*「あいだ」の精神病理学
日本を代表する精神病理学者である木村敏氏の名は「あいだ」の思想とともに広く知られています。この「あいだ」の思想の原点は木村氏の学生時代に見出すことができます。当時音楽に熱中していた氏はコンクールで合奏する機会も多く、この時の経験について氏は後年、次のように述べています。
数人で合わせている合奏音楽の全体が、個人の意志を超えたひとつの強大な意志を持ちはじめ、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくる。そしてその大きな意志が、私個人のテンポやリズムだけでなく、私がひとつひとつの音に与えるもっと微妙な表情にいたるまで、私自身の演奏行為を支配し、操作するようになる。
(『心の病理を考える』)
木村氏によれば、ここでいう「大きな意志」は「なまなましい実体性」を帯びた「まるで目に見えない生きもの」のようであり、その時に合奏全体を支配する「大きな意志」と私という「個人の意志」は渾然一体となり、いわば二つの意志がひとつになっているように感じられたといいます。
このような「二重意志」は音楽の合奏といった特殊な場のみならず、ありきたりな日常においてもしばし我々の前に姿を表します。例えば多人数でのコミュニケーションにおいて我々は自身の発言の調子や内容がそのコミュニケーションの場全体から規制されているような時です。すなわち「あいだ」とはこのような複数の人間が集まった「場」に宿るものです。
そして木村氏によれば、この「あいだ」とは「リアリティ(理性的な認識対象としての現実)」の境域において認識対象として把握されるものではなく「アクチュアリティ(行為をしている最中に感じられる現実)」の境域において実体的経験として把握されるものであるとされます。では、こうした「あいだ」の思想がどのように精神病理学の理論に結びついていくのでしょうか。
*「あいだ」の病理としての統合失調症
木村精神病理学は大きくいえば「自己論」から「時間論」を経て、やがて「生命論」へと展開されていきます。若き日の木村氏はまず「自己の存在が感じられない」という離人症における問題から出発し、他の精神病理の場合もこうした「自己」の問題を考えようとしました。この点、木村氏によればうつ病ではすでに「自己」が成立しており、その自己と他者の「あいだ」が問題となりますが、統合失調症においては「自己」の成立そのものが問題となります。
「自己・あいだ・分裂病」という論文において木村氏は統合失調症における「自己」の確立に焦点を当て、その自己形成の歴史において何が問題だったかを以下のように説明します。
そもそも「自己」は「自己ならざるもの」とともに、主客未分の根源的自発性から発生しますが「自己」の側の差異化によって「自己」と「自己ならざるもの」が分離されます。こうして「自己」はその都度「自己ならざるもの」を分離しながら、その同一性を反復し続け、その主体性と固有性はこの反復によって維持され、その内面の歴史を形成していきます。
こうした「自己」の内面の歴史は多くの人々や物事との「あいだ」の歴史でもあり、そうした「あいだ」は一旦反復されて歴史を形成すると、それ以降は「自己」の一部となって生き続けます。このように「自己」の歴史は「あいだ」の歴史とともに始まります。生まれたばかりの赤ん坊に「自己」はありませんが、母親との「あいだ」に最初の自他の区別をした時点から「自己ならざるもの」との「あいだ」の歴史がはじまり「自己」が成立し始めるということです
ところが統合失調症の場合、こうした「あいだ」が極めて不安定で、結果として「自己」はその同一性を反復できずその形成は不完全なものとなります。このような事態を木村氏は「ノエマ的自己(意識対象)」が対象化されておらず「ノエシス的自己(意識作用)」が成立していないと説明しています。すなわち、統合失調症とは「自己」と「自己ならざるもの」が同時に発生する場所である「あいだ」の病理であるということです。
*「あいだ」としての「いま」
次に木村氏はこうした「自己」についての問いを「時間」の問題として捉えようとしました。木村氏の代表作である『時間と自己(1982)』においては人間の時間性というあり方と精神病理の問題が現象学的観点から論じられています。その概要は以下のようのものです。
通俗的な時間の観念では「いま」とは時計が指し示す特定の瞬間を言いますが、我々の日常においては「いま」は瞬間ではなく、一定の広がりを持っています。このような「いま」には「私」という主体の行為が含まれており、こうした行為の中に身を置いた「私」のアクチュアリティにおいてこそ「いま」は「過去」と「未来」の「あいだ」の広がりとして感じられることになります。
しかし、離人症という精神疾患においてはこうした「いま」の自明な感覚が消失してしまいます。離人症においてはある瞬間との印象と次の瞬間の印象を「時間」という観点で結びつけることができず、一瞬一瞬の「いま」が無数に出現することになります。すなわち、そこでは「私」のアクチュアリティにおける感覚が失われ「あいだ」としての「いま」が成立していないということです。
* アンテ・フェストゥム
これは「自己」の成立していない統合失調症にも同じことがいえます。統合失調症になる人は青年期に成熟した人間関係や将来を決定する重大な場面に直面すると、それに対処できず、激しい絶望感に襲われ症状が発現します。そして「自己」に対する確実な認知(自己認知)がないため、それが意識や行動にも現れ、独特な雰囲気を醸し出します。
このような「自己」の不確実性を反映した統合失調症の症状として「被影響体験(自分の意志や思考や感情が他者のように思えたり、他者に操られていると感じる体験)」と「つつぬけ体験(自分の意志や思考や感情が他者に伝わってしまっていると感じる体験)」が挙げられます。また統合失調症の典型的症状としての「関係妄想(周囲の出来事が自分に関係していると感じること)」や「幻聴(自分への批評や命令が聞こえること)なども「自己」の不確実さを示しています。
このように統合失調症においては自己認知がうまくいっていないため病者は現在の自己を否定し、実現不可能な未来の可能性に憧れるようになり、理解し難い理想をたちどころに実現しようとします。そこには「それ」さえ実現すれば今までの人生とは根本的に違った〈何か〉が開けるだろうという思考があります。
これは「いままで(過去)」の自己と「いま(現在)」の自己を認知できていないことによる「いまから(未来)」の自己への憧れの現れと言えます。このため彼らの自己理解はしばしば予感的、先走り的な時間性の構造となっています。こうした統合失調症の未来先取的なあり方を木村氏は「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)」と呼んでいます。
* ポスト・フェストゥム
このように統合失調症の時間意識が未来志向だとすればうつ病の時間意識は過去志向であるといえます。うつ病者は未来に目を向けず過去に積み上げてきたものを保守的に維持する傾向があり、うつ病になりやすい人の病前性格として几帳面で真面目で周囲の人間に気を使いすぎる面が挙げられます。そしてこのような行動パターンが破綻するとき、抑うつ気分、抑止症状、焦燥感、不安感、絶望感などうつ病の症状が生じてくることになりますが、その根底には「とりかえしののつかぬことになった」という後悔の意識、負い目があります。
つまり、うつ病においては「あとのまつり」という意識の構造が支配的であるということです。そこで木村氏はこうしたうつ病特有な過去にこだわる時間意識を「ポスト・フェストゥム(後の祭り)」と呼んでいます。
統合失調症では自己が確立される以前に自己の確立そのものが問題になりますが、うつ病においては自己が同一化すべき役割が問題となります。すなわち、うつ病者においては他者が自分に期待する役割に同一化する「役割同一性」が繰り返し再確認され、それまでの過去の在り方が将来のあり方を一方的に規定しており、その状態が危機に陥ると「とりかえしのつかない」「あとのまつり」として体験されることになります。
* イントラ・フェストゥム
このように統合失調症が「未来」にこだわる存在構造でありうつ病が「過去」にこだわる存在構造だとすれば「現在」にこだわる存在構造の精神病理も存在します。その例として木村氏は「癲癇」と「躁病」を挙げています。
この点「癲癇」においては突然何かに襲われたように意識を失って全身を痙攣させるような発作が現れ「躁病」においては感情を抑制できないまま誇大的な気分に任せた行動が見られますが、これらの症状の本質的な特徴を「祝祭的な現在の優位」としてみれば、それは「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」と呼ぶことができます。
そして、この場合の「現在」は「未来」や「過去」と並列されうるものではなく、むしろ「未来」や「過去」を生み出す源泉ともいえます。すなわち「イントラ・フェストゥム」における「自己」はもはや個別的な自我としては成立せず、宇宙大に拡大した「自己」が自然との和解の祝祭に酔いしれるような状態となり、このときもはや客観的時間軸上の「過去」や「未来」は消滅し、ただただ「永遠の現在」だけが存在します。
そもそも、このような「永遠の現在」は個別的な自我の誕生以前には唯一の時間であったはずですが、やがて人が自己の一回限りの生と死を学び個人間の差異が自覚されるようになったとき「未来」と「過去」という観念が生まれ、客観的時間の起源とも言えるような共同体に共有される時間が成立することになります。
こうした時間の起源からいえば「アンテ・フェストゥム」も「ポスト・フェストゥム」も、もともとは「イントラ・フェストゥム」から生じたことになります。もっとも「アンテ・フェストゥム」的な意識がなければ未来を考慮した行動はできませんし「ポスト・フェストゥム」的な意識なしには社会の秩序は保たれず伝統や慣習の形成は不可能です。こうした意味で我々の世界と日常はこの二つの意識が相補的に作用し合うことにより構成されているといえるでしょう。
*「あいだ」から紡ぎ直される物語
後年の木村氏はヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーの医学的人間学を参照した独自の生命論を展開するようになります。この点、ヴァイツゼッカーによれば「主体」とは個体内部にあるのではなく「生命それ自身」との「あいだ」の関係を維持しようとするある種の生命維持機構のようなものであり、個別の生命体はいついかなるときにもこの「生命それ自身」との関わりを保つことによってしか生きることができないといいます。すなわち「主体」を主体たらしめているものとは「生命それ自身」との「あいだ」であるということです。
木村氏はこうしたヴァイツゼッカーの思想を高く評価し、様々な精神病理の根底にはこの「生命それ自身」との関係が失われた状態があるのではないかと考えるようになります。そして個人ごとに区切られた個別的でな生命を「ビオス」と呼び、個人を超えた生きとし生きるものすべてに受け継がれてきた根源的な生命を「ゾーエー」と呼びます。
つまり「私」とは個別的な生命である「ビオス」であると同時に根源的な生命である「ゾーエー」にも属しており、個別の身体を持った「ビオス」は「ゾーエー」との関係を保ちながら対象化された「リアリティ」を生み出すことになります。これが「私」の個別化、自己化、主体性の成立ということです。そして、この「リアリティ」が形成されることで「アクチュアリティ」が事後的に発見され「アクチュアリティ」と「リアリティ」の差異が生じることになります。
こうしてみると木村精神病理学は「自己」「時間」「生命」という観点から一貫して「あいだ」の実相をまなざしているといえます。普段、我々はもっぱら「リアリティ」の位相からこの世界を観ています。しかし様々なこころの不調の問題にはこの「あいだ」が支配する「アクチュアリティ」の位相が深く関わっています。そして人がその生の物語を紡ぎ直していく営みもまた、こうした「リアリティ」と「アクチュアリティ」からなる多層的かつ連続的な現実の中に自らを位置付け直していく営みであるといえるのではないでしょうか。