* 阿闍世コンプレックス
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ジークムント・フロイトが確立した精神分析という新しい学問は意外と早い時期に日本に紹介されています。1900年代には既にいくつかの学術雑誌の論考において精神分析について言及がなされており、1912年(大正元年)には大槻快尊が「心理研究」という雑誌に「もの忘れの心理」「やり損なひの心理」「やり損なひの実例」といった論考を寄稿し、錯誤行為に関するフロイトの実例を紹介しています。1917年(大正6年)にはアメリカでフロイト理論を学んだ久保良英の手による「精神分析」という本が公刊され、同年に中村古峡を主幹として創刊された「変態心理」という雑誌ではフロイト学説の紹介や翻訳がなされています。そして1926年(大正15年)には安井徳太郎の翻訳でフロイトの「精神分析入門(上)」が出版されました。
1930年(昭和5年)には矢部八重吉が日本初の精神分析家となり、日本精神分析学会が設立されます。さら1934年(昭和9年)には丸井清泰によってもう一つの日本支部となる国際精神分析協会仙台支部が設立されました。こうして精神分析が日本においても徐々に盛り上がりを見せる中、日本独自の精神分析理論が生まれてくるようになります。
とりわけ有名なのは丸井の弟子である古澤平作が提唱した「阿闍世コンプレックス」でしょう。阿闍世とは仏典に登場する古代インドの王子です。古澤はこの阿闍世物語の中にフロイトのいう「エディプスコンプレックス」とは別種の精神分析的力動を見出し、これを「阿闍世コンプレックス」と名付けました。そしてこの概念は古澤の弟子である小此木啓吾により広く世間に知られるようになりました。もっとも、ここで参照される阿闍世物語は古澤と小此木の下でその委細が幾度となく変化しています。以下その変遷をしばし概観してみることにします。
* 古澤版阿闍世物語T
「阿闍世コンプレックス」に関する最初の論文は1931年、古澤が東北帝国大学医学部の機関紙「艮陵」に発表した「精神分析學上より見たる宗教」です。同論文は翌年、古澤氏の留学時に独訳されてフロイトの手に渡ったとされています。そして同論文は後に1954年、古澤が設立した日本精神分析学会の学術雑誌「精神分析研究」の第1巻第1号に「罪悪感の二種」と表題を変更して掲載されました。同論文で古澤が語る阿闍世物語とは、次のようなものです。
少年鋭意の彼阿闍世王は隣国に連戦連勝し、提婆(注:提婆達多)に教唆され父を幽閉し、燃ゆる復讐心はいやが上にもつのりつつあった。王は先ず牢の門に至って門番に向かい、父の王は未だ生きて居られるか如何にと巧みに問いかけた。門番は事情を有の侭に話した。阿闍世は聞くなり火の如く怒った。「母は是賊也。賊なる父の追うと伴なればなり」又「沙門は悪人なり、数々の妖術を以って、この悪王の命を延ばす」と罵り叫びつつ、左手を伸ベて母の髪を掴み、右手に刺剣を執って母の胸に擬し、あわや一息に衝き刺さんとした。母は驚き合掌して、身を曲げ頭を垂れて我が子の手に縋い全身熱き汗を流して身心悶絶した。このとき大臣の月光なるものと耆婆(ジーヴァカ)なるものが慌てて之を遮りて云うには、大王臣等が聞くところに依れば昔より「もろもろの悪王ありて、国位を奪わんがために其の父を殺害せるものは頗る多数のことである。されど無動に母を害せるものあるを聞かず。王にして若しこの如きことをなさば是殺帝利根の恥なり汚なり臣等之を聞くに忍びず是施陀羅の行いなり」と大いに苦諫した。阿闍世も此の言葉を聞きて剣を採って母を害すること丈は思い止まった。が忽ち侍従者に言いつけてまた深宮に幽閉して一歩も出さなかった。斯くして彼の阿闍世太子は国王となり、飽くままで五慾の楽しみを慾しいままにしようと思う心から父を殺して王位に坐った。然るにあとに至て心に深い悔恨を為し、胸中しきりに熱し、悩みて全身に悪瘡を生じ臭気甚だしくて近づくことが出来ぬ。王自ら請えらく、此の如くに悪事の報いがてき面であるから、只今にも地獄に堕つるであろうと大いに苦しむに至った。如何にも失望悲哀の頂点であり、かく身も心も悩乱して、現在、未来の苦痛煩悶が一時に大山の崩るるが如くに迫り来った。かかるところへ六人の臣下−−この六人は印度の六派の哲学を奉ずるものである。−−が御前へ出て各自の意見を述べて御慰め申し上げたが、大王には一向に安心の様子がなかった。然る処へ彼の有名な耆婆大臣がお伺い申し上げて色々と慰めた。そのとき虚空の中に伺者とも知れず声ばかりあって、大王に告げて云うよう。
「世尊は久しからずして涅槃に入り給うから、早々仏陀世尊の所に行って、お救いを蒙れ。仏陀世尊の外には助けてくださる方はない。我は今其方を不憫と思うゆえ勧め導くのじゃ」と、大王この語を聞いて恐ろしく感じて五体震動して芭蕉樹の如く震い上がって天に向かって尋ねた。
「雲の上ではそう仰せあるはどなたで御座る。御姿も見えず、声ばかりであるは」と申すに「我はこれ汝の父頻婆娑羅じゃ。其方は疾くに耆婆の言葉に従え、邪晃の輩六臣の勧めに附てはならぬ」。この父の親切の言葉を聞いて阿闍世王は愈々心苦しくてたまらなくなって、気絶して倒れて仕舞った。さて王は愈々仏世尊の御許に参られた。仏の御説法は他の事はない。唯、阿闍世王の心には罪のない父を殺したので、必定地獄に堕すると思いつめて、如何に仏世尊でも我身ばかりは御救いくださることは叶うまいと疑いきって居るから、其の執心を打ち砕いて信仰を起こさせる御諭しであった。「…三世を見通しています仏陀が、大王を王位の為めに父を殺すべしということを知り乍ら、父王の供養を受けて、父王に王位に登るべき果報を得べき因縁を与えた以上は、大王が父王を殺したとてそれを大王ばかりの罪ということが出来ぬ、大王が地獄へ墜つるときは諸仏も共に堕ちねばならぬ。諸仏が罪を得ぬならば、大王独り罪を得る筈がない。よって大王の地獄に堕つるをば仏陀は必ず救わねばならぬ。人の供養を受ける仏陀大王の地獄に堕つるをば黙って見て居る事はどうしても出来ぬと。是程までも罪悪のものに同情を寄せて頂いてどうして黙って居られよう。阿闍世王の結びつめた真閣な胸が一時に聞けて、まるで長い長い隧道の中を辿り辿って、急に広い海辺へ出たような心地であった。「仏世尊よ、私が世相を見ますに伊蘭樹と申すあの至極厭な樹の種子からは必ず伊蘭樹が生え出るは当然であるが、決して伊蘭樹の種子からあの結構な栴檀香木の生える例はありませぬ。然るに不思議ではありませんか、唯今は伊蘭の種子から栴檀が生えました。伊蘭と申したのは我身であります。栴檀とは私の今得たところの信心であります。して見ればこの信心は無根心と申してよろしいと存じます…」嗚呼、阿闍世王に対して下したまいたる大慈悲の徳育は道理々屈を離れて、唯々満身同情の魂というより外はない。ここに於いて枯木再び花開き、いり豆再び芽を出した所以である。実にこれ極端なる罪悪観に対して垂れまいし救済の至極により極端なる懐悔心の生じたるものである。
以上の古澤版阿闍世物語Tは古澤が同論文で主張する「罪悪感の二種」の例示として引用されたものです。ここでいう「罪悪感の二種」とは「罪を起こしたこと」に対する罪悪感と「罪を許されたこと」によって生じる罪悪感(=懺悔心)を指しています。
この阿闍世物語では、父親である頻婆娑羅を殺した阿闍世が苦しみの末に仏陀の慈悲により許される場面が中心となり、母親の韋提希は最初のごく限られた部分にのみしか登場しません。もっとも古澤は補足説明において、阿闍世が父親を殺害したのは「青春今や去らんとした韋提希が父王との間に子なきため、容色の衰えうると共に王の寵愛の去ることを憂いたる悲しむべき母の煩悶にその源を発して居る」として「あと三年経てば、天命全うするという仙人をむりに殺害させて懐妊した韋提希は預言者の言の如く父王の右足の血が吸いたくなったりして、着々その予言の如き事実の現れに已に見心を悶した。斯くて生まれた阿闍世が已に両親に生まれ乍らの敵意を懐いたことは当然である」と述べています。
すなわち、韋提希は頻婆娑羅との間に子ができないことで夫の寵愛を失うことを恐れて妊娠を望み、仙人を殺害したものの仙人が残した予言に苦悩します。そして阿闍世はそうした出生のために両親に対して生まれながらの敵意を抱いていたということです。
こうして古澤は「阿闍世コンプレックス」とは「母を愛するがゆえに母を殺害せんとする欲望」であると定義します。ここで古澤が念頭に置いているのは口愛サディズムです。嫌いだから破壊するのではない。好きだからこそ、噛み砕き、食べて、破壊する、ということです。このような子どもの攻撃欲求は、後に英国の精神分析家、メラニー・クラインが「羨望」という概念で理論的に発展させたことがよく知られています。古澤はこうした攻撃欲求を阿闍世物語の中に見出していたということです。
* 古澤版阿闍世物語U
そしてその後、約20年余りの時を経た1953年、戦後の精神分析に対する関心の高まりの中で出版された「続精神分析入門(フロイト選集第3巻)」の訳者あとがきにおいて、古澤氏はふたたび阿闍世王を物語ることになります。
ではこの王舎城に起こった阿闍世王の悲劇物語とはどんなことでしょう。釈迦の深い帰依者であった王に頻婆娑羅王という方がありました。この王の妃が韋提希夫人であります。夫人には子供がないうえに、年老いられる身の容色の衰退が、やがて王の愛のうすれゆく原因となることを深く憂えられたのです。ところが、夫人が相談されたある預言者の言によれば、裏山の仙人が三年ののちには死んで、夫人にみごもり、立派な王子となって生まれるということでありました。しかし老いおとろえた王妃にはこの三年間が実に待ち遠しくていらいらし、ついに待ちきれずに、迷妄なる心は妃を駆ってこの仙人を殺害して自己の煩悩を達成せしめました。ところがこの仙人がこと切れようとした時に妃に向かって「わたしがあなたの腹に宿って生まれた子は将来必ず父親を殺す」といいはなちました。この予言は本当になりました。やがて妃は妊み、運命の王子を、すなわち阿闍世太子を産みおとしました。王も妃も大層彼を可愛がり育て、十六七歳ごろには文武ならびなき青年王子となり、近隣諸国を平定しましたが、王子はなんとなく気分がすぐれず鬱々として日を過ごしておりました。ときあたかも釈迦の教団は円熟の域にたち改革を要するようになっていました。日頃、釈迦に怨恨を持つ提婆達多はこの時とばかりに、教団を乗っ取ろうとたくらみ、王子に「お前の前歴はこうこうだ…瓔珞に蜜をつめ、こっそり王にさしいれしていましたので、一週間ののちに、王子が王はどうだろうと見舞ったときには、王はますます元気でありました。王子は怒り、母にたいして、賊呼ばわりし、賊の父と通じたといって剣を取り、母妃を殺そうとしましたが大臣の一人がこれを止め「もし母君を殺せば王の命はありません」とたちむかいました。王子はここで五体ふるえ、ついに流注という病気になって不安発作を起こしたのです−−かくしてこの後で阿闍世王が釈迦に救済されることになります。これはかの「エディプス物語」に似て、それよりも大きな問題を含んでおります。
古澤版阿闍世物語Tとの最も大きな相違は、先の論文で補足説明として加えられていた阿闍世の妊娠にまつわる韋提希の煩悶と、さらに阿闍世もそうした出生のために鬱々とした気分を抱えていたというエピソードが話の中心になっている点にあります。
さらに古澤版阿闍世物語Tで述べられていた「提婆に教唆され父を幽閉し」「国王となり飽くまで五慾の楽しみをを慾しいままにしようと思う心から父を殺害して王位に坐った」という父王の殺害理由が削除されています。
また古澤版阿闍世物語Tでは父親を殺して後悔から「胸中しきりに熱し、悩みて全身に悪瘡を生じ臭気甚だしくて近づくことができぬ」という状態になったと記されていますが、古澤版阿闍世物語Uにおいては、母親を殺そうとしたこと、あるいは母親の殺害を止められたことで、流注になって不安発作を起こしたと受け取られる文脈へと変化しています。
* 小此木版阿闍世物語T
そして阿闍世物語は古澤から小此木へと受け継がれます。1973年、小此木は谷口雅春が創始した新宗教団体、生長の家の機関紙「精神科学」における連載で「阿闍世コンプレックス」という小論を発表します。そこで語られる阿闍世物語は以下のような内容です。
昔、お釈迦様の時代のインドに、頻婆娑羅という王様がいた。その妃の韋提希夫人は年とって容姿がおとろえ夫の愛が自分から去ってゆく不安から王子が欲しいと強く願うようになった。すると、ある預言者から山に住む仙人が天寿を全うして死去した後に、夫人の子として生まれかわるという話をきかされた。
ところが妃は、夫の愛のうすれるのを恐れるあまり、その年を待てないで、その仙人を殺してしまった。早くその仙人が生れかわって、自分の息子のできるのを急いだからである。
やがて韋提希夫人は、身ごもったが仙人の呪いがおろしく、その子を産むのがこわくなって、なんとかおろしてしまいたいと願ったが、それもかなわず、とうとう産まねばならなくなってしまった。
このようにして人となった阿闍世の出征の由来を提婆達多がやってきて、あばいてしまったが、この囁きによって、その父母に怨み心を起こした阿闍世は、父を幽閉して、餓え死させようとした。
しかし、母の韋提希夫人はこっそり夫の命を助けようとして、密かに自分のからだに蜜をぬってそれをなめさせていた。これを知った阿闍世は、母まで殺そうとしたが、みかねた忠臣ギバ大臣が戒めたので、阿闍世は、母を殺すことを思いとどまった。しかし食を断たれていた父はとうとう死んでしまう。そして後悔の念に責められる阿闍世は、全身の皮膚病にかかってもだえ苦しむが、母親の献身的看護によって救われる。
* 小此木版阿闍世物語U
続いて1978年、小此木は「中央公論」にて「日本人の阿闍世コンプレックス−−モラトリアム人間を支える深層心理」という論考を発表します。そこで語られる阿闍世物語は以下のような内容です。
そもそも阿闍世は、仏典中に登場する古代インド、王舎城の王子のことであるが、この王子は暗い出生の由来を背負っていた。つまり、阿闍世を身籠るに先立って、その母韋提希夫人は自らの容姿の衰えとともに、夫である頻婆娑羅王の愛が薄れていく不安から、王子が欲しいと強く願うようになった。思いあまって相談した預言者に、森に住む仙人が3年後になくなりその上で、生まれ変わって夫人の胎内に宿る、と告げられる。
ところが、夫人は不安のあまりその三年を待つことができず、早く子供を得たい一念からその仙人を殺してしまう。こうして身ごもったのが阿闍世、すなわち仙人の生まれ変わりである。すでに阿闍世はその母のために一度は殺された子どもなのであった。しかもこの母は身ごもってはみたものの、お腹の中で胎児である阿闍世の恨みが恐ろしくて、産む時も高い塔から産み落とす。
何事も知らぬまま、父母の愛に満ち足りた日々を送っていた阿闍世は、長じるに及んでこの経緯を知り、理想化していた母への幻滅のあまり、殺意に駆られて母親を殺そうとする。しかし、阿闍世は母を殺そうとした罪悪感のために五体ふるえ、流注という悪病(身体の深部にできる一種の腫れ物)に苦しむ。ところが、この悪臭を放って誰も近づかなくなった阿闍世を看病したのが、他ならぬ韋提希その人であった。つまりその母は、この無言の献身によって、自分を殺そうとした阿闍世を許したのであるが、やがて阿闍世もまた母の苦悩を察して母をゆるす。この愛と苦しみの悲劇を通して、母と子はお互いの一体感を改めて回復していく。
小此木版阿闍世物語Tと大きく異なるのは、父親が関わっていた部分が削除され、すっかり母子の話へと変更されているところです。
この小此木版阿闍世物語Uはのちに「日本人の阿闍世コンプレックス(1982)」という文庫になり、世間に広く知られることになりました。しかしその出典がどの仏典なのかが不明確だったことから、仏教関係者を中心に批判が相次ぐことになります。古澤が語っていた阿闍世物語の出典がそれほど不明確なものとは露ほども疑っていなかったであろう小此木にとって、こうした批判は想定外だったようです。
* 小此木版阿闍世物語V
こうした批判に応えるため、最終的に小此木は観無量寿経を原典として小此木版阿闍世物語V(古澤ー小此木阿闍世物語)を作ります。多くの仏典における阿闍世物語は、母親と息子の話ではなく、息子が父親を殺害する筋が中心の、父親と息子の話です。つまり、仏典に見られる阿闍世物語は、エディプス神話に非常によく似たストーリーであったということです。そうした仏典が多くを占める中で、小此木が原典とした観無量寿経の阿闍世物語は母親の救いをテーマにした珍しいものでした。2001年に公刊された「阿闍世コンプレックス」に収録された小此木版阿闍世物語Vは次のようなものです。
韋提希は古代インドの王舎城の王頻婆娑羅の妃であった。そして、その息子、つまり王舎城の王子が阿闍世である。
阿闍世を身ごもるに先立って、その母韋提希夫人は自らの容色の衰えとともに、夫である頻婆娑羅王の愛が薄れていく不安を抱いた。そして、王子を欲しいと強く願うようになった。思い余って相談した預言者に、森に住む仙人が三年後になくなり、生まれ変わって夫人の胎内に宿ると告げられた。
しかし、韋提希夫人は不安のあまりその三年を待つことができず、子供を得たい一念からその仙人を殺してしまった。ところが、この仙人が死ぬときに、「自分は王の子供として生まれ変わる。いつの日がその息子は王を殺すだろう」という呪いの言葉を残した。その瞬間に頻婆娑羅の妃である韋提希夫人が妊娠した。こうして身ごもったのが阿闍世であった。すでに阿闍世はその母のために一度は殺された子どもなのであった。しかもこの母は身ごもってはみたものの、お腹の中で胎児である阿闍世の恨みが恐ろしくて、産んでから高い塔から落として殺そうとした。しかし彼は死なないで生き延びた。ただし、小骨を骨折した。そこでこの少年は「指折れ太子」とあだなされた。この少年が阿闍世である。
阿闍世はその後すこやかに育った。しかし思春期を迎えてから阿闍世はお釈迦様の仏敵である提婆達多(だいばだった)から次のような中傷を受けた。「おまえの母はお前を高い塔から突き落として殺そうとした。その証拠に、お前の折れた小指を見てみろ」と言った(サンスクリット語のAjatasatruは「俺た指」「未生怨」の両方を意味する)。そして阿闍世は自分の出生の由来を知った。この経緯を知って、それまで理想化していた母への幻滅のあまり、殺意に駆られて母を殺そうとする。しかし、阿闍世はその母を殺そうとした罪悪感のため流注という悪病(腫れ物)に苦しむ。そして、この悪臭を放って誰も近づかなくなった阿闍世を看病したのが、ほかならぬ韋提希その人であった。しかし、この母の看病は一向に効果が上がらない。
そこでお釈迦様にその悩みを訴えて救いを求めた。この釈迦との出会いを通して自らの心の葛藤を洞察した韋提希が阿闍世を看病すると、今度は阿闍世の病も癒えた。そして阿闍世はやがて、世に名君とうたわれるような王になる。
この物語はそれまでのものと比較すると仏典に沿おうとする努力が見られます。「産むときも高い塔から産み落とす」は「産んでから高い塔から突き落として殺そうとした」に変更され、「何事も知らぬまま、父母の愛に満ち足りた日々を送っていた」などの文章は削除されています。
そして小此木は古澤による阿闍世物語は「古澤の心の中で構成、推敲された古澤版阿闍世物語」であり「古澤がいくつかの仏典に親しんでいる間に、各所から選び出して省略し、圧縮し、再構成して作り上げたもの、とみなすのが妥当」と結論づけました。
なお、小此木没後の2009年には、哲学者の岩田文昭氏によって、最初の古澤の阿闍世物語が近角常観の「懺悔録(1905)」のほとんど引き写しであったことが明らかになっています。この「懺悔録」は近角自身が回心に至った経緯と阿闍世王の物語と重ね合わせて書かれているものですが、岩田氏は両者が年月を経て古澤の中で混ざり合った可能性を指摘しています。
* 阿闍世コンプレックスと精神分析的治療論
では、以上のような阿闍世コンプレックスを前提とした古澤や小此木の精神分析的治療論とはどのようなものであったのでしょうか。
まず古澤は「罪悪感の二種」においてには「あくなき子供の〈殺人的傾向〉が〈親の自己犠牲〉にとろかされて」はじめて子供に罪悪の生じたる状態になるとしています。ここで古澤は、母親から愛されたいという欲求を充足させることで母親への執着から解放され、他者を愛することができるようになるという、いわゆる「とろかし」技法の名で知られる治療機序を想定しています。
また古澤は「続精神分析入門」の訳者あとがきで、ある分裂強迫神経症患者の症例を挙げ、神経症の背景には患者の母親を独占したい強い欲求があることを指摘し、精神分析的治療はこの欲求を「何らの不安・恐怖をともなうことなく充足できるのです」と語り「そして、この欲求が満たされると、彼の精神生活は成長・成熟し、母親拘束から解放され、社会に適応し、他人を愛することができるパーソナリティに到達できるのです。ここにおいて精神分析学の真の目的が達成されるのです」と主張しています。
次に小此木は阿闍世物語を夫の愛を失うことを恐れた「母親のエゴイズム」に対する「息子の恨み」と、息子から殺意を向けられてなお、献身的に尽くす「母の愛」の物語として読み解き、こうした母子間における愛憎劇を乗り越えて母子が一体感を回復していく過程に一つの治療機序を見出しています。
そして小此木は「母性再考−−阿闍世の母韋提希の葛藤を辿る(2003)」という最晩年の論考で日本の母親像に関して「無償の愛とか、ゆるしとか、思いやりとか、やさしさとか、献身とか、自己犠牲とか、母性という言葉に含蓄されるすべて込められている。そのようにマゾヒズム的な母性の存在がいることで家庭でも職場でもうまく成り立って機能しているのだというのが日本人の阿闍世コンプレックス論の一つのテーマである」と述べています。
*〈母性〉をめぐる諸相
こうした古澤と小此木の治療観の前提には、慈愛に満ちた存在としての〈母性〉への素朴な信頼があるように思われます。
これに対して、ユング派の心理療法家である臨床心理学者、河合隼雄氏は〈母性〉における「生み育てる」という肯定的側面のみならず「呑み込む」という否定的側面に注目しています。そして氏はこうした「呑み込む」という側面を持つ〈母性〉との対決をユングのいう「自己実現の過程」の中に位置付けています。
また、戦後日本社会を代表する批評家である江藤淳氏はその主著「成熟と喪失」において、近代社会における〈母性〉は「圧しつけがましさ」を持つようになるといいます。そして氏はそのような〈母性〉を見棄てるということ、すなわち〈喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」を引き受けること〉こそがまさしく戦後日本社会における「成熟」の条件であるとしました。
河合氏や江藤氏の議論は「母性」をいわば乗り越えるべき対象として想定し、こうした〈母性〉との対決の中に個人の生を支える物語の獲得を見出しているといえます。そして、こうした〈母性〉をめぐる議論を踏まえた上で、社会共通の「大きな物語」が失墜し、ポストモダン状況が加速する現代社会の中に「阿闍世コンプレックス」を再び位置付け直してみるのも興味深い試みのように思われます。
参考:西 見奈子「日本の精神分析における女性」(『精神分析にとって女とは何か』所収)