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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年01月26日

資本主義のディスクールと統計学的超自我



* 剰余享楽と資本主義のディスクール

精神分析の始祖ジークムント・フロイトはヒステリーをはじめとした神経症の治療を試行錯誤していく中で、神経症患者の心的現実を基礎付ける根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、フランスの精神分析家ジャック・ラカンはその欲動が満たされた状態を「享楽」と名付けました。もっとも、こうしたフロイト=ラカンの観点からすれば欲動の本質とは「死の欲動」であり、その性質上、欲動の完全な満足という事態はあり得ません。それゆえにラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるわけです。

こうしたことから1960年代中盤までのラカン理論においてはあくまで享楽とはシニフィアンの取り逃した〈もの〉としての現実界の側にあり、シニフィアンの世界である象徴界からは「対象 a 」を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。ところがラカンは1960年代後半から、ディスクールの理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉えます。すなわち、シニフィアンの導入は、主体に〈もの〉の享楽を禁止すると同時に、新たな別の享楽の可能性を与えることになります。この別の享楽を「剰余享楽」といいます。

「剰余享楽」の導入は、シニフィアンと享楽の関係を統合的に捉えることを可能とします。こうした新たな観点から「精神分析の裏面(1969〜1970年)」においては「主人のディスクール」「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」「分析家のディスクール」からなる「4つのデイスクール」の理論が展開されます。

4つのディスクール.png

そしてさらに1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」と呼ぶべき「資本主義のディスクール」を提出します。この「資本主義のディスクール」においては主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、ここでは剰余享楽の「喪失」なき「回復」が生じていることになります。

資本主義のディスクール.png

すなわち、人々の要求が速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解が新製品や新サービスとして次々と市場に供給されていく資本主義システムにおける享楽とは、もはや到達不可能なジュイッサンスではなく大量生産されるエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられるまま、市場に氾濫する対象 a の洪水の中でただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。

このようにラカンにおける「享楽」は当初「不可能なもの」として登場しましたが、やがて「可能なもの」へと捉え直されることになり、さらには「押し付けられるもの」へと変容してしまうことになります。


* 規律権力から生政治へ

そして、こうした「享楽」をめぐるディスクールの変化を社会システムにおける「権力」という観点から捉えるのであれば、おそらくそれはミシェル・フーコーのいう「規律権力から生政治へ」というパラダイム転換として把握できるでしょう。

1950年代にフーコーはそのキャリアを心理学者としてスタートさせましたが、1960年代に入るとフーコーはかつて自らが依拠していた「(喪失したものの回収といった主題に規定される)人間学的思考」の起源を問い直すことになります。その一つの到達点が構造主義ブームの最盛期に出版され大きな反響を呼んだ「言葉と物(1966)」となります。 こうして「人間学的思考」からの脱出に一つの区切りをつけた後、1970年代に入るとフーコーは自身の研究テーマをこれまでの知と言説をめぐる分析から、知と権力の関係をめぐる分析へと転回させることになります。

この点、フーコーは権力における「抑圧」や「排除」というネガティヴな側面から、むしろ権力における「生産」というポジティヴな側面に注目するようになります。そしてこのような観点から権力のメカニズムを捉え直した研究の成果をまとめたのが「監獄の誕生(1975)」です。ここでフーコーは西洋の刑罰制度における「身体刑から自由刑へ」という処罰形式の転換を「君主権的権力から規律権力へ」という権力のメカニズムの歴史的変容との連関から解明しようとしました。

そして翌年に出版された「性の歴史1−知への意志(1976)」においてフーコーは個人の「身体」を「規律」しようとする「規律権力」の傍らに、統計学的調査の対象としての「人口」を「調整」しようとする「もう一つの権力」を描き出していきます。これがフーコーが「生政治」と呼ぶ新たな権力です。

そして彼はこのような「規律」と「調整」の両極から人の「生」に積極的に介入しようとする包括的な権力形態を「生権力」と呼び、そこで形成される様々な装置の中で最も重要なものの一つに個人の「セクシュアリティ」を位置付けます。


* 管理社会の出現

もっとも当時は多くの人がフーコーは現代社会を近代の延長線上の「規律社会」と見做していたと理解していました。ところがフーコーとともにポスト構造主義の時代を築いた哲学者ジル・ドゥルーズは晩年の著作である「記号と事件(1990)」において、こうした一般的なフーコー観を退け、フーコー自身がむしろ「規律社会」の終わりを示したと解釈しました。こうしてドゥルーズは現代において「規律社会」取って代わり登場したのが「生政治」が全面化した「管理社会」であるといいます。

ここでドゥルーズが「管理社会」を語る時、念頭にあるのが資本主義の変化です。つまり「規律社会」から「管理社会」への移行は「生産を目指す資本主義」から「販売や市場を目指す資本主義」への変化、つまり消費化/情報化社会への変化に対応しています。そして、こうした「管理社会」においては「障壁」ではなく「コンピュータ」が重要な役割を果たし、個々人の情報は例えば乗客のデータや小売店のデータや飲食店のデータや金融機関のデータというように、さまざまなデータの断片へと分割されていきます。こうして管理社会では「マーケティングが社会管理の道具」となり「いつでもどこでも」つまりユビキタスに管理され、しかもその管理は終わることなく続くと、ドゥルーズは述べています。

まだインターネットがほとんど一般的ではなかった30年以上前の時点でドゥルーズは我々の生きる現代社会の病理を恐ろしいほど的確に「予言」しているといえるでしょう。実際、現代における「管理社会」では個々人の情報はさまざまなところで捕捉され分析され記録されて、さらにこれらの情報は相互に流通しあい蓄積されていくことになります。現代を生きる我々は良くも悪くもこのシステムから逃れることはできないでしょう。


* 想像界における享楽の病理と象徴界の変容

このように近代から現代への社会像の変化は「享楽」という観点からは「主人のディスクール(享楽を殺す社会)」から「資本主義のディスクール(享楽を生かす社会)」への変化として、そして「権力」という観点からは「規律権力」から「生政治(管理社会)」への変化として把握できます。では、こうした社会における「正しさ」を担保する「秩序」はどのように基礎付けることができるのでしょうか。

この点、我が国における現代ラカン派を代表する論客として知られる精神病理学者、松本卓也氏はその著書「享楽社会論(2018)」において現代における「享楽」と「知性」の関連の中で社会における「秩序」の変容を論じています。以下、しばらく松本氏の議論を概観してみましょう。

まず氏は「反知性主義」や「ポスト・トゥルース」が台頭する今日的な政治状況から、そもそも⑴「知性」とはそれほど信頼がおけるものであったか、そして⑵「知性」と呼ばれるもの自体が現在では変容しつつあるのではないかという論点を抽出します。

この点 ⑴「知性」とはそれほど信頼がおけるものであったかという点につき、氏は人は知性では動かされず、むしろ感情や情動や情熱の水準で初めて動かされる存在であるという事実から出発する必要があるという近来の政治理論を踏まえて、今日の非-知性的な政治動向をラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクに倣い「享楽の政治」と名指し、ここから今日におけるレイシズムや極右の言説を想像界における享楽の病理として位置付けます。

そして⑵「知性」と呼ばれるもの自体が現在では変容しつつあるのではないかという点につき、氏は象徴界の変容という文脈から次のように論じます。

ラカンにとって想像界とは双数的=決闘的な二者関係が支配する世界であり、終わりない憎悪と攻撃の応酬が入り乱れる世界です。この点、50年代のラカンはこのような決闘状態は象徴的な第三項、すなわち〈父の名〉を導入することによって解決されると考えていました。すなわち、想像界は決闘であり、象徴界は決闘を終わらせる契約であり、イマジネールは常にサンボリックによって乗り越えられるということです。

ならば、我々はいま象徴的な第三項に頼ることで想像界における享楽の病理を克服できるかというと、氏はそれは不可能だといいます。なぜならば、今日においては「世界秩序を平和的に統御できるような覇権」はどこにも存在せず、象徴界を契約によって秩序づける「〈他者〉の〈他者〉」はなく、さらには信頼に足るような「〈他者〉は存在しない」と考えるべきだからです。


* 象徴界のフラットな使用

そして氏によれば、このような「〈他者〉の不在」の時代におけるレイシズムや極右の言説は「象徴界のフラットな使用」とでも名付けられる手法を用いているとされます。すなわち、彼らは想像界において享楽を動員する一方で、象徴界において「データ」とか「ファクト」とか「エヴィデンス」という名で呼ばれる「括弧付きの知性」を用いるということです。

こうしてレイシズムや極右の言説における「享楽の病理」は「法は法だ」「事実は事実だ」というフラットな象徴的論理を介しても展開されることになります。こうしたフラットな象徴的論理とそこに含まれる「享楽の病理」の存在は「命令は命令である」以上はどんな命令でも官僚主義的に従うことから巨悪が展開されるというハンナ・アーレントのいう「悪の凡庸さ」を想起させる、と氏は述べます。また氏はレイシズムや極右の言説が享楽の動員のために用いるもう一つの戦略として敵対性を基盤とした同一化を挙げています。すなわち、ある任意の対象を「敵」と認定することで、この世界を「敵」と「友」を切り分けて、大衆の同一化を獲得するという戦略です。

ここで氏は確かに「〈他者〉の不在」の時代においては〈父の名〉に相当する位置に立つ人物は多かれ少なかれフィクショナルなものとして機能せざるを得ず、現代において政治的な同一化を獲得するためには「敵」を作り出し、敵対性を基盤とした同一化を行うことが少なからず必要であるとしつつも、この敵対性を無限に押し進め、他者性をなきものにしたり、他者の要求を共通の闘技の土俵に乗せることすら認めないような立場はフィクショナルな父としても不十分であるといいます。


* 現実界における〈父の名〉の回帰としての鉄の秩序

この点、晩年のラカンは「〈他者〉の不在」の時代には「父なるもの」それ自体が変質し、フェイクとしての「父もどき」が蔓延することを的確に予告していました。セミネール21「騙されない者は彷徨う(1973〜1974)」においてラカンは、現代では社会において〈父の名〉は排除されており、その〈父の名〉は「任命」の機能にとって代わられ、鉄のように冷酷な規範として社会の中に現れるという仮説を唱えています。すなわち「任命」の機能を持つ「鉄の秩序」が「現実界における〈父の名〉の回帰」として社会の秩序づけを行うことになるということです。

〈父の名〉と「鉄の秩序」はどう違うのでしょうか。そもそもラカンにおいて〈父の名〉の機能とは「欲望を法へと結びつけること」でした。生まれたばかりの子供は、母親の気まぐれな現前/不在の法則によって生死を左右される存在といえますが、まさにその母親の現前/不在という謎から子どもにおいて欲望が発生します。そして〈父の名〉は母親の現前/不在を根拠づけ、欲望をファルスへと隠喩化することで象徴的システムの安定を図る機能を持っていました。

他方で、現代のような〈父の名〉が衰退した時代においては〈父の名〉よりも「母の欲望」が優位となります。すなわち、それは社会を秩序づける原理が、父としての理想を体現する自我理想(〈父の名〉)ではなく、母性的な超自我に取って代わられることを意味しています。なぜならば「意味を欠いた法」としての超自我は〈父の名〉によってその欲望が隠喩化される以前の「母の欲望」に近いからです。

そして後にラカンが「悪魔的な力」を持っていると評したように、この超自我は主体の殲滅に至るまで命令や禁止を繰り返すだけであり、どこかの時点で主体に承認を与えるということがありません。

この点、精神分析家、マリー=エレーヌ・ブルースは、このような〈父の名〉から「鉄の秩序」への変化を現代における主人のディスクールの変化として解釈し、それを子どもに「然り」を告げる包摂的秩序から子どもに気まぐれで横暴な命令と「否」だけを告げる排除的秩序への変化として理解しています。

すなわち〈父の名〉の機能しない現代において、普遍的なものを基礎付ける大文字の〈法〉の代わりに現れるのは、官僚主義的に「〇〇してはいけません」という「否」や「理由はともかく、私がこう言っているのだからこうすべきだ」という命令を羅列する一種の小文字の法であるということです。このような小文字の法は大文字の〈法〉が失墜した後に回帰してきた「鉄の秩序」そのものといえます。


* 統計学的超自我の出現

「いかなる理由があろうとも規則だからダメだ」「私の迷惑になるからダメだ」という反駁不可能な論理が公共空間の中に満ちることをその特徴とするこのような「鉄の秩序」はまさしく、象徴界のフラットな使用により想像界において享楽を動員する当のものであるともいえるでしょう。

そして、このような小文字の法の論理を今日支えているものは「データ」とか「ファクト」とか「エヴィデンス」などといった「政治的正しさ」によって支えられた超自我です。ブルースは次のように述べて、そのような現代社会における超自我を「統計学的超自我」と名付けています。

1974年のこの講義(ラカンのセミネール21の講義)の際に、任命に言及したとき、ラカンは、〈父の名〉は今日では排除されているということを付け加えています。ならば、排除されたものは現実界のなかに回帰するという公式に従って、〈父の名〉は現実界のなかに再来するということになります。排除された〈父の名〉は、どのように現実界のなかに再来するのでしょうか?どのような方法で再来するのでしょうか?〈父の名〉は、社会規範としてディスクールのなかに再来するという仮説をラカンは表明しています。

現在、主人として働いているのは、このシニフィアン(=数字・平均・比)、つまり科学の権力を要求する専制の主人なのです。正規分布の中央が、社会秩序なのです。これが今日の〈父の名〉です。ポリティカル・コレクトネス、コンサンセス、存在する権利を正当化できる唯一のものについてのエヴィデンスの保証といったものがそれにあたります。

このような社会秩序を、ラカンは「鉄の秩序」と評しています。この秩序は、〈父の名〉よりも獰猛なものです。なぜなら、鉄の秩序は禁止の事例がそうであったように欲望に相関しているのではなく、直接的な方法で享楽に相関しているからです。誰かが皆さんに「否」と言うときには、欲望が生じることが可能です。しかし「否」の場所に到来するものが数字であったとすれば、もはや超自我しかそれに返答することはできません。

私は、この新しい超自我にふさわしい名前を見つけようとしました。この新しい超自我の名前は、自我理想を犠牲にして書くことができる名前です。今日では「(新しい超自我である)統計学的超自我(surmoi statistique)」について語ることができるでしょう。



* 統計学的超自我の時代における知性

今日においてブルースのいう「統計学的超自我」の力は政治、経済、労働、医療、教育、福祉といったあらゆる領域において急速に高まりつつあります。こうしたことから、松本氏はラカンの「世界中が恥ずべき合意形成へと滑り落ちていく際に発せられる『否 non』というシニフィアン」という言葉を引用し「この惨澹たる現状そのものに対して大文字の『否』を突きつけることである」と述べます。

もっともその一方で、こうした「統計学的超自我」の全面化は「大きな物語」の失墜したポストモダン化の必然的帰結であるともいえます。いまや我々は「統計学的超自我」の時代を生きているという事実を受け入れないわけにはいかないでしょう。そして、こうした状況においてもなお「象徴界のフラットな使用」による「享楽の病理」から逃れていくには「データ」や「ファクト」や「エヴィデンス」という名でもっともらしく提示される二項対立を常に問い直していく態度は不可欠であるといえるでしょう。

こうした意味で、かの名高きニーバーの祈りにあるように「変えることのできるものを変える勇気」と「変えることのできないものを受け止める静けさ」の双方を使い分けていくための「変えることのできるものと変えることができないものとを識別する知恵」を希求することこそが現代における「知性」のささやかなあり方ではないでしょうか。

























posted by かがみ at 03:07 | 精神分析