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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年03月31日

心の生ぶ毛とケアの思想



* 統合失調症中心主義と中井久夫

精神病理学や病跡学において統合失調症は長らく特権的な位置に置かれていました。統合失調症はかつて「精神分裂病」と呼ばれており、生涯のうちにこの病にかかる割合はおよそ0.7%であるとされています。統合失調症はおよそ青年期から30代までに発症し、幻覚や妄想などを中心とする陽性症状と感情の平板化や意欲の低下と言った陰性症状が見られ、特に予後が不良な場合には知能、感情、意志という精神機能の全般的な解体にまで至るうる精神障害です。かつてこの病は難治性の疾患であるとされ、その予後に関しては極めて悲観的な見方がされてきました。

そして精神病理学や病跡学の世界では統合失調症を患っていたとされる傑出人に注目し、統合失調症を理想化して「統合失調症者は理性の解体に至る深刻な病に罹患することと引き換えに人間の本質に関わる深淵な真理を獲得するに至った人物である」という統合失調症中心主義というべきパラダイムが出来上がりました。また現代思想の文脈においても1970年代の大陸哲学に旋風を巻き起こしたジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイディプス」の影響により統合失調症(分裂症)にポストモダンの理想像を見出すような言説が一世を風靡しました。

その一方でかつての統合失調症の研究は「いかにして人の精神が破綻し、統合失調症が発症するか」という発症過程のドラマチックな部分に議論が集中し、その後の慢性化した状態に興味を持つ人はほとんどいませんでした。そこには統合失調症が慢性化してしまうと人格が荒廃してしまってもう治らないという諦観ともニヒリズムともつかない考え方がありました。

ところがこうした風潮に抗い、統合失調症は治療により十分に回復可能な病であることをはっきりと示した不世出の精神科医が中井久夫氏です。

* 寛解過程論

中井氏は京都大学医学部卒業後、ウィルス学の研究を専門としていましたが、1966年32歳の時に精神医学に転向します。中井氏は『最終講義−−分裂病私見(1998)』において当時の精神医学において統合失調症を「目鼻のない混沌とした病気」だったと表現し「私の目的は分裂病に目鼻をつけることでした」と回顧しています。

そこで中井氏は下痢や不眠といった患者の身体における事象つぶさに観察し、時系列でグラフ化していきました。そして統合失調症の回復にはいくつかの段階があることを示し、特に急性期から回復期に移行する時期を発見し「臨界期(回復時臨界期)」と名づけました。

統合失調症の経過を精密に明らかにしたこの寛解過程論は画期的な研究として精神医学界から驚きを持って迎えられました。

中井氏はこの回復の過程でどんな身体的変化が起こるのかを症例をもって実証しながら、慢性状態も普段に変化し続ける寛解の過程に他ならない、つまり治る可能性があることを極めて説得的に示していきましま。

慢性化している状態をコンディション(状態)ではなく寛解の可能性を含んだプロセス(過程)に読み換えるということ。このパラダイムチェンジは当時極めて画期的なものであったと言われます。ここから慢性期をプロセス、つまり変化し得るものだと考えることで、諦めと惰性が支配的だった慢性期の治療に一筋の希望が生まれることになります。中井氏は「希望を処方する」という言葉を残していますが、寛解過程論はまさに希望を処方する理論であったといえます。

* 風景構成法

そして中井氏は早くから治療に絵画療法を積極的に取り入れていました。その理由はいくつも考えられるが、絵画は言葉ほど侵襲的ではなく、患者を傷つける可能性が少ないため、慢性期の、あまり多くは語らない患者にも適用できるという点がまず挙げられます。絵画療法の導入によって害の少ない形で話題が広がり、また絵の変化によって患者の状態や回復の過程を窺い知ることができるという意義もありました。

そのような中井氏の臨床現場から生まれたのが有名な「風景構成法」です。これは10個のアイテム(川、山、田、道、家、木、人、花、動物、石)を治療者が一つずつ読み上げて、患者はその都度枠の中に描き入れ、さらに足りないと思うものを描き加えて風景として完成させるというものです。

絵画療法とも描画テストともつかない不思議な手法ですが、言葉数の少ない患者とのコミュニケーションを取り、病の経過を理解する上でとても有効な方法として高く評価され、海外の臨床現場でも用いられています。

統合失調症患者の絵というと病的でどこか不穏な絵というイメージがあり、確かに病期によってはそうした絵を描くこともありますが、中井氏はむしろ良い治療環境で安定した状態で描かれる普通の絵にこそ治療状の意味があると考えていました。

この点、風景構成法は誰が書いても普通の絵になるような工夫が施されています。例えば指定されたアイテムをその都度書き込んでいくので全体の構成をイメージしておくことが難しく、どんな人でもあまり上手な絵にはなりませんし、また10個のアイテムがごく普通のものなので不気味な絵にもなりません。すなわち、病理に引き摺られることなく、いかに本人の中にある健康なものを引き出すかに配慮して作られた手法だと考えることができます。

* 自分が世界の中心であると同時に世界の一部である

中井氏は統合失調症は特異な素因を持つ人の病であるというスティグマにつながる考え方を否定し、誰しもが発症しうる病であると繰り返し訴えていました。

では統合失調症を発症した人としていない人の違いは何でしょうか。その問いに彼はシステム論的な発想からアプローチしています。すなわち、人間には病原体から体を守る免疫システムのように自他を区別し続けるためのシステムがあり、このシステムの維持のために不断にエネルギーを注いで統合失調症状態にならないようにしていると中井氏は考えていました。

言い換えればこのシステムがうまく作動しなくなれば、誰でも発病する可能性があるということです。統合失調症の発病過程として氏は脳の中のわずかな異常が少しずつ広がりやがて脳全体を巻き込んで異常な活動状態になってしまうモデルを想定し、その過程を原子炉の暴走に喩えています。

そして統合失調症の寛解過程の中で中井が特に事細かく観察したのが回復期の患者に起こるさまざまな事象です。回復の進み具合は絵画療法で描かれる絵の変化や夢を見るかどうかに現れます。夢は発症当初にはほとんど見られず、回復期に入ると増えてきます。

このほかの回復の目安として一見矛盾する認識の両立が挙げられる。中井はよく「自分が世界の中心であると同時に世界の一部である」という表現を使っています。統合失調症の方はどちらか一方に偏りやすく急性期に妄想に支配されている時は自己中心的になり、回復期になると今度は自己を抑えすぎて周囲に助けを求めにくくなる傾向があります。矛盾するものの間で折り合いをつけ両立させられるかが回復や精神健康の度合いを知るポイントとなるという指摘は極めて重要です。

また中井が回復の目安として重視していた要素に「あせり」と「ゆとり」があります。統合失調症急性期の患者は乱数発生能力に著明な障害が生じることで知られていまく。「ゆとり」がなければ既存の秩序に従うしかなく「ゆとり」があればでたらめを作ることができるということです。

* 心の生ぶ毛とケアの思想

中井氏は患者の尊厳を徹底して尊重することがそのまま治療やケアにつながることを一貫して主張してきました。

患者の尊厳とともに治療で大切にすべきものとして中井氏が強調しているのが「心の生ぶ毛」と呼ぶ心の柔らかな部分です。自発性や主体性が失われ感情の平板化や鈍麻が生じている慢性期の患者は「心の生ぶ毛」が損なわれた状態にあるといえます。「心の生ぶ毛」とは心の健康度を測る大事な要素の一つであり、中井氏はこのような「心の生ぶ毛」を大切にする治療を強調していました。

こうした意味で中井の治療論には常に「キュア(治療)」ではなく「ケア」の方に視点が置かれていたと斎藤環氏は述べています。診断を下し、それに見合う治療をしっかり行うという考え方よりも、病気の如何にかかわらず徹底して患者に寄り添い、話を聞き、応答し、ケアしていくという思想が一貫してあったということです。

「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない」。これは体系化を一切施行しなかった中井が唯一執筆した「看護のための精神医学」に書かれた言葉で中井氏による箴言としてしばし引用されます。ここでいう「看護」は「ケア」と言い換えることができるでしょう。

現在のメンタルヘルス領域では疾患ごとの特異性のないどの病気にも対応できるようなケアの思想で病と向き合っていくという考え方が注目されつつあります。中井が看護=ケアというものの重要性を非常に早い段階から強調していたことは特筆すべき功績でしょう。そして、こうした「ケアの思想」は自身や身近な人のメンタルをケアしていく上でも大いに参考になるようにも思われます。












posted by かがみ at 03:05 | 精神分析