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ラカン派精神分析の基本用語集
2022年07月29日
データベース的動物とネットワーク的動物−−ヘーゲル哲学とポストモダン
* 理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である
人間の歴史における「近代」を創建した哲学者がルネ・デカルトであり「近代」を確立した哲学者がイマヌエル・カントであるとすれば「近代」を完成させた哲学者がゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルということになるでしょう。カントによって捉えられた人間理性は確かに自然界=現象界の立法者ではありましたが、決してその創造者ではなく、自然界=現象界はその外部=物自体に材料を求める点で、人間理性の有限性が厳然と画されていました。けれどもカントは現象界を構成する思考のカテゴリーを形式論理学の判断表から導出しその数を12に限定していましたが、もし仮に理性の側から発動されるカテゴリー、例えば悟性のカテゴリーがもっと多ければ、それだけ物自体によって提供される材料はもっと少なくて済むことになります。そしてもし仮にその形式を無限に増大せしめうるとすれば、人間理性を限定する物自体の存在を認める必要がなくなり、人間理性はある種の絶対的創造者となりうることになります。
この点、ヘーゲルは人間理性の発露たる精神の本質とは「おのれ自身を知る」という自己意識ないし自覚へ向かう生成の運動にあるといい、その運動を「労働」と呼びます。ここでヘーゲルのいう「労働」とは労働主体が、対立する異他的な労働対象に働きかけ、それをおのれの望む形に変形させることで自己を外化する運動をいいます。こうした「労働」の過程において労働主体は労働対象の本性を正確に認識して制御するための高い教養や強靭な肉体を獲得していきます。そして、その労働が完了し、主体が対象のうちに自己を外化して、そこにいわば自己の分身を認めうるようになったとき、その主体は自分の持っている可能性の、少なくともその一部を現実化し、それまで知ることのできなかった自己を自覚するに至ります。
もっとも労働を通じ対象を自己の分身に変じたとしても、その間に労働主体もすでに大きく成長していることから、実現された成果のうちに自己自身の十全な似姿を見ることはなく、それは再び精神に対立する異他的な対象として現れます。ゆえに精神は再度より高次な労働により対象に働きかけてゆくことになります。
ここには精神と対象との直接的統一の関係(正)が破れて、そこに矛盾対立(反)が生じ、それが労働を通じて再び統一される(合)というプロセスを見出すことができます。このプロセスこそがあの名高いヘーゲルの弁証法です。そしてヘーゲルのいう「歴史」とは人間精神がこのように絶えず高められてゆく労働(自己外化)を通じて外的世界に働きかけ、一歩一歩自覚を深め自由を獲得してきた過程に他ならず、弁証法とはまさしく「歴史」の論理だということになります。
こうして精神の弁証法的な生成によってもはや外界に異他的な力として精神に対立するものが全くなくなり、精神が全てのもののうちに自己自身をみて全てのものにおいて自己自身の元にありうるようになるとき、精神は絶対の自由を獲得した「絶対精神」となり「歴史」は完結を迎えることになります。このように精神が絶対精神に至る艱難辛苦の「歴史」を描き出した労作がヘーゲルの主著「精神現象学(1807)」です。
そして、ヘーゲルはこうした意味の「歴史」の最終局面としてフランス革命を位置付け、そこに立ち会った彼自身の哲学こそが、精神の自己外化の終局点にある「絶対精神」の顕現に他ならないと確信することになります。
この点、ヘーゲルは晩年の著作となる「法哲学講義(1821)」において「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というテーゼを掲げています。すなわち、理性の認めるものだけが現実に存在する権利を持つ以上、現実に存在する全てのものは理性的であり、理性によって隈なく認識可能となり合理的に制御可能となるということです。こうしてヘーゲルはいまや人間はついに世界を統べる理性を獲得したことを力強く宣明して近代ヨーロッパにおける理性主義の完成を寿ぐ凱歌を上げました。
* 動物とスノビズム
かようにしてヘーゲルのいう「歴史」は19世紀初頭のヨーロッパにおいて大円団を迎えることになります。ではその後の「ポスト歴史」において人間の人間性はどうなるのでしょうか。
この点、ロシア出身のフランスの哲学者、アレクサンドル・コジューヴはその講義録である「ヘーゲル読解入門第二版(1968)」の(特に日本で)よく知られた脚注においてヘーゲル的な「歴史」が終わった後、人々には「動物への回帰」と「スノビズム」という二つの生存様式しか残されていないと主張しています。
先に述べたように、ヘーゲルの弁証法は精神と対象との直接的統一の関係(正)が破れて、そこに矛盾対立(反)が生じ、それが労働を通じて再び統一される(合)というプロセスを経由します。ここには既存の環境を「否定」するという契機が含まれます。このことから、コジューヴは、ヘーゲルのいう「人間」とは既存の環境を「否定」するという闘争的行動を伴う存在であるとします。
これに対して動物は常に既存の環境と調和して生きています。こうした意味でコジューヴは戦後アメリカに代表される消費化情報化社会に適応した人々を「動物」と呼びました。コジューヴに言わせれば「歴史の終わりのあと、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう」ということになります。
他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないのにも関わらず、それを「形式化された価値」に基づき、あえてそれを否定する行動様式です。コジューヴがその例として挙げているのがなんと日本の切腹です。実質的には死ぬ理由が何もないにも関わらず「名誉」とか「規律」などといった「形式化された価値」に基づいて行われる自殺である切腹をコジューヴは究極のスノビズムであると称しました。
コジューヴはスノビズムは環境に対する「否定」の契機がある点で決して動物的な生き方ではないけれど、ヘーゲル的な「歴史」における人間的な生き方とも異なるとしています。というのもスノビズム的主体の自然(切腹の例で言えば生存本能)との対立は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからです。「名誉」とか「規律」などといった「形式化された価値」に基づいて純粋に儀礼的に遂行される切腹はいくらその犠牲者の屍が積み上がろうとも決して「歴史」を切り開く革命の原動力にはならないということです。そして、コジューヴは日本文化の中核にはスノビズムがあると直感し、今後はその精神が「ポスト・歴史」の文化世界を支配していくだろうと論じました。
* シニシズムと否定神学
なお、コジューヴが「スノビズム」と呼んだ生き方はのちにスロヴァニア出身の哲学者、スラヴォイ・ジジェクによって「シニシズム」という名で理論化されています。ジジェクはシニシズムの例としてしばし冷戦期のスターリニズムを挙げます。ジジェクはその主著「イデオロギーの崇高な対象(1989)」において、スターリニズムの支持者は本当はそれが嘘であることを知っているけれど「だからこそ」彼らはそれを信じるふりを止められないといいます。ここには実質と形式の捩れた関係があります。シニカルな主体は世界の実質的価値を信じないけれど「だからこそ」彼らは形式的価値を信じるふりをやめられないし、時にその形式のために実質を犠牲にすることも厭わないということです。
この「だからこそ」をコジューヴは主体の能動性として捉えていましたが、ジジェクはその「だからこそ」という転倒はむしろ主体にはどうにもならない強制的なメカニズムだと述べている点で相違があります。
こうしたジジェクのいう「だからこそ」のメカニズムはある種の否定神学的な論理から成り立っています。この点、ジジェクの依拠するラカン派精神分析においては人の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」の三つの位相から捉えます。ここでいう「想像界」とはイメージの世界であり「象徴界」とは言語の世界であり「現実界」とは象徴化不可能な〈もの〉の世界のことを指しています。
そして人は象徴化不可能な〈もの〉を任意の対象に仮託し、その対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げる事で、象徴的秩序を安定させているわけです。このような〈もの〉の尊厳まで引き上げられた対象をラカンは「対象 a 」と呼んでいます。
そして一旦、対象 a が成立した以上、当該象徴的秩序内においては当該対象を公然と貶めるような行為はタブーとなります。なぜならばそのタブーを犯した瞬間に当該対象を中心とした象徴的秩序が崩壊するからです。
つまり、ここでは神は不在「だからこそ」現前するという否定神学の論理が成り立っています。それゆえに人は無意味だと分かっていても切腹を行い、嘘だと分かっていてもスターリニズムを信じ、そしてそれは嫌でも止められないということです。
* 虚構の時代から動物の時代へ
この点、東浩紀氏は「動物化するポストモダン(2001)」において「スノビズム(シニシズム)」を近代からポストモダンへの移行期における一つの特徴として位置付けています。ここでいうポストモダンとは社会共通の価値規範である「大きな物語」が失墜した時代をいいます。そして氏は近代からポストモダンへの移行は世界的には1970年代を一つの中心として第一次大戦が始まった1914年から冷戦構造が終焉する1989年までの75年間をかけて緩やかに進行したと捉えた上で、この移行期の時代精神は「大きな物語」が失われつつあることは誰もが知っているが「だからこそ」フェイクの大きな物語を捏造するというスノビズムないしシニシズムによって特徴づけられていたといいます。
もっとも東氏は日本における近代からポストモダンへの移行過程は1945年の敗戦で一度切断されているとして、大澤真幸氏の提唱する社会学的時代区分である「理想の時代(1945年〜1970年)」「虚構の時代(1970年〜1995年)」を参照しながら、日本社会が近代からポストモダンに移行したのは「虚構の時代」に当たる1970年代以降になるとします。そして「虚構の時代」を規定した日本的スノビズムの典型例として氏は漫画・アニメ・ゲーム・特撮といったサブカルチャーを愛好する日本のオタク系文化を挙げています。
すなわち、オタク的感性の中心には、漫画やアニメなどは所詮は子供騙しと分かっていながらも、その実質的な無意味からコジューヴのいう「形式化された価値」に相当するオタク的な「趣向」を切り離すことで、騙されていることを承知の上で作品に没入するというスノビズムを見出すことができるということです。こうしてみると、ある意味でオタクとは、スノビズムに規定されていた日本文化の正統継承者ともいえるでしょう。
もっとも、東氏は「虚構の時代」が終焉した1995年以降は日本においてもスノビズムの有効性は失われたとして、1995年以降の時代をコジューヴに倣い「動物の時代」と規定します。そして「動物の時代」における主体を「シュミラークル(小さな物語)」の水準での動物性と「データベース(大きな非物語)」の水準での(形骸化した擬似的な)人間性を解離的に共存させた「データベース的動物」と名付けました。
* データベース的動物とネットワーク的動物
ここまでの議論に即していえば、ヘーゲルのいう「歴史」が終焉した後の「ポスト歴史」における人間とは、近代からポストモダンの移行期における「スノビズム(シニシズム)」を経て「動物」ないし「データベース的動物」へと至ったということになります。ではコジューヴのいう「動物」と東氏のいう「データベース的動物」は何が違うのでしょうか。
この点、既存環境を否定する存在が人間であり、既存環境に調和する存在が動物であるというコジューヴの図式からいえば、シュミラークルに没入して動物的欲求を満たすデータベース的動物とは本質的にはコジューヴのいう動物の亜種である事は確かです。
しかしその一方で、データベース的動物には形骸化した形であるにせよ、データベースへ介入する人間的欲望が残されています。そして現代では動ポモが公刊された20年あまり前とは比較できないくらいに情報技術やネットワーク環境が発展し、人々はよりスマートかつラディカルにデータベースに介入できる可能性を手にしました。その意味で、いまや我々は「データベース的動物」であると同時に「ネットワーク的動物」であるともいえます。
そして、もしもここで東氏のいう「データベース」とヘーゲル的な「歴史」をパラレルに捉えるのであれば、データベース的動物/ネットワーク的動物はヘーゲル的人間を「半分だけ」は取り戻したともいえなくもないでしょう。
おそらくヘーゲルはそんな人間など偽物に過ぎないと嗤うかもしれません。けれども「偽物」の人間であるからこそ、むしろ「本物」の人間に見出せなかった新たな人間の可能性をその中に見る事ができるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 03:30
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