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現代批評理論の諸相

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2022年03月25日

訂正可能性と誤配可能性



*「存在論的、郵便的」における固有名論

フランスの哲学者、ジャック・デリダ。一般的には「脱構築」として知られる彼の哲学的活動は60年代前半から始まりました。1967年に出版された「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」という三著作を契機としてデリダの仕事は急速に評価を獲得し、70年代において「脱構築」は一つの知的流行となり、結果的に80年代初めまでにデリダは「ポストモダン」を先導する哲学者の一人として広く認知されるようになります。

ところがその一方、1970年代初頭から1980年代にかけてデリダは「散種(1972)」「弔鐘(1974)」「絵画における真理(1978)」「葉書(1980)」などに代表される極めて難解で実験的なテクストを公刊します。これらのテクスト群は一種の哲学的パフォーマンスとして受け止められ、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。

こうした中で、この時期のデリダのテクストに光を当て、独創的な〈超〉デリダ論を展開したのが東浩紀氏の「存在論的、郵便的(1998)」です。同書で氏は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という素朴な問いを梃子として、デリダの「脱構築」をゲーテル的脱構築(否定神学的脱構築)とデリダ的脱構築(郵便的脱構築)に分けた上で、後者をハイデガー的思考への抵抗として位置づけると同時に、その背後にあるフロイト的思考の影響を突き止め、後期デリダのテクストを精神分析における「転移」のメカニズムから読み解いていきます。

こうした同書の展開の中で幾度となく再浮上を繰り返す一つの議論があります。すなわち、それは「固有名」をいかに扱うかという議論です。いわば同書の裏テーマともいえるこの議論はいかなる哲学的射程を持っているのでしょうか。

* 記述主義と反記述主義

1960年代まではゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルが提唱した記述理論によって「固有名」とは縮約された確定記述の束と見做されていました。例えば「アリストテレス」という固有名を我々は通常、その名が「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。つまりここで固有名はあくまで言語体系の内部に位置しています。こうした立場を「記述主義」といいます。

しかしアメリカの分析哲学者、ソール・クリプキは70年に行われた「名指しと必然性」という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。記述理論に従えば、その時我々は「『アリストテレス=アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」という論理的に矛盾した命題に直面します。

このように「アリストテレス」という固有名は少なくとも「アレクサンダー大王を教えた人」という確定記述とイコールではない。そして極論すれば「アリストテレス」に関するありとあらゆる確定記述を覆す事実が判明したという想定も可能です。けれども、それでも我々はその人を「アリストテレス」と呼ぶはずです。そうだとすれば結局「アリストテレス」なる固有名は常に確定記述の束に還元できないということになり、ここで記述理論は破綻します。

固有名は確定記述の束に還元されないというクリプキの命題は固有名はつねに、ある「剰余」が宿っていることを意味します。すなわち、固有名に宿るその剰余こそが「アリストテレス」という固有名の確定記述への還元不可能性を支えています。こうした立場を「反記述主義」といいます。

我々はあらゆる確定記述について、常にそれが否定された別の可能世界を想定することができます。そして固有名の同一性はそれら全ての可能世界を貫き維持されています。これは固有名の中に、いかなる言語内翻訳にも従わない非言語的な残余が存在することを意味します。その残滓をクリプキは「固定指示子」と呼び、言語外で生じた力の痕跡として説明しました。ここでは固有名には言語体系の外部としての「現実」が侵入すると想定されていることになります。

* 固有名の剰余の根拠

では、このような「剰余」はいつ固有名に宿ったのか。クリプキはその源泉を、最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されます。

これは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の残余=脱構築不可能なものについて語るために、彼は「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。

この点、スラヴォイ・ジジェクはクリプキの固有名論をラカン派精神分析の理論から読み直しています。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは主体の精神構造を「想像界(認識)」「象徴界(記号)」「現実界(剰余)」という三つの境域から考察する精神分析理論を創出したことで知られています。そしてジジェクによれば、固有名の剰余の根拠とは実証科学的な「現実」の中ではなく、ラカンのいう「現実界」にこそ求められなければならないとします。

すなわち「象徴界」を構成する「シニフィアン(表象)」から「シニフィエ(意味)」への循環運動はゲーテル的亀裂を抱え込んでおり、そこには必ずひとつの「他のシニフィエに送り返すことのできないシニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」が存在します。これこそが「象徴界」の外部たる「現実界」に対応する特権的シニフィアンであり、固有名とはまさにその特権的シニフィアンとして機能するがゆえに、シニフィエ(確定記述)に送り返すことができないことになります。

つまり「アリストテレス」という固有名の剰余は、象徴界全体の不完全性により保証されていることになります。したがってそこでは特定の名が生まれる「現実」的な事情は、そこに宿る剰余とは何の関係もないわけです。そうであれば、固有名に宿る剰余を保証する「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといったクリプキの神話の想定は不要となります。

ここで固有名の剰余はもはや、個々の名に宿るとは考えられず、むしろラカンが「対象 a 」と呼ぶ主体の欠如の相関物として解釈されています。象徴界における不完全性=欠如を埋めるために主体は常に「対象 a 」を必要とし、社会的にはスターリズムにおけるスターリンのような崇拝対象、フェティッシュとしての貨幣、コカコーラなどの呪術的商品がその「対象 a 」として機能しています。つまり固有名の剰余の根拠について、クリプキが剰余の根拠を固有名の側に「固定指示子」として見出しましたが、ジジェクは固有名を受け取る側に「対象 a 」として見出したということです。こうして、クリプキの議論が宿していた否定神学性は、ジジェクが加えたこの洗練によって完成します。

* 固有名の訂正可能性

その一方で、クリプキの議論は別の角度から読み直す事ができます。クリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。なぜなのでしょうか。

例えば「アリストテレス」という固有名であれば「実はアリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」などといった可能世界を必要とします。しかし「一角獣」という固有名には「実は一角獣は実在していた」などといった可能世界は必要としません。

なぜならクリプキにおいて「一角獣」が存在するかどうかは事実の問題ではなく言語の問題だからです。問題は「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が現実にいるかどうかではない。たとえ「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、我々はそれを「一角獣と全く同じ性質を持つ実在の動物」と呼ぶだけです。我々はそもそも「一角獣」という固有名を「いつの日かそれが発見されるかも知れない」という想定で使用していないのです。

つまり、ここでは可能世界の要否とは固有名の「訂正可能性」に対応していることがわかります。我々は「アリストテレス」という固有名と同時にその諸々の確定記述が訂正可能であるという前提も受け取っています。だからこそ「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という事後的訂正が可能となり、そこから遡行的に固有名の「剰余」が見出されます。しかし「一角獣」という固有名について我々は訂正可能であるという前提を受け取っていません。従って「一角獣」という固有名に剰余は宿らないということになります。

つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかという伝達経路、すなわちコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。

クリプキは固有名の剰余を説明するために最終的に「命名儀式」という非現実的な神話を持ち出しました。しかし以上の議論は固有名の剰余そのものが転倒の結果であることを教えています。

固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその訂正可能性がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろそのコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。

つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定します。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになります。

* エクリチュールにおける誤配可能性

こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出します。

この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダのエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールです。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じるわけです。

そして、ここでいう「エクリチュール(綴り字)」とはコミュニケーションの誤配可能性一般を意味しています。氏はデリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えているといいます。情報の伝達が必ず何らかの媒介を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されています。デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」なのです。そして、このような不完全な情報伝達の媒介を「エクリチュール」といいます。

つまりここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になります。

そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになります。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されています。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼びます。

「アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれているということです。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現します。そしてこれらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的シニフィアンとして現れるということです。

* ゲーム的リアリズムと幽霊の主題

東氏のデビュー作である「存在論的、郵便的」という著作はその後の「動物化するポストモダン(2001)」「一般意志2.0(2011)」「観光客の哲学(2017)」といった一連の東氏の仕事の「基礎理論」を提示している感もあるテクストです。そしてこれまで述べてきた東氏の固有名論は「動ポモ」の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」におけるキャラクター論と極めて親和的であるように思えます。

日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開きました。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたといいます。

以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たなリアリズムが台頭し始めます。

この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つのリアリズムを「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させました。

こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。

このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」の並立を「近代的現実」と「キャラクターのデータベース」というメタ物語的環境の並立として捉え、こうした状況を「想像力の二環境化」と呼びます。

さらに、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なるリアリズムを見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力を召喚し、それは時としてメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになります。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目して、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取るリアリズムは「ゲーム的リアリズム」と呼びます。

「ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食するという境界線上で発生します。こうした状況を氏は「想像力の二環境化」に倣い「メディアの二環境化」と呼びます。

こうした「ゲーム的リアリズム」の概念は固有名の訂正可能性から基礎付ける事が可能でしょう。すなわち、メディアの二環境化(=複数の伝達経路)が同一キャラクターの別の物語(=幽霊)を生み出し、その効果としてキャラクター(=固有名)にメタ物語(=剰余)が生じるという事です。

そして、こうしたメタ物語的環境を読み手と作品との間に挟み込む読解技法を氏は「環境分析的読解」と呼び、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させています。自然主義読解が作品に内在する「物語的主題」を読み解くのであれば、環境分析的読解は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていきます。そして時に同一作品において両者はまったく真逆のメッセージを発する事さえもあります。

ここでいう「構造的主題」とは、いわば「作品という固有名」に取り憑いた「幽霊の主題」ともいえます。こうした「幽霊の主題」を取り出す読解は、テクストの最終審級を無効化するような「いわゆる脱構築的批評」とは別の「もうひとつの脱構築的批評」の可能性を開くものではないでしょうか。

















posted by かがみ at 00:03 | 精神分析