【参考リンク】

現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2022年12月29日

欲望と享楽のエチカ



* エディプス・コンプレックスと〈他者〉の欲望

時は20世紀初頭、精神分析の始祖であるジークムント・フロイトは当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中、患者の心的現実を基礎付ける内因的な欲動の存在を想定し、独自の欲動発達論を主張しました。すなわち、フロイトによれば、幼児のリビドーは身体の各粘膜部位に性感帯を持つ自体愛的な部分欲動として生後間もなく生じ「口唇期(1歳頃まで)」「肛門期(2〜3歳頃)」「男根期(4〜5歳頃)」という一定の発達段階プログラムを経由して、やがて「部分対象(身体部位)」から「全体対象(他者)」へ向けられることになります。

この点、男根期に入ると幼児は性の区別に目覚め、異性の親に愛着を持つ一方で、同性の親に対する憎悪を抱くとフロイトは考えました。このような幼児の抱く心的観念の複合体をフロイトはギリシア悲劇に倣い「エディプス・コンプレックス」と命名しました。フロイトはこの「エディプス・コンプレックス」の解消のされ方がセクシュアリティの確立や超自我の形成、そして神経症的葛藤の成立における重大な要因となると述べています。

この一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのがフランス現代思想史における構造主義の代表的論客として知られる精神分析家ジャック・ラカンです。ラカン理論の最も大きな特徴は人の精神活動を「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(外部)」という三つの位相によって把握する点にあります。ここでは「想像界」を統御するのが「象徴界」であり「象徴界」を駆動するのが「現実界」であるとされてます。そして、ラカンは「象徴界」に対する心的機制を基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別しました。

この点、ラカンは「精神病(1955〜1956)」において、エディプス・コンプレックスとは〈父の名〉という「象徴界の法」を示すシニフィアンの導入であり、この〈父の名〉が欠損していることが精神病の構造的条件であると主張しました。ついで、ラカンは「対象関係(1956〜1957)」においてファルスという対象の欠如を巡って、人のセクシュアリティがどのように規範化(正常化)されるかを論じ、さらに「無意識の形成物(1957〜1958)」においては前駆的な象徴秩序(原-象徴界)がいかにして〈父の名〉によって統御されるかを論じています。

こうして、エディプス・コンプレックスというのは⑴セクシュアリティの規範化と⑵原-象徴界の統御という二つの機能を持っていることが明らかになります。そこで、ラカンは、ソシュールの構造言語学のアルゴリズムを応用し、この二つの機能を一つの論理に圧縮します。これが「父性隠喩」と呼ばれる以下の構造式です。

父性隠喩.png

幼児の前で繰り返される母親の現前/不在というセリーは「母の欲望」の「謎=x」がそれぞれシニフィアン/シニフィエの関係を構成し、子どもは「xの想像的形態としてのペニス=想像的ファルス」への同一化を試みることになります(母の欲望/x)。けれどもこの同一化は結局上手くいかず、やがて「母の欲望」は〈父の名〉という「法」を名指すシニフィアンに置き換えられることになります(〈父の名〉/母の欲望)。

結果「象徴界」としての「大文字の他者(A)」が成立すると同時に、置き換えによる固有の意味作用として「象徴界における欠如=欲望」を名指すシニフィアンである「象徴的ファルス」が成立します。この段階をラカンは「象徴的去勢」と呼びます。

この点、ラカンは「人の欲望は〈他者〉の欲望である」といいます。それは上述のように人の欲望は「母の欲望」や〈父の名〉といった大文字の〈他者〉の上に成り立っていることを意味しています。こうしてラカンのいう「象徴界」とは「象徴的ファルス」によって駆動されるシニフィアン連鎖の「構造」として作動することになります。


* アンチ・オイディプスの衝撃

このようにラカンは人間の欲望が成立するプロセスとしてエディプス・コンプレックスを構造的に読み解きました。ところが、こうした「神経症的欲望(精神分析的欲望)」とは異なる欲望のあり方を提示したのが、フランス現代思想史においてポスト構造主義を代表する論客として知られるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らが1972年に発表した共著「アンチ・オイディプス−−資本主義と分裂症(1972)」は発売されるや否や若年層を中心に熱狂的に歓迎され、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。





AOにおいて究明されたテーマはずばり「欲望」です。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望する諸機械」という奇妙な概念を提示します。つまり「欲望」とは自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「諸機械」に宿る非主体的、非人称的な力の作用のことをいいます。

これら「欲望機械」は、それぞれ相互に連結して作動する一方、同時にその連結に必然性はなくたちまち断絶し、別のものへと向かい新たな連結を作りだします。こうした矛盾した二面性からなる連続的プロセスをドゥルーズ=ガタリは「結びつきの不在によって結びつく」「現に区別されているかぎりで一緒に作動する」といった表現で定式化します。

ドゥルーズ=ガタリから言わせれば「欲望」とは本来的に「こうあるべき」という「コード(規則)」に囚われない多様多彩な「脱コード的」な性格を持っているということです。ここからドゥルーズ=ガタリは「欲望は本質的に革命的である」という基本的テーゼを打ち出します。

こうした本来的に脱コード的ないし革命的な欲望に対して、これを規制して秩序化する社会様式をドゥルーズ=ガタリは「原始共同体」「専制君主国家」「近代資本主義」という三段階に区分します。そして、これらの社会様式を欲望の側から見た場合、それぞれの特質は「コード化」「超コード化」「脱コード化」にあるといいます。

すなわち、近代資本主義というシステムは外部の多様多彩な脱コード的な欲望によって駆動しつつも、これらの欲望を「代理-表象」として整流して内部に還流させることでシステムを安定させようとする「公理系(パラノイア)」として作動していることになります。こうした意味において、幼児の多様多彩な欲望を「父ー母ー子」のオイディプス三角形へと整流する精神分析とは、システムの安全装置以外の何物でもなく、同書の立場からはラディカルに批判されることになります。

そして同書はシステムを内破するモデルを「分裂症(スキゾフレニア)」に求めました。資本主義システムが排除する分裂症はまさにシステムの外部に在ります。すなわち、この世界を分裂症の側から観るということは欲望における本来的な外部性を奪還するということに他ならなりません。こうしてドゥルーズ=ガタリは「いわゆる正常=神経症」という従来の精神分析的構図をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱しました。

分裂分析が目指したのはいわば千の欲望の表出であり、これはやがて同書の続編として公刊された「千のプラトー(1980)」において「リゾーム(根茎)」という概念へ昇華されます。「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して、リゾームには全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ&ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのでした。


* 否定神学システムと郵便=誤配システム

「アンチ・オイディプス」と「千のプラトー」においてドゥルーズ=ガタリは「神経症的欲望(精神分析的欲望)」から解放された「ポスト神経症的欲望」への展開を志向しています。いわば「神経症的欲望」が、単一的な欠如をめぐってひたすら空回りを続ける欲望観だとすれば「ポスト神経症的欲望」とは複数的な可能性に向けて発散していく欲望観であるといえます。この点、両者の欲望観を我が国の現代思想シーンの中に位置付けるとすれば、おそらく両者の相違は東浩紀氏が「存在論的、郵便的(1998)」において提示した「否定神学システム」と「郵便=誤配システム」の相違へと送り返すことができるでしょう。





東氏は同書において、ドゥルーズ=ガタリと並ぶポスト構造主義の論客として知られるジャック・デリダが1970年代初頭から1980年代にかけて発表した一連の実験的テクスト群に光を当てて、デリダの「脱構築」を「否定神学システム」と「郵便=誤配システム」という二つの側面から再整理しています。ここでいう「否定神学システム」とは、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴(ゲーテル的亀裂)」を発見した上で、この「穴」を「超越論的シニフィアン」で縫合し、全てのシニフィアンの運動をこの超越論的シニフィアンという最終審級へと回収してしまう思考様式です。こうした「否定神学システム」の先駆としてマルティン・ハイデガーの存在論が挙げられます。そしてハイデガーの強い影響下にあった1950〜1960年代のフランス現代思想もやはり、ラカンやデリダも含めてこの「否定神学システム」の磁場に支配されていたといえます。

これに対して東氏は1970年代に発表されたデリダの実験テクスト群の中に「否定神学システム」から逃れていく別の思考を発見し、これを「郵便=誤配システム」と名づけました。ここでいう「郵便=誤配システム」とは端的に言えばシニフィアンが予期せぬシニフィアンに誤配される不完全で歪なネットワーク/コミュニケーション空間のことです。それは具体的には「思い違い」「読み違い」「書き違い」などといった形で我々の日常生活の中に現れます。こうした「郵便=誤配システム」からは「否定神学システム」における「穴」とは、ネットワーク/コミュニケーションの効果として顕現する仮象として把握されることになります。そして、こうした東氏の図式から見ると「神経症的欲望」は「否定神学システム」に規定されており「ポスト神経症的欲望」は「郵便=誤配システム」に折り重なっているといえるでしょう。


* 享楽の前景化

もっとも、このようなラカンとドゥルーズ=ガタリの対立は、1950年代のラカン理論を前提とする限りにおいてです。なぜならば1960年代以降のラカンもまたエディプス・コンプレックスを相対化する方向へと大きく舵を切っているからです。そして、このラカンの理論的変遷の中で前景化してくるのが「享楽」という概念です。





周知の通りフロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、ラカンはその欲動の満足状態を「享楽」と呼びます。もっともフロイト=ラカンによれば欲動の本質とは「死の欲動」であり、その性質上、完全な「満足」ということはあり得ません。それゆえにラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるわけです。

まず「精神分析の倫理(1959〜1960)」においてラカンは「享楽」を〈もの〉との関連で取り上げています。ここでいう〈もの〉とは、外界からの刺激を受けた心的装置が決定的に取り逃がした何かであり、象徴界の外部としての現実界を構成します。

心的装置.png

その後、ラカンはシニフィアンの間隙を縫って出現してくる〈もの〉のごとき断片を「対象 a 」という概念で捉えるようになります。そして「精神分析の四基本概念(1964)」においては「疎外と分離」の図式により、シニフィアンの枠組みの中での対象 a の位置が明らかにされました。

疎外と分離.png

けれども、この時点では享楽とはあくまで〈もの〉の側にあり、シニフィアンの世界からは対象 a を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。ところが、ラカンは1960年代後半から、ディスクールの理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉えます。すなわち、シニフィアンの導入は、主体に〈もの〉の享楽を禁止すると同時に、新たな別の享楽の可能性を与えることになります。この別の享楽を「剰余享楽」といいます。

剰余享楽の導入は、シニフィアンと享楽の関係を統合的に捉えることを可能とします。こうした新たな観点から「精神分析の裏面(1969〜1970年)」においては「主人のディスクール」「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」「分析家のディスクール」からなる「4つのデイスクール」の理論が展開されます。

4つのディスクール.png

ディスクールの理論が示しているのは、ある社会的紐帯によって何が産み出され、結果、何が真理とされるのかという一つの構造です。これは1968年の5月革命における「構造は街頭に繰り出さない」というアジテーションに対するラカンからの反論でもあります。


* 享楽の洪水

そしてさらに1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」と呼ぶべき「資本主義のディスクール」を提出します。

資本主義のディスクール.png

この「資本主義のディスクール」においては主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、ここでは剰余享楽の「喪失」なき「回復」が生じていることになります。すなわち、人々の要求が速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解が新製品や新サービスとして次々と市場に供給されていく資本主義システムにおける享楽とは、もはや到達不可能なジュイッサンスではなく大量生産されるエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられるまま、市場に氾濫する対象 a の洪水の中でただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。

このようにラカンにおける「享楽」は当初「不可能なもの」として登場しましたが、やがて「可能なもの」へと捉え直されることになり、さらには「押し付けられるもの」へと変容してしまうことになります。こうした意味からドゥルーズ=ガタリにおける「欲望機械」と70年代ラカンにおける「対象 a 」は理論的にほぼ等価的な位置にあるといえるでしょう。

そして消費化と情報化が極まりグローバル化とポストモダン化がますます加速する現代は、一方でドゥルーズ=ガタリの目論み通りオイエディプスが失墜した「リゾーム」の時代ともいえますが、他方でラカンが予見したように獰猛な超自我が支配する「資本主義のディスクール」の時代ともいえるでしょう。けれども、こうした時代における抵抗の拠点もまた、ドゥルーズ=ガタリとラカンの言説の中に見出すことができるでしょう。


* 倒錯的な精神病とリトルネロ

まずドゥルーズ=ガタリが「アンチ・オイディプス」において展開した議論は単にオイディプスからの逃走に尽きる単純なものではありません。この点、千葉雅也氏はAOにおいてドゥルーズ=ガタリは「神経症の精神病化」を誇張的に肯定しているものの、その背景にはドゥルーズが「ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)」で展開した独自の倒錯論(急ぎすぎずにサディスティックでもあるマゾヒズム)が潜んでいるとして、この事実は「ポスト神経症的欲望」をいわば「精神病と倒錯のオーバーダブ」として捉える立場を示唆しているとしています。

すなわち「分裂分析」とは千葉氏によれば実は「分裂-マゾ分析」であり、彼らの理想化する「分裂症者」とは、セクシュアリティを規範化する〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われるということです。そして、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば〈性別化のリアル〉の「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになります。それゆえに、彼らの称揚した「欲望」とは、サディズム(イロニー)とマゾヒズム(ユーモア)の往還運動によってこの世界を別の仕方で多重化していく欲望であったといえます。

また「千のプラトー」においてドゥルーズ=ガタリは暗闇の中で子供が口ずさむ歌を切り口に「リトルネロ(リフレイン)」という概念を論じています。このリトルネロという営為は何にもまして、無秩序なカオスの中に自分のテリトリーを創り出す「領土性のアレンジメント(編成)」です。そして、それは生成流転する世界の中に暫定的な秩序としての「居場所」ないし「住み処」を創りだす技法でもあります。

周知の通り「千のプラトー」という本の通奏低音をなすのは「ツリーからリゾームへ」というパラダイムシフトです。確かに「ツリー」という旧来の秩序が曲がりなりにも健在であった当時において、同書が前面に押し出した「リゾーム」という新たな秩序は時代に対する強烈な批判力となり得ました。けれども「ツリー」が完全に失墜し、全世界的に「悪しきリゾーム」というべき「資本主義のディスクール」が加速する現代における抵抗の拠点はむしろ「リゾーム」を減速させる契機を創り出す「リトルネロ」に見出されるのではないでしょうか。


* 〈他〉の享楽とララングの享楽

その一方で晩年のラカンもまた「享楽」が氾濫する時代における精神分析の在り方を示しています。まずは「アンコール(1971〜1972)」においてラカンは「性別化の式」と呼ばれる次のような図式を提示しています。

性別化の式.png

ここで「男性側の式」を示す左下(∀xΦx)と左上(∃xΦx)では「すべての男性はファルス関数に従属しているが、少なくとも一人以上、ファルス関数への従属を免れている例外が存在する」という命題が示されています。この命題は、言うなればこれまでのラカン理論における享楽の在り処を再確認するものであるといえます。

これに対して「女性側の式」を示す右上(∃xΦx)と右下(∀xΦx)では「ファルス関数への従属を免れた女性がいるわけではないが、すべての女性がファルス的関数に従属しているわけではない」という何とも不可解な命題が示されています。この命題は、これまでのラカン理論を超えた享楽の在り処を示唆するものであるといえます。





さらに70年代におけるラカンはシニフィアン連鎖以前の、言語として構造化されていない「単独のシニフィアン」を重視しています。

この点、子供が最初に出会うトラウマ的シニフィアンを、ラカンは「ララング(lalangue)」といいます。子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ、ここにトラウマ的享楽がもたらされることになります。

すなわち、子どもにとってララングとは情報の伝達手段ではなく、トラウマ的享楽を反復するための私的言語に他なりません。しかしある時から、大多数の子どもはララングを使うことを諦め、情報の伝達手段としての言語(langage)の世界である「象徴界」へ参入します。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ、結果、シニフィアン連鎖によって構造化された無意識が形成されることになります。

この点、こうしたシニフィアン連鎖を切断して再び「ララングの享楽」へと向かう精神分析的実践を現代ラカン派では「逆方向の解釈」と呼びます。そして、こうしたプロセスの中で分析主体はその人だけが持つ特異的=単独的な固有の享楽のモードと向き合っていくことになります。


* 欲望と享楽のエチカ

こうしてみると、いまやエディプス主義者ラカンと反エディプス主義者ドゥルーズ=ガタリという二項対立は完全に過去のものといえます。むしろ両者は共に「ポスト・エディプス」として出現した「さらに悪いもの」へ抗うための思想として位置付け直す事ができるでしょう。

そして、こうした観点から両者を読み直し、その上で改めて両者の差異を問い直していくその過程の中にこそおそらく、この「さらに悪いもの」が席巻する時代における欲望と享楽のエチカを見出すことができるのではないでしょうか。




































posted by かがみ at 00:52 | 精神分析