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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2022年09月29日

空想的決めつけと享楽的こだわり



* レイシズムと集団形成の問題

レイシズム(人種主義)とは、人間を様々な「人種」に区別して「優等な人種」が「劣等な人種」を支配することを当然視する思想をいいます。周知の通り第二次世界大戦後、レイシズムはナチスドイツのホロコーストを正当化したイデオロギーとして激しく非難されました。ところがレイシズムはまったく科学的根拠がないにもかかわらず、いまなお根強く人々の無意識に浸透し、また一部では積極的に信奉されていたりもします。果たして人はなぜレイシストになってしまうのでしょうか。

この点、レイシズムに関する多くの言説は、経済情勢と国民のアイデンティティの問題からレイシズムの台頭を説明します。すなわち、レイシズムとは不安定化する経済情勢を埋め合わせるように国民のアイデンティティを鼓舞する動きとして機能しているということです。けれども、レイシズムとは本質的には自らが属するある集団を別の集団と対立させ、この二つの集団を友/敵に切り分ける思考です。そのためレイシズムの問題を解明する上ではまず「いかに人は集団を形成するのか」というある意味で素朴な問題を解明する必要があります。


* レイシズム1.0とレイシズム2.0

この点、ラカン派精神分析家、エリック・ローランは「レイシズム2.0(2014)」という論考の中で精神分析的視点から集団形成とレイシズムの関係を論じています。同論考においてローランはジークムント・フロイトとジャック・ラカンの精神分析理論を援用して「フロイト的時代のレイシズム」と「ラカン的時代のレイシズム」を対置させています。

まず「フロイト的時代のレイシズム」とは精神分析的な〈父〉に依拠するモデルです。すなわち、ここでは何かしらの権威を体現するカリスマ的指導者に対する同一化がレイシズムを生み出していることになります。これが古典的レイシズムというべき「レイシズム1.0」です。

これに対して「ラカン的時代のレイシズム」とは精神分析的な〈父〉に依拠しないモデルです。ラカンは専らレイシズムを〈父〉への同一化ではなく「享楽」という観点から論じています。ここでラカンのいう「享楽」とはフロイトが人の根本衝動として位置付けた「欲動」が満足を得た状態を指します。

この点、ローランは比較的早期にラカンが発表した論考「論理的時間と予期された確実性の断言(1954)」における有名な「三人の囚人の論理」に、早くも〈父〉への同一化ではなく、享楽の論理でレイシズムを理解する手がかりが見出されるといいます。

この「三人の囚人の論理」からは、人間が集団を形成するのは自分が「人間ではないもの」と認定されるのを恐れるためであるという結論が導かれます。すなわち、集団の形成には「人間ではないもの=排斥対象」を集団内部に想定して当該対象をスケープゴートにする契機が必ず含まれているわけです。

このように〈父〉への同一化を必要とせず集団を形成するラカンの論理をローランは「反-同一化論理」と呼んでいます。この論理からすれば、レイシズムもまた特定の〈父〉を必要としません。何らかのマイノリティ性を理由として、ある集団内部における「人間ではないもの=排斥対象」が想定された時点でレイシズムは成立します。これが現代的レイシズムというべき「レイシズム2.0」です。


* 症状としての〈父〉とフェイクとしての〈父〉

以上のようなローランの議論はラカンの娘婿であり現代ラカン派を領導するジャック=アラン・ミレールのいう「精神分析のフロイト的時代(〈父〉の現前)」と「精神分析のラカン的時代(〈父〉の不在)」という区分にも対応した極めて明快な議論です。

もっとも、精神病理学者の松本卓也氏はローランの議論はフロイトにおける〈父〉とは「症状」であったことを見逃していると指摘しています。この点、松本氏が参照するフィリップ・ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシーは、フロイトが「集団心理学と自我分析(1921)」においてわずかに言及した「パニック」という現象の中に〈父〉をめぐるフロイトの動揺=症状を見定めます。

ここでフロイトのいう「パニック」とは、集団のリビード的拘束が弛緩してしまった時に構成員の中で生じる不安のことを指します。つまりパニックとは、それまであると信じられてきた紐帯が壊れ、理想が機能しなくなってしまった時に起こる現象、すなわち、ラカンのマテームを用いるのであれば、一貫した〈他者=A〉がいるという夢から覚醒し、非一貫的な〈他者=Ⱥ〉が暴かれたことから帰結する現象であると考えられます。

そしてこのパニックは単に〈父〉の不在を暴露するだけではありません。松本氏が参照する柿並良佑氏の「恐怖(パニック)の誕生−−同一化・退引・政治的なもの(2013)」によれば、集団は〈父〉への同一化という錯覚が解けた時、その成員相互の同一化も解消しパニックに陥ることになるけれども、この同一化の失敗は翻って〈父〉という「形象」への再-同一化ないし超-同一化に転じることになり、その再-同一化ないし超-同一化は他人への憎悪が剥き出しとなる場面を到来させることになるといいます。

松本氏はこれこそが現代において我々が見ているレイシズムのメカニズムではないかといいます。すなわち、少なくとも現代的なレイシズムは、症状としての〈父〉の夢想(レイシズム1.0)が瓦解した後に、フェイクとしての〈父〉を求める運動(レイシズム2.0)として読まれるべきであるということです。


* 享楽の病理としての空想的決めつけ

上記の議論から松本氏はレイシズムの精神分析的論理を@一貫した〈他者=A〉が夢想されている段階とA非一貫的な〈他者=Ⱥ〉が暴露される段階とBフィクションとしての〈父〉への再-同一化する段階という三段階に定式化します。

そしてAの段階からBの段階が生じるとき、個人はお互いの「享楽のモード」の僅かな差異に鋭敏な反応を示すようになり、そこからレイシズムが生じるといいます。すなわち、精神分析的観点からレイシズムを論じるとすれば〈父〉の不在の暴露と、そこから発生する享楽の病理の二つの曲の絡み合いに注目する必要があるわけです。

この点、1970年代においてラカンは現代的レイシズムにおける排斥の原因となる文化的差異を「享楽のモード」の差異である考えていました。さまざまな人種や民族や出自の人々が共存する世界では、飲食や性行為や冠婚葬祭など、生活の中で快を得たり不快を処理する方法としての「享楽のモード」には多様なバリエーションが共存することになります。ここでしばしマジョリティはマイノリティの享楽のモードを「発展途上」であると見做して、自分たちの享楽のモードを彼らに押し付けたりもします。ここにレイシズムが発生するとラカンは述べています。

さらにここでラカンは、そもそも人は本質的に自らの享楽を〈他者〉の享楽を介してしか位置付けることができないという逆説を強調します。つまり言語(象徴界)の主体である人にとって言語化不能な領域(現実界)にある完全な享楽は常に既に失われたものでしかなく、それゆえに人はラカンのいう「性関係のなさ(享楽の不可能性)」に悩まされることになり、この「性関係のなさ」は「どこかに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在しているにちがいない」という「空想的決めつけ」を生み出してしまうわけです。

このように「性関係のなさ」に悩まされている人の前に自分と異なる「享楽のモード」を取る人物が現れた場合、しばし彼/彼女の中で「どこかに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在しているにちがいない」という「空想的決めつけ」が活性化してしまいます。そして、ここから「私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んでいるからにちがいない」という「妄想的決めつけ」が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれることになるわけです。


* 空想の横断と逆方向の解釈

ではレイシズムの興隆に対して精神分析は何かできることがあるのでしょうか。松本氏はその一つの答えは60年代のラカンが分析目標とした「空想の横断」から得られるといいます。「空想の横断」とは「性関係のなさ」を覆い隠している分析主体の「空想」を引き剥がし、その欲望を丸裸にしてしまうことです。

この点、ラカン派の精神分析学者、スラヴォイ・ジジェクはこの「空想の横断」をレイシズムに対する一種の処方箋として提出し、これに「否定的なもののもとに滞留すること(tarrying with the negative)」というヘーゲルから借用した名前を与えています。それは「〈他者〉の不在」という否定性から目を向けるのではなく、むしろ「否定的なもの」をまざまざと見つめ、その場所に踏みとどまることを意味します。

享楽が常に不十分なものにとどまるのは、何らかの〈他者〉によって享楽が盗まれているためではなく、我々の享楽の体制そのものに「性関係のなさ」が刻印されているからに他ならないということを知ること。これが我々をレイシズムから引き剥がすことを可能するということです。

こうしたことから、松本氏は「人がレイシストになることを予防する効果ならば、精神分析にわずかな期待を抱くことが可能かもしれない」と述べています。人は自らの抱える「性関係のなさ」の理解不可能性、宙吊り状態にある不全感の原因を理解可能なものにするため、しばしその「性関係のなさ」の原因を何かしら特定の「黒幕」に局在化し「結論の時」へと飛躍する。ここからレイシズムが生じることになります。

ここでレイシズムとは「性関係のなさ」におけるある種の「解釈」として機能しているといえます。これに対して(少なくとも松本氏のいう現代ラカン派において)精神分析は「解釈=順方向の解釈」とは反対の方向を向いた「逆方向の解釈」を提示します。

すなわち、分析主体は何かしらの「解釈=結論の時」を〈他者〉の中に探し回るのではなく「否定的なもののもとに滞留すること」することで、むしろ自らの固有の「享楽のモード」と向き合うことになります。そして分析という作業の中で、その自ら固有の「享楽のモード」を「特異性=単独性」にまで高めることができた時、人はレイシストになることなく自らの享楽と付き合っていくことができるはずであると、氏は述べます。


* 空想的決めつけと享楽的こだわり

もちろん、このような意味でのレイシズムに取り憑かれてしまった人はおそらくそう多くはないと思います(そう信じたいと思います)。けれども厳密な意味でのレイシズムではないとしても、属性や立場や嗜好の相違に起因した差別的な言動はSNSなどでわりとよく見かける光景のようにも思えます。

そして、こうした差別的な言動の裏にもやはり「私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んでいるからにちがいない」と想定してしまう「享楽の病理」が潜んでいます。では我々の日常的な実践の中で、このような「享楽の病理」を解除するための処方箋を見出すことはできないのでしょうか。

この点、精神分析におけるプロセスの「独学版」といえるのが千葉雅也氏が「勉強の哲学(2017)」で提唱する「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」です。ここでいう「深い勉強」とは「アイロニー・ユーモア・享楽」からなる「勉強の三角形」によって規定される思考過程です。

我々は知らず知らず「世界とはこういうものだ」「人間とはこういうものだ」といった「環境のコード」の中で生きています。「深い勉強」とはこうした「環境のコード」に「アイロニー」を入れるところから出発します。

「アイロニー」は「環境のコード」の根拠を疑います。その結果「環境のコード」を根拠付ける上位コードである「超コード」が出現します。そしてその「超コード」にさらに「アイロニー」を入れることで、さらなる「超コード」が出現する・・・こうした際限なき「アイロニー過剰」により「超コード化による脱コード化」が起こります。そしてその極にあるのが、もはや言語によっては記述不可能な「現実それ自体」を志向する「言語なき現実のナンセンス」です。

そこで時に人は「アイロニー」を有限化して特定の価値観を絶対化してしまう「決断主義」に陥ります。この「決断主義」の一類型がまさにレイシズムにおける「享楽の病理」です。

これに対して「深い勉強」は「決断主義」に陥るその手前で「アイロニーからユーモアへ折り返す」ことになります。すなわち、精神分析における「逆方向の解釈」です。

「ユーモア」は「環境のコード」を拡張します。けれども「ユーモア」も繰り返すうちに、やはり際限なき「ユーモア過剰」による「コード変換による脱コード化」が起こります。そしてその極にあるのが、あらゆる言葉が接続過剰となり言語がトータルで無意味になるという「意味飽和のナンセンス」です。これは、およそ精神分析における「空想の横断=否定的なもののもとに滞留すること」に相当するでしょう。

そこで今度は思考をズレた方向に広げる「拡張的ユーモア」から思考のある特定のポイントに過度に集中する「縮減的ユーモア」に転回します。ここではコードが拡張されるのではなく、コードの一部へとコード全体が縮減されることになります。

この点「縮減的ユーモア」を規定しているものが「享楽的こだわり」です。「享楽的こだわり」とは意味以前に自分の中に刻まれている「偶然で強度的な出会いの痕跡」の事です。ここでは言語は意味を伝えるのではない「強度的な語り」となります。そしてその極にあるのが、言語の非意味的形態が出現する「形態のナンセンス」です。ここでいう「非意味」とは「無意味=意味がなくなる次元」とは異なる「意味とは別の意味ではない次元」です。

すなわち、個々人が持つ「享楽的こだわり」が「ユーモア」の意味飽和を非意味的に切断し思考の足場をいわば「仮固定」するわけです。こうした「ユーモア」の有限化としての「仮固定」を千葉氏は「決断」との対置で「中断」と呼びます。そして「深い勉強」はこの仮固定された享楽の場に再び「アイロニー」を入れていく事になります。これはまさしく精神分析における自ら固有の「享楽のモード」を「特異性=単独性」にまで高める作業に相当するでしょう。

レイシズムから逆方向の解釈へ。アイロニーからユーモアへ。空想的決めつけから享楽的こだわりへ。もとより人は誰しも「享楽」を求める生き物です。この点、完全無欠な「享楽」など世界中のどこを探し回っても見つかることはありませんが、他の誰でもない「わたし」や「あなた」だけが持つ「享楽」は誰もが確実に自分自身の中に刻み込まれています。こうした意味でおそらく「享楽の病理」を解除するための処方箋とは、この極めて単純な真理を深く探求していくというその過程の中で自ずと見つけていくものなのでしょう。













posted by かがみ at 00:23 | 精神分析