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ラカン派精神分析の基本用語集
2022年04月26日
自閉症スペクトラム障害とデータベース文学
* 自閉症文学としてのアリス
児童文学における不朽の名作「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」という稀有な作品を生み出したルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)は1832年、イギリスのダーズベリーに11人兄弟の第3子長男として生を受けました。ドジゾン家はアイルランド系の牧師の家庭であり、キャロルも敬虔なキリスト教徒でしたが、のちに英国国教会の儀礼主義への疑義を持って以降、生涯にわたり宗教的葛藤を抱えていたとされています。
長じてオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジに入学したキャロルは、特に数学に関して優秀な成績を収め24歳から同校の数学講師を務め、1898年に66歳で亡くなるまで終生大学寮で生活しました。そして同校の学寮長ヘンリー・リデルの娘であるアリスとの交流の中で「不思議」と「鏡」の物語は生み出されました。
近年においてキャロルは「自閉症スペクトラム障害」であったことが指摘されています。自閉症はかつて子どもの精神病とみなされていましたが、1970年代になると自閉症は精神病とは異なる脳の器質的障害と認識されるようになります。
さらに1980年代以降、古典的な自閉症である「カナー症候群」とその診断基準を部分的に満たす「アスペルガー症候群」を「スペクトラム(連続体)」として捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において両者は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。
ASDの特性とは端的にいうと「社会的コミュニケーションの持続的障害(場の空気が読めない)」と「常同的反復的行動・関心(独自のこだわりに執着する)」という2点から成り立ちます。
この点、キャロルの場合、アリスをはじめとするリデル家の少女の写真を執拗に撮って回り、リデル夫人の不興を買うもまったく意に解さず、あまつさえカメラをリデル家に置きっぱなしにしていたというエピソード(場の空気が読めない)や、鉄道模型の時刻表を自作したり、文通、来客、招待といった交流関係を逐一記録するというエピソード(独自のこだわりに執着する)が知られています。
*〈他者〉の回避
このようなキャロルのエピソードからは一つの傾向性を見出すことができます。それは端的にいうと制御不能なものとしての〈他者〉の回避です。そして、この〈他者〉の回避という視点から自閉症(ASD)の構造を捉えたのが、ロジーヌ・ルフォールとロベール・ルフォールの夫妻です。
1954年にフランスの精神科医ジャック・ラカンのセミネールにおいて自閉症の子どもの症例を発表して以来、50年以上の長きにわたりラカン派の自閉症研究を主導してきたルフォール夫妻はその集大成的な著作「自閉症の区別(2003)」において〈他者〉の回避という視点を導入することで、自閉症を神経症・精神病・倒錯という従来のラカン派の鑑別診断に還元不可能な「第四の構造」として捉える立場を打ち出しています。
この点、ラカンによれば子どもは〈他者〉の世界に参入することで主体化を果たすとされています。ここでいう〈他者〉とはまずは「母国語」という言語秩序(=象徴界)のことであり、次にこうした言語秩序の外部(=現実界)から到来する「まなざし」や「呼び声」といったラカンのいう「対象 a 」を指しています。そして、こうした〈他者〉を徹底して回避することによって自身において制御ないし計量可能な、いわば〈他者〉なき世界を作り上げるという構造が自閉症においては見出されるということです。
*「表面」の作家としてのキャロル
こうしたキャロルに見出される自閉症的な構造は「不思議」や「鏡」といったアリスの物語にも反映されているといえるでしょう。この点、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「意味の論理学(1969)」において、キャロルを「表面」を体現する作家として位置付けています。
同書はその第13セリー「分裂症と少女」を境に前半と後半に分けられます。その前半では「意味=出来事」に規定された世界の「表面」の位相が論じられ、その後半では「表面」の下部構造としての「物体」に規定された世界の「深層」の位相が論じられます。
なお「意味=出来事」における命題の「真/偽」を判定する場が「表面」の上部構造である「高所」になります。そして、このような高所・表面・深層というドゥルーズの三層構造は神経症・倒錯・精神病というラカン派の鑑別診断に概ね対応するとされます。
同書においてドゥルーズはアリスの物語におけるキャロルの言葉遊びを取り上げ「意味=出来事」の本質とは「無-意味(ノンセンス)」であるというテーゼを提出します。例えばキャロルの造語である「スナーク」は「スネーク(蛇)」や「スネイル(蝸牛)」や「シャーク(鮫)」になったりと様々に生成変化します。
この点、ドゥルーズによれば特別な造語でなくとも「表面」においてはあらゆるシニフィアンは潜在的には「無意味(ノンセンス)」であり、そのコンテクスト次第で多方向に意味を発散させていくとされます(接続過剰)。これはラカンにおけるシニフィアン連鎖、デリダにおけるエクリチュールに相当する議論です。
そして、このような語の生成変化を規定する超越論的シニフィアンとして、ドゥルーズはひとつの〈裂け目〉を想定します。つまりキャロル的表面はこの〈裂け目〉が様々に駆け巡ることによって産み出されている事になります。
こうした〈裂け目〉がさらに裂ける=多孔化/複数化した世界が「深層」です。「深層」とはもはや「無-意味」すら生み出さない「非-意味」的な断片としての事物それ自体だけの世界です(切断過剰)。ここでドゥルーズが「深層」を体現する作家として位置付けたのが現代演劇に絶大な影響を与えたとされる作家、アントナン・アルトーです。
アルトーの文学はキャロル的な「無意味(ノンセンス)」を生産しない一方で「非-意味」的な断片によるメレオロジー的なまとまりを形成します。そして、ドゥルーズはこのようなまとまりをアルトーに倣い「器官なき身体」と呼びます。
* 深層の言葉と表面の言葉
「意味の論理学」においてドゥルーズは第13セリーの最後で「キャロルの全てを引き換えにしても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう」と述べアルトーを称賛します。けれども、その直後、すぐさまに「(キャロルが描く)表面には、意味の論理のすべてがある」とも述べています。
このように「意味の論理学」の時点ではドゥルーズのキャロルに対する評価はある種の両義性を孕んでいます。けれども「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学はアルトー的な「深層」を拒絶しキャロル的な「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。
そして晩年のドゥルーズは「批評と臨床(1993)」において、キャロルは「表面」の言語を獲得することで「深層」から華麗に逃れることができたといいます。そしてドゥルーズはこうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうるとまで断言しています。
* アリスからライトノベルへ
キャロルがアリスの物語の中で駆使する数々の「無意味(ノンセンス)」はおそらくASD的な言語解釈のズレから産み出されたものだったのでしょう。いわばキャロルは言語を「母語=〈他者〉」ではなくある種の「情報の束=データベース」として読み出していたと思われます。そして、こうした「データベース」としての言語で紡がれたアリスの物語をドゥルーズは「表面」の言葉として称賛したのでした。
この点「批評と臨床」においてドゥルーズは、キャロルの他に、やはりASDの特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家を評価しています。彼らはアルトーのように言語の「深層」に魅入られるのではなく、言語の「表面」をある種のデータベースとして捉えて、その内側からハッキングすることで転覆させようとしました。そしてドゥルーズは、このような言語のハッキング、すなわち「言語をその慣習的な轍の外に引きずり出す」ことこそが、現代において「言語を狂気させる」ことに他ならないと述べています。
ここには、いわば「データベース文学」とでも呼べる文学観があります。この点、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において近代的な「大きな物語」が衰退したポストモダンにおいては、ポップカルチャーのデータベースから形成される人工環境に依拠した文学が台頭するといい、その典型例として氏は1990年代以降、文芸市場でその存在感を急速に強めてきた「ライトノベル」と呼ばれる作品群に注目していました。
こうしてみると、ライトノベルという文芸ジャンルは現代における「データベース文学」の一大潮流として捉えることが可能であり、翻ってアリスの物語はライトノベルの先駆的作品として読むことができるように思えます。
posted by かがみ at 22:32
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