【参考リンク】

現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2022年11月29日

リトルネロの諸相



* いないいない-ばあ〈Fort-Da〉

精神分析の始祖、ジークムント・フロイトは後期を代表する論文「快原則の彼岸(1920)」において、自身の孫の糸巻き遊びに着想を得て、従来の理論を大幅に更新する「思弁」を展開しています。それまでのフロイトの理論では、人の精神は根源的には「性欲動」と「自我欲動」に規定されており、一方で性欲動は快を目指して不快を回避する快感原則により駆動し、一方で自我欲動は快感原則に一旦歯止めを掛けて自己保存を図る現実原則により駆動するとされています。ところがフロイトは孫のエルンストが糸巻きを使って反復する「いないいない-ばあ〈Fort-Da〉」の遊びの中に従来の自身の理論からは説明し難い衝迫を見出し、ここから従来の「性欲動」と「自我欲動」の対立に代わる「生の欲動」と「死の欲動」の対立を提示しました。

そしてフロイト理論を緻密に読み直したことで知られるフランスの精神分析家、ジャック・ラカンはこの〈Fort-Da〉の反復運動から象徴的秩序(言語秩序)の組成を論じています。ラカンによればフロイトが見出した〈Fort-Da〉とは「人間という動物が象徴界の秩序から受け取る決定をその最も根本的な特徴において表現している」といいます。すなわち、エルンストは母親が現れてはいなくなるというという現実的な出来事を、糸巻きの出現と消失の反復によって把握して、象徴化しているということです。ここからラカンは「現前(+)」と「不在(−)」の二分法からなる原初的象徴化のメカニズムを解明していきます。

これに対してフロイトに真っ向から反旗を翻した「アンチ・オイエディプス(1972)」で一世を風靡したポスト構造主義の代表的論客であるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはその続編である「千のプラトー(1980)」において「精神分析家は〈Fort-Da〉を適切に語ることができない」と批判します。そして、ここでドゥルーズ=ガタリが〈Fort-Da〉を「適切に語る」ものとして提示するのが「リトルネロ」という概念です。

* 領土性のアレンジメントとしてのリトルネロ

暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものである。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれねという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。

(千のプラトーより)


われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子供が暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは、歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない-ばあ」〈Fort-Da〉の呪文を唱えたりする(精神分析家は〈Fort-Da〉を適切に語ることができない。〈Fort-Da〉は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読み取ろうとするからだ)。タララ、ラララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つの節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌い始める。

(千のプラトーより)


ドゥルーズとガタリは「千のプラトー」において、暗闇の中で子供が口ずさむ歌を切り口に「リトルネロ(リフレイン)」という概念を論じています。まわりに何があるのか分からない混沌とした場所で、子供は、何かしらのフレーズを口ずさむことによって、少しの安心と勇気を得ることができる自分自身の居場所ないし領域、すなわち「領土」をかろうじてつくりあげるわけです。こうしたことから、フロイトのいう〈Fort-Da〉とは実はリトルネロであったと主張します。

こうした観点からいえば、このリトルネロという営為は何にもまして、無秩序なカオスの中に自分のテリトリーを創り出す「領土性のアレンジメント(編成)」です。この点、彼らによれば「領土」とは、例えば動物が匂いによって自分のテリトリーをマーキングするように、未だ分割されていない土地に刻印(マーキング)することによって誕生するものです。また彼らのいう「アレンジメント」とは、言葉や身体などのあり方を条件づける社会的文脈の配置編成のことである。言葉や身体はもちろん事物も道具も、つねに、社会的な文脈の中で価値を帯びるものだということを、ドゥルーズ=ガタリは強調しています。

そして、このように人間や動物がある任意の場所を自分のテリトリーであると主張する手段は当然、歌だけではありません。ドゥルーズ=ガタリがいうようにリトルネロには領土を創造する「音響リトルネロ」ばかりでなく、領土へ誘惑する「色彩リトルネロ」や、領土を防衛する「姿勢リトルネロ」も存在します。すなわち、人間や動物は他の種から区別されるばかりでなく、同じ種の他の個体からも区別される独自の「音響」「色彩」「姿勢」といった独自のリトルネロを形成する、ということです。


* 音響リトルネロ・色彩リトルネロ・姿勢リトルネロ

この点、ドゥルーズ=ガタリは後に「哲学とは何か(1991)」という著作のなかで、一羽の鳥を参照しながら、芸術家について語っています。

オーストラリアの多雨林に棲む鳥、スキノピーティス・デンティロストリスは、毎朝あらかじめ切り取っておいた木の葉を下に落とし、それを裏返すことによって、色の薄い裏面を地面と対照させ、こうしていわば(モダン・アートにおける)レディ・メイドのような情景をつくり、そして、その真上で、蔓や小枝にとまって、くちばしの下に生えている羽根毛の黄色い付け根をむきだしにしながら、ある複雑な歌を、すなわちスキノピーティス自身の音色と、スキノピーティスがその間、間断的に模倣する他の鳥の音色によって合成された歌を歌う−−この鳥は完璧に芸術家である。
(「哲学とは何か」より)


ここで彼らはスキノピーティスの動きとともに、リトルネロを音の領域から全ての感覚に拡げています(なお、スキノピーティス・デンティロストリスとは、和名でハバシニワシドリ(庭師鳥の一種)のことです)。

すなわち、スキノピーティスはまず、地面に葉を落とし、色の薄い葉の裏を表にして地面との対比をつくりあげます(色彩による差異)。そしてそのテリトリーの上方の木の枝にとまり、くちばしの下の羽根毛の黄色い付け根をむきだしにして(色彩リトルネロと姿勢リトルネロ)、自身の鳴き声をも真似ながらさえずります(音響リトルネロ)。こうして色彩・姿勢・音響のブロックとともに複数のリトルネロが形成されることになります。


* 芸術の起源としてのリトルネロ

このように動物のテリトリーを印付けるリトルネロがドゥルーズ=ガタリにとって重要なのは、それが「芸術の起源」の問題と深く関わっているからです。彼らによれば、芸術とは人間に固有のものではなく、むしろ「芸術は、おそらく、動物と共にはじまる。少なくとも、テリトリーを裁断し家をつくる動物とともにはじまる」とされます。

すなわち、ドゥルーズ=ガタリは自らのテリトリーを示す動物のさまざまな表現(色彩・姿勢・音響)がすでに芸術であり「芸術はたえず動物につきまとわれている」と述べています。おそらく、ここには芸術をあらゆる「人間化」から奪い返そうとする意思を見ることができるでしょう

ところでドゥルーズは「芸術作品は、諸感覚のブロック」であるとも述べています。ここには「感覚」とは我々人間が所有するものではなく、むしろ「感覚」こそが人間を存在させているという認識があります。そして、芸術作品はそうした人間の把握する「(知覚や感情を超えた)感覚」の存在とともに可能になるということです。

そして重要なのは、そうした諸感覚の塊が、一種のリトルネロとして考えられている点です。もっともドゥルーズ=ガタリによれば、芸術家がなすべきことはリトルネロが創り出すテリトリーに安住することではなく、むしろ芸術の本領とはリトルネロの外にある「宇宙の力」を捉えることにあるとされます。すなわち、彼らにとってのリトルネロとは領土を外へとひらくために領土を創設する営為であり、純粋な混沌の暗闇を回避しながらも自己を越えるような大きな力を引きこむための営為であるということです。彼らは「千のプラトー」でこう書いています。「カオスの諸力、大地の諸力、そして宇宙的な諸力、これらがすべて、リトルネロの中で衝突し、競い合うのだ」。


* 日常におけるリトルネロ

リトルネロ。それは生成流転する世界の中に暫定的な秩序としての「居場所」ないし「住み処」を創りだす技法でもあります。そして、こうした意味でのリトルネロは我々の日常の至る所に−−例えば自閉症スペクトラム障害に顕著とされる常動反復運動に、または「萌え」とか「推し」などと呼ばれる特定の対象へのアディクションに、あるいは近年において医療やビジネスなどの分野で注目を集めるマインドフルネスに−−見出すことができるでしょう。

周知の通り「千のプラトー」という本の通奏低音をなすのは「ツリーからリゾームへ」というパラダイムシフトです。確かに「ツリー」という旧来の秩序が曲がりなりにも健在であった当時において、同書が前面に押し出した「リゾーム」という新たな秩序は時代に対する強烈な批判力となり得ました。けれども、国民国家という「ツリー」が完全に失墜し、全世界的にグローバル化やネットワーク化といった「リゾーム」が加速する一方である現代においては、むしろ同書は「リゾーム」を減速させる契機となる「リトルネロ」に光を当てながら「リゾームからリトルネロへ」というさらに新たなパラダイムシフトから読み直されていくのではないでしょうか。












posted by かがみ at 01:09 | 精神分析