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2022年10月29日

アンチ・オイエディプスの倒錯論的解釈



* アンチ・オイエディプスは何を目指したのか

かつて1960年代に一世を風靡した「構造主義」の首領にして精神分析中興の祖として知られるジャック・ラカンは人間の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相の絡み合いの中で、その心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに位置付けました。これに対して1970年代に「構造主義」を乗り越える形で現れ大陸哲学に一大ムーブメントを起こした「ポスト構造主義」の代表的思想家と目されるジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはその共著「アンチ・オイエディプス」において「いわゆる正常=神経症」という従来のラカン的構図をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱しました。

AOにおいて、ドゥルーズ=ガタリは「精神分析的欲望=神経症的欲望」から解放された「ポスト神経症的欲望」への展開を志向しています。ここでいう「神経症的欲望」とはラカンが「象徴界」と呼んだ間主観的ネットワークにおいて個人のセクシャリティの規範化を構成する欲望の様式を指しています。これに対して「ポスト神経症的欲望」とは象徴界=間主観的ネットワークから切断されて多方向に発散していく無軌道な欲望の様式を指しています。

この点、千葉雅也氏はAOにおけるドゥルーズ=ガタリは「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したが、その背景には「マゾヒズム論としての倒錯論」が潜んでいるとして、この事実はポスト神経症的欲望という〈別の仕方での欲望〉をいわば「精神病と倒錯のオーバーダブ」として捉える立場を示唆しているとします。

すなわちAOにおいて展開される「分裂症論」はそれ自体、精神病的というわけではなく、彼らの理想化する「分裂症者」とは、セクシュアリティを規範化する〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われる、ということです。

そして、この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈するのであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば〈性別化のリアル〉の「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになります。

それでは、ここでいうAOの背景にあるとされる「マゾヒズム論としての倒錯論」とはいかなるものでしょうか。千葉氏は「動きすぎてはいけない−−ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(2013)」において次のような解釈を提示しています。

* サディズムとマゾヒズム

まず、ドゥルーズは独自の倒錯論を展開した「ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)」で、倒錯における「サディズム」と「マゾヒズム」をそれぞれ「イロニー」と「ユーモア」という思考運動に対応させています。

ここでいうイロニーとユーモアは「法」を転覆させるための二つの技法になります。そして、このような意味での「法のイロニー的転覆」が「サディズム」であり「法のユーモア的転覆」が「マゾヒズム」ということです。そしてドゥルーズによればサディズムとマゾヒズムは「形態」に対する態度の差異ということになります。

この点、サディズムはあらゆる「形態」の「否定」を本質とします。サディズムは経験的な「二次的自然」の彼岸に「純粋否定」を体現する「第一次的自然」という実現不可能な「理念」を遠望して、この「純粋否定」の存在を論証すべく、その「間接証拠」として、此岸における破壊活動を累積し加速させます。

このようにサディズムは「大文字の法」へとイロニー的に上昇する運動です。サディストは二次的自然のあらゆる「形態」を破壊し、純粋な「非形態」である「大文字の法」へと向かうことになります

これに対して、マゾヒズムではサディズムとは「形態」に対する「別の仕方での否定」が働いています。このような「別の仕方での否定」をドゥルーズは「否認」といいます。すなわち、マゾヒストはこの世界という「形態」をサディストのような破壊活動によらず「否認」して、所与の素材に勝手な工夫を凝らすことで自身の「理想」へと作り替えてしまいます。

このようにマゾヒズムは「小文字の法」をユーモア的に変換する運動です。ドゥルーズによれば「(マゾヒストにとって法は)もはや原理への遡行によってイロニックに覆されるのではなく、帰結を深く究明することで、ユーモラスに、斜めに回される」ということになります。

この点、ドゥルーズはマゾヒストは弁護士に似ているといいます。マゾヒストは何らかの「フェティッシュ」を素材とした「特殊な物語」によってこの世界を多重化します。それは既存の事実と法文のいくつかを独自に連合する弁護士的なコラージュといえます。それは「超越的でない」外部性を、この世界におけるこの世界の分身=解離という形で実現することに他なりません。

このような「ザッヘル=マゾッホ紹介」における倒錯論をAOにおける欲望論と照らし合わせてみたとき「純粋否定」という「理念」へと向かうサディズム/イロニー的運動がラカン的構図の中にとらわれた否定神学的欲望に相当するとすれば「否認」によって「理想」へと向かうマゾヒズム/ユーモア的運動はドゥルーズ=ガタリが称揚する内在的欲望の前駆体であるといえるでしょう。こうしたことから千葉氏はドゥルーズ=ガタリの提唱した〈分裂分析〉とは実のところ〈分裂-マゾ分析〉であるといいます。

* 超越論哲学と超越論的経験論

もっとも「ザッヘル=マゾッホ紹介」におけるドゥルーズは単純なマゾヒズム一元論には立っていません。なぜなら、千葉氏が指摘するように同書ではサディズム/マゾヒズムのそれぞれの論理を分離して肯定しているからです。そして、ここで導きの糸となるのが精神分析の始祖、ジークムント・フロイトが1920年に発表した論文「快原理の彼岸」です。

周知の通り、フロイトは「快原理の彼岸」において「快原理」に駆動される存在であるはずの人間がなぜ「快原理」に矛盾するかのような苦しみの記憶を繰り返し想起するのかと問い、そこで「快原理」を超える「彼岸」を仮定しました。それが「死の欲動」であり「タナトス」です。

この点、ドゥルーズは、フロイトにおける「快原理の彼岸」をカント哲学における「経験的/超越論的」という二つの位相に位置付けます。ここでは「死の欲動」が経験的な位相に対応し「死の本能=純粋状態のタナトス」が超越論的な位相に対応します。すなわち、ここでの「経験的/超越論的」という区別がサディズムにおける二つの「自然」と対応していることになります。ここでサディズム=イロニーの哲学は、この世界が単一の外部=超越論性によって駆動される「超越論哲学」となります。

これに対して、マゾヒズムは「快原理の彼岸」とは「別の彼岸」あるいは「此岸的な彼岸」を構築することになります。ここでドゥルーズはマゾヒズムとフェティシズムを癒着させ「否認」によってこの世界が「別の仕方」へと分身するための条件=超越論性を所与の素材やイメージにおいて肯定します。ここでマゾヒズム=ユーモアの哲学は、この世界の中で立ち騒ぐ経験の断片達がそれぞれ複数的な外部=超越論性を立ち上げる「超越論的経験論」となります。

* サディズム優位の下でのサド-マゾヒズムと一次マゾヒズム

では、こうしたサディズムとマゾヒズムはどのような関係に立つのでしょうか。

この点、フロイトの説明によれば、まずサディズムが発生し、次にこれが反転して自我に向けられる時にマゾヒズムが発生するという機序となります。けれどその一方でフロイトはサディズムには当初から「マゾヒズム的な経験」が含まれているといいます。

この一見矛盾したフロイトの説明は、ドゥルーズによれば純粋な「攻撃的サディズム」と、他人の苦痛を愉悦する「快楽主義的サディズム」という異なったサディズムの説明であるとされます。すなわち、ここでは「サディズム優位の下でのサド-マゾヒズム」という単位が成立することになります。

もっとも、フロイトによれば、攻撃的かつ性的なリビドーが自我に向けられる時「脱性化」されることになります。これが自我を道徳原則で統御する超自我の力です。従って、ここでマゾヒズムは単なるサディズムの反転ではなく、むしろ反転されたものの「再性化」によって定義される、とドゥルーズはいいます。

この「再性化」にはマゾヒズム的本質である強い刺激のエロス化が関わってくることになります。このような「再性化」を引き起こすマゾヒズム的本質をドゥルーズは「一次マゾヒズム」と呼びます。

* 快原理における二段階の彼岸

そして、ドゥルーズによれば、こうした「再性化」はサディズムとマゾヒズムを分つ二種類の「反復」による「一種の飛躍」として行われます。すなわち、サディズムとマゾヒズムにおいて「死の本能」は異なった「反復」の経験として作動するわけです。

この点、サディズムにおける「純粋否定」は単一の外部を目指す「加速する反復」であり、マゾヒズムにおける「(破壊的でない)否認」は複数的な外部を開く「宙吊りの反復」となります。

ここにドゥルーズはフロイトの「快原理」における二段階の「彼岸」を想定することになります。

まず第一の彼岸は「拘束」に基づくエロスです。「快原理」に権利上先行すると想定されるのは苦痛と快感のプリミティヴな刺激群です。この刺激群が一定のまとまりに「拘束」されて「快原理」が成立します。この「拘束」こそが「快原理」の第一の彼岸です。なお、ここでドゥルーズはヒューム主義的な「観想=縮約」をフロイトの「拘束」と同一視しています。このような「観想=縮約=拘束」がマゾヒズムに相当します。

ところがここでドゥルーズは彼岸をもう一歩、深化させます。すなわち、第二の彼岸としてのタナトスへの問いかけです。ここで第一の彼岸=エロスは、その先にある第二の彼岸=タナトスへと自らを超出させます。

所与を一旦は受け入れつつも、なおかつ解き放つということ。こうしたことから「マゾッホ紹介」は単なるマゾヒズム一元論ではありません。けれども、それでもドゥルーズはマゾヒズムを主としてサディズムを従とします。なぜならサディズムには思弁を「急ぎすぎて」しまう事で「観想=縮約=拘束」の解離可能性としての「死の本能」を、一なる〈欠如〉へと硬直化させてしまう勢いが否めないからです。

ここで〈欠如〉なき純粋なマゾヒズムという「理想」と〈欠如〉を論証する純粋なサディズムという「理念」との間に「急ぎすぎてはいけない=動きすぎてはいけない」という節約のテーゼが生じます。そしてここに、実地でのマゾヒズムを位置付けられます。

こうしたことから、千葉氏はドゥルーズの倒錯論を「観想=縮約=拘束に折り込まれた解離可能性としての幾度もの、生きながらの死を経ていくこと、それが、急ぎすぎずにサディスティックでもあるマゾヒズムである」と結論しています。

* 理念を手放さないままで理想に向かうということ

このようにドゥルーズの倒錯論においては、サディズム/イロニー的運動とマゾヒズム/ユーモア的運動は大変に入り組んだものとなっています。そしてここで千葉氏が提示した〈急ぎすぎずにサディスティックでもあるマゾヒズム〉というマゾヒズム観は、氏のベストセラー「勉強の哲学」において「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」を形成する「アイロニー・ユーモア・享楽」という「勉強の三角形」の基底を成しているように思えます。

我々は普段は「世界とはこういうものだ」「人生とはこういうものだ」という「環境のコード」の中で生きています。こうした「環境のコード」の根拠を疑う技法が「アイロニー(イロニー)」です。そして「深い勉強」はこのようなアイロニーを極めようとせずに、その手前で「環境のコード」を変換する技法である「ユーモア」への折り返しを説きます。なぜならばアイロニーはやり出すと原理的に際限がないものであり、そのどこかでアイロニーを有限化してしまえば特定の価値を囲い込む「決断主義」に陥るからです。

そして「深い勉強」はアイロニーからユーモアに折り返した後、今度はユーモアの意味飽和を自身に刻まれている特異的なこだわりである「享楽」で切断することで、その思考の足場を「仮固定」します。こうした仮固定を氏は「決断」ではなく「中断」と呼びます。そして「深い勉強」はこの仮固定した享楽に再びアイロニーを入れていくことになります。すなわち、ここでは「理念(サディズム/イロニー)」と「理想(マゾヒズム/ユーモア)」の往還運動が生じているということになります。

しばし我々は自らの描き出した「理念」や「理想」へまっすぐに向かって歩んでいく過程を「自己実現」などと呼びます。けれども、その「自己実現」と呼ばれる過程を果たして仔細に見ていけば、むしろそれは「理念」と「理想」を幾度となく往還することで生じるある種の倒錯的な「自己破壊」を常に伴うものといえます。

理念を手放さないままで理想に向かうということ。ポスト神経症的欲望としての〈別の仕方での欲望〉とは、おそらく、こうした「理念」と「理想」を往還する倒錯的な「自己破壊」の中にこそ見出せるのではないでしょうか。

















posted by かがみ at 21:53 | 精神分析