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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2022年06月23日

世界の謎から日常の問題へ−−カント哲学と思弁的実在論



* 近代的意味での有限性としての「理性」

「近代」とは人間の新たな意味での「有限性」が発見された時代であるいえます。すなわち人間はその理性的認識の範囲内でしか世界を捉えることができないという意味での有限性です。18世紀末、こうした近代的意味での有限性を初めて明晰に分析したのがイマヌエル・カント(1724〜1804)の「純粋理性批判(1781)」です。

近代における「理性」は17世紀、ルネ・デカルトにより神の後見の下で見出されることになりましたが、18世紀になると神の後見によらずして「理性」を基礎付けることができるのかが問題となりました。つまり、これまでは神的理性によって支えられていたからこそ、人間理性と世界の合理性との調和が保障されもしたわけなのですが、そうした神的理性による媒介がないとすれば、この想定された調和には何の根拠もあり得ないことになるからです。

この点、イギリスにおける経験主義は、我々の持つ観念とはすべて経験的観念だと考えようとしました。しかしそうした考え方からすると数や幾何学といった観念も「たまたまそうであった」という蓋然的事実でしかない事になります。これに対してカントは神的理性の媒介を拒否しつつも我々の理性的観念に基づく認識と世界の合理性の調和を保証すべく、理性の超越論的機能の新たな基礎づけを行いました。

この点、カントによれば、理性が認識できるのは、決して対象それ自体の姿としての「物自体(Ding an sich)」ではなく、その認識の中で現れてくる「現象(Erscheinung)」でしかあり得ません。すなわち、理性は「物自体」に由来する色々な材料を受容し、整理統合することで「現象としての世界=現象界」を構成します。

この点、カント哲学においては物自体に由来する材料を「空間・時間」といった「直観の形式」により受容する能力を「感性」といい、受容した材料を「量・質・関係・様相」といった「思考のカテゴリー」により整理統合する能力を「悟性」と呼びます。そして、この感性と悟性により創り上げられた「現象界」だけに限れば、確かに我々の理性は世界を確実なものとして認識していることになります。

こうしてカントは、一方において古い独断的な形而上学を葬り去り、数学や物理学といった近代自然科学の普遍的妥当性を基礎付けるとともに、その一方において人は「現象界」の外部にある「物自体」への接近不可能性という近代的意味での有限性を示したことになります。

* 思弁的実在論とは何か

そして、カント以降において近代哲学には一つの暗黙の前提が作られることになりました。すなわち、人間は決して対象の実在それ自体を認識することはできず、人間固有の認識装置を通じてのみ対象は表象として認識されるということです。こうした近代哲学が築き上げた暗黙の前提に反旗を翻す現代哲学における新たな実在論が「思弁的実在論」と呼ばれる潮流です。

思弁的実在論(Speculative Realism)とは狭義には2007年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行わ れた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマンら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端に生じた今世紀初頭の大陸哲学における実在論的潮流をいいます。

それは我々が生きるこの世界を構成する客観的な事物としての「実在」それ自体を、従来の実在論とは異なった「思弁的」といえる奇妙な理路によって捉え直すという新種の実在論です。こうした潮流はフランス現代思想の系譜において「構造主義」「ポスト構造主義」の後にくる、いわば「ポスト・ポスト構造主義」に位置付けられます。

* 相関主義の乗り越え

思弁的実在論において共有される問題意識は、その筆頭的立場にあるメイヤスーのいうところの「相関主義」の乗り越えにあります。

近代西洋哲学においては、カント以降、「存在(対象)」が何であるかは「思考(認識)」との関係によってのみ明らかにされるという前提が広く共有され、思考と存在の一方の項目だけにアクセスすることはできないと考えられるようになります。こうした近代哲学における思考と存在の相関関係をメイヤスーは「相関主義」と呼びます。

そしてメイヤスーは「相関主義」を前提とすると、思考不可能な「実在」の位置に任意に代入した非合理・非常識な命題こそがまさに世界の真実であるなどと主張する陰謀論的な「信仰主義」に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的「相対主義」がもたらされるとします。

*「ただあるだけ」のこの世界

これに対してメイヤスーはこうした「相対主義」に対して常識的な自然科学的世界像を擁護するための理論を提示します。けれどもその理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなります。

まずメイヤスーは世界を構成する事物は人間の言語による意味づけとは無関係に、ただ端的な「実在」として客観的に存在しており、そしてそれは一義的に、つまり唯一の真理として「これはこういうものだ」といえるといいます。そしてこうした「実在」の客観性はメイヤスーによれば、唯一、数理的記述によって思考可能だとされます。

このようにメイヤスーは数理的記述こそが世界の揺るぎない客観性だというのですが、その一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、メイヤスーはこの世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出します。

すなわち、この世界のあり方に仮に必然性があるのであれば、世界には隠された存在理由(充足理由律)があるはずですが、メイヤスーはその存在理由が消去された完全に乾き切った「ただあるだけ」のこの世界を捉えます。そしてメイヤスーは自然科学的な世界像はこうした「事実論性の原理(非理由律)」によって哲学的に正当化できると考えました。いわばメイヤスーにおいては(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高い次元での相対主義をもって対抗する理論であると言えるでしょう。

* 否定神学システムとしてのラカン派精神分析

こうした議論を日本の現代思想シーンの中に位置づけるのであれば、それはおそらく、東浩紀氏が「存在論的、郵便的」において提出した否定神学システム批判に相当するでしょう。

ここでいう否定神学システムとはラカン派精神分析に代表される構図のことを指しています。この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは主体の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相によって把握します。「想像界」とはイメージの境域であり「象徴界」とは言語の境域であり「現実界」とはイメージや言語によって捉えることが不可能な境域です。

そしてラカンによれば「想像界」は「象徴界」により統御されており、その「象徴界」は「現実界」という「外部=穴」によって駆動しているという構造となっています。

こうしたラカン的構図は、カント哲学の現代版ともいます。つまり人の認識構造における「感性」が「想像界」に相当し「悟性」が「象徴界」に相当します。そしてこうした認識構造によって捉えられない領域としての「物自体」が「現実界」に対応しています。

* 世界の謎から日常の問題へ

こうした意味でメイヤスーのいう相関主義とは、東氏のいう否定神学システムとほぼイコールとなります。そして、こうした相関主義=否定神学システムに対する抵抗の拠点をメイヤスーは客観的な事物としての「実在」に求め、東氏はコミュニケーションの失敗としての「誤配」に求めたとひとまずはいえるでしょう。そして、そこにはかつてカントが見出した近代的な意味での有限性とは別の有限性が見出されることになります。

無限の解釈の外部へ向かうということ。日々の偶然性を肯定するということ。こうした世界像の中には世界の謎から日常の問題へと折り返していく主体のあり方を見出す事ができるでしょう。そしてそこには、決して辿り着けない「ここではないどこか」を目指して永遠に空回りする悲劇としての有限性ではなく、さしあたりの「いま、ここ」から別な「いま、ここ」へと跳躍する瑞やかな歓びとしての有限性が見出せるのではないでしょうか。
















posted by かがみ at 21:02 | 精神分析