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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2021年11月26日
欲望の弁証法とデータベース的動物
* エディプス・コンプレックスと前エディプス期
時は20世紀初頭、精神分析の始祖であるジークムント・フロイトは当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中、患者の心的現実を基礎付ける内因的な欲動の存在を想定し、独自の欲動発達論を主張しました。
フロイトによれば、幼児のリビドーは身体の各粘膜部位に性感帯を持つ自体愛的な部分欲動として生後間もなく生じ「口唇期(1歳頃まで)」「肛門期(2〜3歳頃)」「男根期(4〜5歳頃)」という一定の発達段階プログラムを経由して、やがて「部分対象(身体部位)」から「全体対象(他者)」へ向けられることになります。
この点、男根期に入ると幼児は性の区別に目覚め、異性の親に愛着を持つ一方で、同性の親に対する憎悪を抱くとフロイトは考えました。このような幼児の抱く心的観念の複合体をフロイトはギリシア悲劇に倣い「エディプス・コンプレックス」と命名しました。フロイトはこの「エディプス・コンプレックス」の解消のされ方がセクシュアリティの確立や超自我の形成、そして神経症的葛藤の成立における重大な要因となると述べています。
そして、この一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのがフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。1950年代においてラカンはエディプス・コンプレックスを〈父の名〉という超越論的なシニフィアンの導入として捉え、精神病の構造的条件を「〈父の名〉の排除」へ求めました。
ところが当時、英米の精神分析臨床において多大な影響力を持っていた対象関係論の始祖、メラニー・クラインはフロイトのいう「エディプス・コンプレックス」という父子関係よりもむしろ「前エディプス期」と呼ばれるゼロ歳児の母子関係を重視していました。では、ラカンはクラインのいう「前エディプス期」をどのように捉えたのでしょうか?
* 妄想分裂ポジションと抑うつポジション
この点、クラインは「前エディプス期」についての集大成的論文「幼児の情緒生活ついての二、三の理論的結論(1952)」において、ゼロ歳児の心性としての前エディプス期を「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」の二つに分けています。
まず、生後3〜4ヶ月の幼児の主な関心は母親の乳房という「部分対象」に向けられています(註)。ここで幼児は「乳房=部分対象」による欲求充足と欲求不満を繰り返し体験しています。この繰り返しの体験によって、幼児の心的生活に「良い乳房」と「悪い乳房」の区別が導入されることになります。
(註:ここでいう「母親の乳房」とは実母における授乳行為に限らず、養育者による栄養補給措置全般を指しています。)
すなわち、一方の「良い乳房」とは、幼児の欲求を充足させてくれるというポジティヴな価値を持つ愛すべき対象です。そして、他方の「悪い乳房」とは、幼児の欲求を不満足に陥らせるネガティヴな価値を持つ憎むべき対象となります。こうして幼児は「悪い乳房」に絶滅的不安ないし迫害的不安を感じてしまうようになります。結果、幼児は「悪い乳房」を噛み砕き食い尽くしてしまおうとする空想を懐きます。これが「妄想分裂ポジション」です。
けれども、やがて生後4〜6ヶ月頃になると幼児は、これまで噛み砕き食い尽くそうとしてきた「悪い乳房」が実は「良い乳房」と同じく、母親という「全体対象」の一部であることに気づきます。そこで幼児の中に「母親=全体対象」を傷つけてしまったという罪悪感や抑うつ的不安が生じることになります。これが「抑うつポジション」です。
このようにクラインの考えによれば「妄想分裂ポジション」における幼児の「乳房=部分対象」に対する「良い/悪い」「愛情/憎悪」といった二項対立は「抑うつポジション」において「母親=全体対象」の上に統合されることになります。
* 現実的対象と象徴的対象
これに対してラカンは、セミネール4巻「対象関係(1956〜1957)」において、クラインのいう部分対象と全体対象の区別を「象徴界(イメージ)」「想像界(言語)」「現実界(物それ自体)」という独自の枠組みから再解釈します。
クラインの考えでは、妄想分裂ポジションにおける部分対象(乳房)は後に抑うつポジションにおける全体対象(母親)へと統合されることになります。ところがラカンはそのような統合を認めません。なぜなら、乳房と母親は異なる水準にあり、前者が後者に統合されることはありえないからです。どういうことでしょうか?
まず、幼児は「乳房」という「部分対象」と関わりを持っています。この乳房はクラインのいうような快を提供してくれる「良い乳房」と、快を提供してくれない「悪い乳房」に分裂した別々の存在として「現実的な水準」で幼児の前に現れています。
ところが、この時点で幼児はすでに「母親」という「全体対象」とも関わりを持っているとラカンは主張します。この母親は、幼児の知らない何らかの規則=法に従って現前/不在を繰り返す「象徴的な水準」で幼児の前に現れています。
このような見地から、ラカンは子供は「乳房=現実的対象(部分対象)」と「母=象徴的対象(全体対象)」と同時に関係を持っていると考えます。つまりクラインが部分対象と全体対象を前者から後者への統合関係として捉えているのに対して、ラカンは両者を併存関係として捉えていたということです。
そして、ラカンは、このような乳房と母をめぐる状況を「フリュストラシオン」と呼び、これを「象徴的母を動作主とする現実的対象の想像的損失」と定義しています。ここでの「象徴的母」とは始原的な〈他者〉であり〈父の名〉の母胎となる前駆的概念になります。すなわち、ラカンはクラインが母子の二者関係で捉えた前エディプス期にも、エディプス的三者関係がすでに導入されていると考えています。端的に言えばラカンはクラインほどに前エディプス期の優位性を認めていないという事です。
* 欲求の要求と愛の要求
このようにフリュストラシオンにおける「乳房=現実的対象(部分対象)」と「母=象徴的対象(全体対象)」は、それぞれ異なる水準にあります。そしてラカンはこの二つの水準のズレ=裂け目こそが、人間の欲望を構成する原理となると考えました。
ラカンは、フリュストラシオンにおける母子関係は弁証法的であると指摘しています。そして、この弁証法は「欲求」「要求」「欲望」から成り立っているといいます。
まず幼児は生存維持のため現実的乳房に対して生物学的な「欲求」を向けます。そして現実的乳房を得るために子供は象徴的母に対して自分の前に現前するように何かしらの言語表象、すなわちシニフィアンを通じて「要求」する事になります。
ここで「要求」は、現実的乳房に向けた「欲求の要求(要求1)」であると同時に象徴的母に向けた「愛の要求(要求2)」でもあります。そしてラカンは「欲求の要求(要求1)」の特殊性は「愛の要求(要求2)」の無条件性へと変換されることで揚棄(=消去)されるといいます。
こうした「欲求」と「要求」のあいだの「うまくいかなさ」から「欲求の要求(要求1)」と「愛の要求(要求2)」のあいだには一つの「裂け目=謎」が生じることになります。そしてこの「裂け目=謎」を原因として現れる領野こそが「欲望」です。すなわちラカンによれば欲望とは「愛の要求(要求2)」から「欲求の要求(要求1)」を引き算する事で生じる差異として構成される事になります。
* 欲望の弁証法とラカンの禁欲原則
以上のように、欲望とは「欲求」「要求」「欲望」の三段階を介して発生します。ラカンはこのようなフリュストラシオンにおける弁証法的展開を「欲望の弁証法」と呼びます。そしてそれは単なる思弁ではなく、ラカンにとっては精神分析臨床において欠かすことのできない治療指針でもあります。
そもそも、フロイトが精神分析の臨床において常に問題にしてきたのが「欲望」でした。彼は分析主体が異性の分析家へ擬似的な恋愛感情を抱く「転移性恋愛」と呼ばれる状況を、分析主体の抵抗を強め分析を停滞させるものとして警戒していました。それゆえフロイトは分析治療では「禁欲」を原則としなければならないと述べます。これが有名なフロイトの「禁欲原則」です。
このフロイトのいう「禁欲原則」とは、分析家は分析主体と恋愛関係に陥ってはいけないという当たり前の注意であると同時に、分析家は分析主体の愛の要求を満足させないことで分析主体の欲望を惹起するための技法でもありました。
そしてラカンもまた、その臨床実践において「欲望」を重視しました。精神分析を求めて分析家のもとにやってくる人々は「自分を治してほしい」「自分自身を知りたい」「精神分析を教えて欲しい」「自分を分析家として認めてほしい」などといった様々な要求を携えています。けれどもこれらの要求はいずれにせよ結局のところは「何でもいいからわたしを認めてほしい」といった愛の要求に変換され、その特殊性は無条件性へと揚棄(=消去)されることになります。
そこで分析家には「要求を要求として承認しない」という態度が求められるとラカンはいいます。すなわち、分析家は分析主体の要求を言葉通りに承認する事なく、むしろこれを「フリュストラシオン=欲求不満」へ導くことによって「欲求の要求(要求1)」と「愛の要求(要求2)」とのあいだに生じる欲望の領野を活性化させ「主体のフリュストラシオンが留められているシニフィアンの再出現(E618)」を目指します。こうした事からラカンの考える精神分析的な解釈とは、分析主体の症状や人生に何かしらの意味を与える「説明」ではなく、むしろ衝撃的な動揺を伴う「神託」のようなものになります。
主体の欲望を開き根源へ至るということ。こうした境域を目指すラカンの技法を、精神病理学者の松本卓也氏は「ラカンの禁欲原則」と名付けています。
* データベース的動物
ところで、我々の生きる現代とはある意味でラカンのいう「フリュストラシオン」が機能不全に陥った時代ともいえます。
例えば、現代を代表する批評家の一人である東浩紀氏はその代表作と目される「動物化するポストモダン(2001)」において漫画・アニメ・ゲームなどのサブカルチャーの愛好者、一般的にはいわゆる「オタク」と呼ばれる消費者の消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行している実態を指摘し、氏はここにポストモダンの一般的傾向を見出します。
すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて大きな物語にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンにおいてはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに「大きな非物語=データベース」から無数の「小さな物語=シュミラークル」が生産される「データベース型世界」であるということです。
そして、ここではシュミラークルの水準で生じるドラマへの動物的欲求とデータベースの水準で生じるシステムへの人間的欲望という二つが解離的に共存することになります。こうして東氏は現代社会の人間像を、個人の生の意味づける「大きな物語」への「欲望」より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」と名付け、1995年以降の時代を「動物の時代」として捉えます。
こうした東氏のいう「データベース的動物」とは上記のラカンの議論に照らせば「欲求の要求(要求1)」で充足してしまっている状態にあるといえます。では、こうした時代状況において我々は、松本氏のいうような「ラカンの禁欲原則」に相当するような処方箋を見出すことができるのでしょうか?
* 欲望を開くということ
この点、東氏は「動物化するポストモダン」の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」所収の論考において「AIR」というPCノベルゲームに注目しています。
このAIRというゲームはプレイヤーを二重の意味で疎外する作品です。まずその第一部において物語の主人公(=プレイヤー)である国崎往人はヒロインである神尾観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになります(父の不在)。さらにその第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するだけです。ここでプレイヤーはキャラクターレベルのみならずプレイヤーレベルにおいて「AIR」というゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
こうした二重疎外を経由することでAIRはいわゆる「美少女ゲーム」における「父=プレイヤー」の「全能性」と表裏の関係にある「不能性」を告発します。そういった意味から東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」として位置付けています。
フリュストラシオンにおける「欲求の要求(要求1)」と「愛の要求(要求2)」はAIRにおける「キャラクターレベル」と「プレイヤーレベル」に相当します。こうした意味でAIRという作品を規定する構造は先に述べた「ラカンの禁欲原則」と同様の構造から成り立っているといえます。
同作が美少女ゲームという枠組みを超えてゼロ年代サブカルチャーを象徴する作品の一つとして今もなお高く評価される理由の一つには、同作が美少女ゲームにおけるプレイヤーの「要求」の外部にある「欲望」を開いた点にあるように思えます。
そして情報環境の進展ないし肥大化により、更なる「動物化」が加速する現代においては、サブカルチャーに限らず文化全般の領域で、このような意味での「欲望」を開くための想像力が今ますます必要とされているのではないでしょうか。
posted by かがみ at 00:11
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