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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2022年02月26日
世界の二重構造と幽霊の審級
* デリダはフロイトの中に何を見たのか
精神分析という営みは19世紀末当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法としてジークムント・フロイトによって産み出されました。その後、精神分析はフロイトの後継者達によって多様多彩な発展を遂げていく事になりますが、創始者フロイトが抱え込んでいた精神分析における「科学」と「精神療法」の間の矛盾は、そのまま米国自我心理学と英国対象関係論という学派的な対立に引き継がれていきました。
こうした中で構造主義的言語学の知見からフロイト理論を徹底的に読み直し「科学」と「精神療法」を統合した強力な精神分析理論を創り上げた人物がジャック・ラカンです。これに対してフロイト理論に真っ向から反旗を翻し、独自の分裂分析を提唱した論客がジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。
ところでラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したフロイトをまったく別の角度から読み直していたことで知られる同時代の人物がいます。その人物こそ、ポスト構造主義を代表する論客にして「脱構築」の名で一斉を風靡したフランスの哲学者、ジャック・デリダです。果たしてデリダはフロイトの中に何を見たのでしょうか。
* 「盗まれた手紙のセミネール」と「真理の配達人」
まずデリダは次のようにラカンを批判しています。ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出しました。
これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないことがありうる」というテーゼを提出します。このデリダのテーゼにおいては「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相が重視されています。素朴に考えても実際、我々は自身の記憶を忘却したり勘違いをしたり、あるいは様々な情報を読み間違ったり書き間違ったりすることが「ありうる」でしょう。すなわち、デリダによればラカンはこの「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相を取り逃していることになります。
* 形而上学システムと否定神学システム
ここでデリダは二重の批判を行なっていることになります。すなわち「形而上学システム」と「否定神学システム」への批判です。
まず「形而上学システム」とは、すべてのシニフィアンからシニフィエへの循環運動は超越論的シニフィエ(形而上学的原理)という最終審級によって担保されると想定する思考です。
ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別されており、この認識構造を図式化すれば底面(オブジェクトレベル)が頂点(メタレベル)によって吊り支えられた円錐構造となります。
例えばプラトン以降の西洋哲学は典型的な「形而上学システム」です。また世の中の様々な法律や理論や思想は形而上学なテクストで記述されています。形而上学的システムは超越論的シニフィエを頂点とした体系的思考を展開します。けれどもいかなるシニフィエも、それは結局シニフィアンによって記述される以上、その体系の中には常に脱構築可能な「穴=ゲーテル的亀裂」を抱え込んでいます。
次に「否定神学システム」とは、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴=ゲーテル的亀裂」を発見した上で、この「穴=ゲーテル的亀裂」を「超越論的シニフィアン」で縫合し、全てのシニフィアンの運動をこの超越論的シニフィアンという最終審級へと回収してしまう思考です。
ここではオブジェクトレベルとメタレベルは短絡されており、この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となります。そして、こうした「否定神学システム」の代表例がマルティン・ハイデガーの哲学です。
* ハイデガー哲学が切り開いた境域
ハイデガー哲学は「存在」とは何かを思考します。我々の世界は様々な「存在者」が「存在」することで構成されています。そして、我々は「存在者(オブジェクトレベル)」を思考対象とする事はできますが、その存在者が世界に「存在(メタレベル)」するという思考形式それ自体を思考対象することは定義上不可能とされます(メタレベルはオブジェクトレベルにはならない)。
ところがハイデガーは様々な存在者の中に思考対象(オブジェクトレベル)と思考形式(メタレベル)が折り重なった「二重襞」を持つ特異的な存在者を発見しました。その特異的な存在者こそがまさしく、ハイデガーが「現存在」と呼ぶ我々人間のことです。
「現存在(人間)」は思考対象(オブジェクトレベル)でもあると同時に思考形式(メタレベル)の源泉でもあります。ゆえにハイデガーは「現存在=思考対象(オブジェクトレベル)」について思考する事は間接的に「存在=思考形式(メタレベル)」について思考する事にもなるのではないかと考えました。
このようなオブジェクトレベルとメタレベルを短絡させる二重構造=クラインの管は「実存論的構造」と呼ばれます。
こうした「実存論構造=クラインの管」を可能とする「穴=ゲーテル的亀裂」は「呼び声=実存性の開示」によって開かれます。「呼び声」はクラインの管を循環して、世界(Da)における「穴=ゲーテル的亀裂」をより高次において縫合する否定神学システムを構成します。
ここで「穴=ゲーテル的亀裂」を縫合する「呼び声」とは否定神学システムにおける超越論的シニフィアンの役割を担います。世界(Da)には「穴=ゲーテル的亀裂」が開いています(開示性)。しかしその「穴」が開くことで世界はむしろ閉じられるということになります(覚悟性)。
* ハイデガー哲学の功罪
1920年代における前期ハイデガーは以上のような実存論構造(=否定神学システム)の構造を思考しました。その成果が主著「存在と時間(1927)」における現存在分析です。そして1930年代における後期ハイデガーはこのような実存論構造(=否定神学システム)の成立根拠(=超越論的シニフィアン)へと遡行します。これがいわゆるハイデガーの「転回」と呼ばれるものです。
この点、後期ハイデガーにおいては存在の源泉を現存在には求めるのではなく、むしろ存在こそが現存在の源泉となると考えます。この時期から超越論的シニフィアンに相当する語も発信元不明な「呼び声」ではなく「存在」から「現存在」へ向けて発信される文字通りの「存在の声」と呼ばれるようになり、そこでは現存在分析以前の「存在」そのものが分析されることになります。
問題なのは後期ハイデガーが「存在」の分析において様々な哲学用語(哲学素)を「固有名」として読解した点にあります。その思考は詩的言語に支えられた差異の領域へ遡行し、ある種の神秘主義的なブラックボックス的言説を形成します。この点、ハイデガーの思考はルドルフ・カルナップが批判するように「論理形式の名詞化」を引き起こしています。
そしてハイデガーの影響を受けた1960年代のフランス現代思想シーンは、概ねこの「否定神学システム」の磁場に支配されていました。当時のラカン派精神分析にはその範例的な思考を見出すことができます。
いわば「否定神学システム」は表面的には「形而上学的システム」を脱構築する一方で、その残余=脱構築不可能なものを基礎付けるブラックボックス的言説を経由することで、いわば裏口から「形而上学システム」を再導入してしまう思考ともいえます。
* 存在論的脱構築と郵便的脱構築
ゆえに「真理の配達人」におけるデリダのラカン批判は間接的なハイデガー批判といえます。この点、東浩紀氏はデリダの「脱構築」には二つの側面があると言います。まず一般的に「いわゆる脱構築」として理解されているシステムの最終審級を無効化させる側面(ゲーテル的脱構築)と、次にその「いわゆる脱構築」が取り逃がした「剰余=(脱構築)不可能なもの」を捉えようとする側面(デリダ的脱構築)です。そして、このような後者の「不可能なもの」を捉える脱構築には「否定神学的-存在論的脱構築」と「郵便的脱構築」の2つのルートがあるとされます。
この点、存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。
これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここでは精神分析のメカニズムを応用した哲学素の転移化が利用されます。郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。
こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じることになります。
* 郵便=誤配システム
すなわち、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通しますが、以下のような相違があります。
ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いており、ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させる管=クラインの管を経由して超越論的審級から「存在の声」が降り注ぎます。
これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在者)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものがクラインの管が分岐化された空間=郵便空間を経由して「幽霊の声」として再来します。
このように「不可能なもの」を思考しつつ、なおかつ「否定神学システム」から逃れていく思考様式を東氏は「郵便=誤配システム」と呼んでいます。そして、このようなデリダの「郵便=誤配システム」の背景にはフロイトの影響が認められます。
デリダは「フロイトとエクリチュールの舞台(1966)」において、フロイトの著作群の中で「科学的心理学草稿(1895)」と「マジック・メモについてのノート(1925)」という、どちらかというと周縁的なテクストを高く評価しています。そして、ここでデリダが注目したフロイトのテクストからは、ラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したエディプス・コンプレックス至上主義者たる「いわゆるフロイト」とは異なる「もうひとりのフロイト」を見出すことができます。
* 経路
まず「科学的心理学草稿」においてフロイトは人の心=心的装置を「知覚表象の保持(=ニューロン)」とその間に張り巡らされた「経路(=ネットワーク)」として捉え、その情報処理の過程を心的エネルギー量の移動によって説明しています。
そして、フロイトは「二次過程(=意識的情報処理)」と「一次過程(=無意識的情報処理)」の差異をその心的エネルギーの流動性から区別します。一次過程の心的エネルギーは二次過程の心的エネルギーに比べて流動性が高く、その経路の途中に障害(例えば外傷的表象)がある場合はより抵抗の低い経路へと迂回/逸脱します。この迂回/逸脱を繰り返す過程で心的エネルギーは圧縮ないし分割されることになります。
すなわち、ここでは無意識における「経路(=ネットワーク)」の複数性が仮定されています。そして、夢・錯誤行為・神経症といった奇妙な表象(無意識の形成物)はこうした無意識における錯綜した情報処理によって形成されることになります。
* マジック・メモ
つぎに「マジック・メモについてのノート」においてフロイトが取り上げた「マジック・メモ」という装置は、暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに厚紙の縁を付けて、その上に二層構造のカバー(透明なセルロイドと半透明の薄いパラフィン紙)を取り付けた子供用のオモチャのことです。
この装置に棒や爪などで文字を書くと、その筆圧がかかった箇所ではカバー下層とボードが粘着し、その痕跡が黒い文字として視認できます(カバーが二層に分かれている理由は刺激に弱いパラフィン紙を保護するためです)。そして、その書き込まれた文字を消して新たに文字を書き込みたい場合は、今度はカバーを二層ごとに引き上げ、ボードとの粘着状態を元に戻します。
このような構造を持つマジック・メモにフロイトが注目したのは、この装置の構造が人の心的装置における特性をよく表していたからです。フロイトはカバー下層を知覚-意識系に、ボードを無意識にそれぞれ準えます。
そしてここでのポイントは知覚-意識系(カバー上層)が受容した情報は意識の上では忘却(カバーを剥がした)後も、その記憶は無意識(ボード)に物理的な文字の痕跡として残り続けるという点です。
* 語表象と物表象
この点、フロイトは「無意識について(1915)」という論文で「意識的な表象は物表象とそれに属する語表象を含むが、無意識的な表象は物表象だけである」という重要なテーゼを提出しています。
つまり心的装置は「二次過程(意識的情報処理)」においては「物表象」と「語表象」を用いることで「知覚同一性/思考同一性」という二種類の同一性論理で情報を処理しますが「一次過程(無意識的情報処理)」は「物表象」による「知覚同一性」の論理しか扱えないということです。
一次過程の典型例は我々が夜見る夢を生み出す無意識の作業(夢作業)です。この点、フロイトが「夢判断(1900)」で様々に例示するように、夢は二次過程に属するある表象(日中残余)を再び一次過程(夢作業)に差し戻します。この夢作業の過程で、その表象から語表象の資格が失われて、思考同一性の論理が剥奪されます。それ以降。当該表象は物表象となり、知覚同一性の論理によって分解・結合・圧縮される事になります。それ故に夢においては名詞と論理形式は混同され、論理形式が奇妙な形で名詞化=視覚化されることになります。
* 幽霊の審級
ここまでのフロイトの議論を先述のデリダの議論に接続すると、経路はクラインの管の分岐化に、マジックメモは世界(Da)の二重構造に、語表象はシニフィアンに、物表象はエクリチュールに相当します。
つまり世界(Da)の二重構造によりシニフィアンから引き剥がされたエクリチュールは無意識=郵便空間を経由して「幽霊の声」として回帰することになります。そして、否定神学システムとは、こうした郵便=誤配システムの効果として生じる仮象として処理されます。そして我々の日常的なコミュニケーションやテクスト読解もまた、こうした郵便=誤配システムによって駆動されているといえるでしょう。
こうしてみると真に脱構築的なコミュニケーションやテクスト読解とは「いわゆる脱構築」からイメージされるダブル・バインドの暴露による最終審級の無効化に止まることなく、その先にある「ありえたかも知れない」という「幽霊の審級」とでもいうべきものの出現を目指す営為ということになるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 23:47
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