・ブロイラーは知性、思考、感情、意志といった精神機能の衰退ないし分裂を統合失調症の特異的な症状として考えており「妄想」や「幻覚」といった症状はむしろ統合失調症以外でも見られる非特異的な症状として考えていました。
すなわち、統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があり、そこから派生して様々な幻覚や妄想といった症状が出現しているということです。
この点、現象学的精神病理学に多大な影響を残したスイスの精神病理学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーは統合失調症の精神病理を主に「空間」の観点から論じました。ビンスワンガーによれば我々が生きる生の空間には自身を理想の極みに導こうとする「垂直方向」と、自身の経験や視野を広げていこうとする「水平方向」という二つの方向があり、通常ではこの二つの方向が「人間学的均衡(Anthropologische Proportion)」と呼ばれる適度なバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返していますが、統合失調症者においてはこの「人間学的均衡」が崩れ「水平方向」が痩せ細る一方で「垂直方向」が過剰に肥大化してしまっている状態にあるということです。
また、日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は統合失調症の精神病理を主に「時間」の観点から論じました。木村氏によれば統合失調症者が理解し難い理想をたちどころに実現しようとする傾向は、そこには「それ」さえ実現すれば「いままで(過去)」や「いま(現在)」とは根本的に違った〈何か〉が開けるに違いないという「いまから(未来)」への憧れの現れがあり、このため彼らの自己理解はしばしば予感的、先走り的な時間性の構造となっているとして、こうした統合失調症における未来先取的なあり方を木村氏は「アンテ・フェストゥム(まつりの前)」と呼んでいます。
ではこうした統合失調症における特異な「空間」や「時間」の感覚はいかなる構造的条件から生じるのでしょうか。こうした統合失調症が生じる構造的条件を「言語」の観点から論じたのが精神分析中興の祖にして構造主義を代表する思想家でもあるフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。
* 抑圧と排除
1951年からラカンは後に「セミネール」と呼ばれる通年講義を自宅で開始します。ついで1953年から1963年までの10年にわたってその講義はサンタンヌ病院で行われるようになります。このセミネールにおいてラカンが初めて本格的に精神病(統合失調症)の構造について論じたのが1955年から1956年にかけて行われた第3回目のセミネール『精神病』です。
まずラカンは『精神病』の初回講義から神経症と精神病における主要なメカニズムとしてそれぞれ「抑圧」と「排除」を位置付けています。ではここでは一体何が「抑圧」されたり「排除」されたりしているのでしょうか。ラカンによればひとまずそれは「去勢の脅威」であるとされます。
すなわち、神経症では「去勢の脅威」が「抑圧」されています。神経症の場合「抑圧」は幼児期の子どもが「去勢の脅威」を経験することで生じます。そして無意識下に「抑圧」されて潜在的なシニフィアンとして存在することが「是認」された「去勢の脅威」が後のトラウマ的出来事と事後的に結びつくことで象徴的に加工され別のものとして表現されることになります。
例えば抑圧されたものが身体の上に表現されれば、それはヒステリーの転換症状となります。そして、このような神経症の症状が持つ意味作用は象徴的に加工されているものであることから、つねに他の意味作用へ回付が可能となります(それゆえに神経症の症状は精神分析的な解釈が可能となります)。すなわち神経症の症状とは「抑圧されたものの象徴界への回帰」であるいうことです。
これに対して精神病では「去勢の脅威」が「是認」されることなく「排除」されています。精神病の場合「排除」された「去勢の脅威」はその発病時に排除されたものが(神経症のような象徴的な加工を受けることなく)そのままの形で出現します。つまり精神病において「去勢の脅威」は他の意味作用に回付することができない「謎めいた意味作用」として再出現することになります。そしてこのような精神病における「謎めいた意味作用」は象徴界のネットワークから切断されたものとして「ひとつきり」で存在します。このような存在の仕方をラカンは「(象徴界の外部としての)現実界のなかに出現する」といいます。
例えば精神病の症例として有名なダニエル・パウル・シュレーバーの回想録(いわゆる症例シュレーバー)では「性交を受け入れる側である女になってみることも元来なかなか素敵なことに違いない」という考えが突然意識の中に現れる事象が記されていますが、これはまさに「去勢の脅威(=女になることの脅威)」が「謎めいた意味作用」として現実界の中に再出現する現象であったと言えるでしょう。すなわち精神病における「謎めいた意味作用」とは「排除されたもの現実界への再出現」であるいうことです。
このように神経症における「抑圧」と精神病における「排除」の違いは「去勢の脅威」の処理の仕方の違いにあります。そしてこうした「去勢の脅威」の処理の仕方の違いが症状の持つ意味作用の違いとして臨床的に現れてくることになります。
精神病発症初期の患者はよく「何が起こったかわからないが、確実に何かが起こっていて不気味である」と語りますが、それはすなわち、世界の中に何か謎めいた意味作用があるということです。そして彼はそれがどんな意味作用かはわからないにも関わらず、その意味作用が重要なものであることは十分に理解しており、さらにその意味作用が自分(主体)に関係するものであることをはっきりと確信しています。
このような現象はラカン派では「困惑」と呼ばれており、一般的な精神病理学でいう「意味妄想(妄想気分)」「妄想知覚」にほぼ相当するものです。この「困惑」は、意味がわからない現象として何度も主体の前に現れます。そして、しばらくの間、彼はこの現象を加工することも統合することもできない状態に置かれます。それは、この現象の核にある「謎めいた意味作用」は象徴化のシステムにそれまで一度も参入したことがない意味作用であるため、それを他の意味作用へと回付させることができないからです。
そのため彼はこの現象をどれだけ否定しようとしても否定できず、それを信じざるを得ないことになります。そのことをラカンは「弁証法の停止」という風に表現しています。すなわち、主体が「困惑」という精神病現象を信じ込んでしまい、それを訂正できないのは、その訂正を可能ならしめる対立項(弁証法における反)が最初から欠けているからです。
このように精神病の症状が持つ謎めいた意味作用は象徴界(言語領域)で処理され得ないものであり、その結果、この謎めいた意味作用は想像界(イメージ領域)へと向かい、そこで処理されることになります。例えば発病時のシュレーバーの「性交を受け入れる側である女になってみることも外来なかなか素敵なことにちがいない」という考え(謎めいた意味作用)が想像界の中で連鎖反応を引き起こした結果が、彼の妄想の完成期に見られる「神の女になり、世界秩序を救う」という誇大妄想です。
* もうひとつの排除
ここまでのラカンの精神病論は⑴精神病では「去勢の脅威」が「排除」され、排除されたものは謎めいた意味作用として現実界に再出現し、主体はその再出現に対して「困惑」させられるという点と⑵精神病者は再出現した謎めいた意味作用を象徴的に仲介(他の意味作用へ回付)することができず、そのためその意味作用は想像的な増殖(妄想形成)によって処理されるという点に要約されます。ところがセミネールの後半になるとラカンはこれまでの「排除」とは異なる位相での「排除」から新たな精神病論を論じ始めます。
まずラカンは「謎めいた意味作用」の出現であるとされていた「困惑」を精神病の発病との関係から新たに位置付け直しています。すなわち、精神病の発病時にはラカンが「禁止された領野」「何一つとして語られることのできない領野」と呼ぶ一つの「穴」が主体に迫ってくるのであって「困惑」はその「穴」の接近の前兆であるといいます。つまりここでラカンは精神病における「語り得ないシニフィアン(シニフィアンの欠如)」を問題にしています。
このような「穴」の接近はいかなる言葉によっても言語化ができないため、その「穴」の周囲(縁)における活発な反応を生み出すことになります。具体的には、その「穴」の存在を暗示するかのようなシニフィアンが頭の中に乱舞する精神自動症や無意味な言葉が次々と聞こえてくる幻聴が生じます。ラカンはそれを「縁取り現象」と呼んでいます。
通常、神経症者においてはシニフィアンはお互いに連鎖したネットワークを形成しており、その中心点にはこのネットワークを束ねる一つのシニフィアン(仮にXとします)があります。しかし精神病者においてはその中心点にあるはずのシニフィアン(X)が欠如している(=「穴」が空いている)ため、そのシニフィアン(X)と連鎖するはずの周囲(縁)のシニフィアンが連鎖を外れてバラバラになってしまいます。
ここで重要なのは穴の周囲のシニフィアンがバラバラになり、それらのシニフィアンが精神自動症や幻聴という形で主体を襲うのに対して、中心が欠けている「穴」そのものはシニフィアンとしては全く−−排除されたものの回帰や再出現としてさえも−−現れてこないということです。
精神病の発病はこの欠如したシニフィアン(X)が何らかの形で呼びかけられることから始まります。この呼びかけは主体がシニフィアン(X)に近接することを要請しますがシニフィアン(X)は象徴界の中に欠けているために、主体はその呼びかけに応答することができません。結果、シニフィアン(X)の周囲(縁)の諸々のシニフィアンの解体が露呈し、その解体したシニフィアンがバラバラとなって主体を襲うことになります。
ラカンはこのような「あるシニフィアンそれ自体に患者が接近する」にもかかわらず「その接近が不可能である」という現象が精神病では頻繁に見られることに注目し、この現象を「排除」と呼ぶようになります。
ではここでは「排除」されているシニフィアンとは一体何なのでしょうか。この点、ラカンはシュレーバーの回想録においてシュレーバーの父親が一回だけしか引用されていないことに注目しています。その唯一の引用も性交に際して最適な姿勢を調べるために父親の著作を調べるという実に奇妙なものであり、ラカンはここにシュレーバーにおける父性機能の不在を見て取っています。
こうしたことから、ラカンは「シュレーバー議長には、どうみても『父である』というこの基本的シニフィアンが欠けている」と結論づけます。つまり、ここで「排除」されているのは「父である」というシニフィアンです。すなわち、精神病の構造的条件とは「〈父の名〉の排除」であるということです。
*〈父の名〉のシニフィアンとかのようなパーソナリティ
この点、ラカンは人間の精神生活を道路に例えることで精神病者の発病とその後の経過を説明しています。その比喩によれば「父である」というシニフィアンは人生の重大な局面において頻繁に参照される「幹線道路」のようなものです。例えば結婚を機に夫となることや、子供を持つことは「父である(家族に対して責任を負う)」という家父長制的シニフィアンを参照することなしには非常に困難であるからです。
しかしシュレーバーのような精神病者においてはこの幹線道路となる家父長制的シニフィアンが「排除」されています。その結果、シュレーバーは父性を担うよう呼び掛けられた際にこの幹線道路を利用することができず、代わりに彼はその周囲(縁)に張り巡らされた小道をさまよいながら妄想的な仕方で父性を実現させることになります。すなわち「神の女となり、世界秩序を救う」というシュレーバーの妄想は、彼が想像界の小道を通って父性をなんとか実現しようとする彷徨の軌跡であるということです。
このように〈父の名〉のシニフィアンを欠いている精神病者は父性が要求されるライフイベントにおいて〈父の名〉のシニフィアンを行使するよう呼び掛けられた時、そのシニフィアンの代わりに「穴」を持って応答することになり〈父の名〉の不在が露呈します。すると穴の周囲(縁)にある一連のシニフィアンが穴それ自体を暗示するような形で出現し一挙に主体を襲うことになります(縁取り現象)。
そしてこれらのシニフィアンはシニフィアン連鎖を解かれた「ひとつきりのシニフィアン」として主体に押し寄せます。そのため主体はこのシニフィアンが産み出す意味作用を他の意味作用へと回付させることができずに、その「謎めいた意味作用」に「困惑」することになります。
なお、ラカンは精神病の構造を持つ人物は発病前には「かのようなパーソナリティ」を獲得することによって日々の生活を送っているといいます。ここでいう「かのようなパーソナリティ」とは1934年にへレーヌ・ドイチュが提唱した概念ですが、ラカンはこの概念を参照しながら精神病の構造を持つ主体のありようを説明しています。
先に述べたように精神病者には人間の精神生活の中心を担う〈父の名〉のシニフィアンが欠如しているため、シニフィアンの全体が何かの拍子に崩壊してしまう危険があります。そのため、前精神病者は同性の友人や兄弟姉妹など特定の人物へ同一化することで〈父の名〉のシニフィアンがある「かのような」振る舞いを行います。
つまり「かのようなパーソナリティ」とは〈父の名〉のいわば想像的な代償です。ラカンは前精神病者におけるこのような代償を「想像的杖」と呼んでいます。すなわち、精神病の発病はこの想像的杖がうまく機能しなくなった時に生じると考えられます。
* エディプス・コンプレックスと精神病
このようにラカンは精神病が発病するのは〈父の名〉のシニフィアンの欠如が露呈する時点であることを明らかにしました。そして、こうした『精神病』における議論を体系化するため以降数年にわたりラカンは「エディプス・コンプレックス」の構造論化に取り組むことになります。
周知の通り精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは神経症の治療法を試行錯誤する中で、人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見し、このような心的葛藤をギリシアのオイディプス悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けました。
この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。そしてフロイトによれば、男児と女児では去勢不安への反応は異なるものとされます。すなわち、男児はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在になろうとします。これに対して、女児はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在になろうとします。
このような一見すると荒唐無稽としか思えない「エディプス・コンプレックス」なるフロイトの神話をラカンは構造言語学の知見を援用してもっぱら精神病の側面から読み直したことになります。こうした意味でラカンの精神病論は人の欲望やセクシャリティの条件をいわば裏側から照らし出している議論であると言えるでしょう。
posted by かがみ at 22:09
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