【参考リンク】

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年08月26日

精神分析にとって〈少女〉とは何か



* 女児におけるエディプス・コンプレックス

精神分析の始祖、ジークムント・フロイトは19世紀末のヨーロッパで流行した謎の奇病ヒステリーの臨床において試行錯誤を繰り返す中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めます。そして、フロイトは自らの「自己分析」を通じて幼児期の性生活の中核には「エディプス・コンプレックス」いう心的葛藤があることを発見しました。

「エディプス・コンプレックス」とは異性の親への愛情と同性の親への憎悪からなる無意識的欲望の複合体をいいます。この点、フロイトは当初、男女においてエディプスコンプレックスは単純な対称性を持つと考えていました。つまり、男児の場合は母への愛情と父への憎悪が、女児の場合は父への愛情と母への憎悪が、それぞれ幼児期の性生活の中核を占めることになります。

だが、いずれにせよエディプス・コンプレックスはやがて抑圧される運命にあります。これを可能とする別の心的葛藤をフロイトは「去勢コンプレックス」と名付けます。つまり母親の身体にペニスがないことを知った幼児は自分のペニスを失う恐怖から母親への愛情を断念して父親への同一化を目指すようになる。このペニスを失う恐怖をフロイトは「去勢不安」と呼びます。

確かに男児に関してならこの説明は一応合理的といえるでしょう。しかし言うまでもなく、女児の場合にはこの説明はまったく整合性を持ちません。女児においては「去勢」はいわば最初に見出され、男児のようにそれを怖れる理由がないからです。では女児においては、どのような過程を経てエディプス・コンプレックスが構成されることになるのでしょうか?


* ペニス羨望と去勢の岩盤

フロイトはようやく1920年代になってこの疑念への暫定解を提示することになります。しかしここでも答えはやはり「去勢」のうちにありました。

フロイトの説明はこうです。女児は自身におけるペニスの不在を知ると自身がひどく「損なわれている」と感じ、男児と同じようなペニスを持つことを熱望するようになる。同時に自らと同様に「損なわれている」存在である母親に幻滅し、父親なら自分にペニス(の代わりの子ども)をくれるかもしれないと、これまで母親に向けていた愛情をまるごと父親の方へ振り向ける。このように父親に転移された欲望こそがやがて女性を「正常な」異性愛へと導いていくだろう云々。

つまり、女児の場合は男児とは逆に「去勢コンプレックス」を出発点として「エディプス・コンプレックス」へと発展していくというのがフロイトの到達した結論です。ここでの女児のペニスへの執着をフロイトは「ペニス羨望」と呼びます。

このようにフロイトは男女のセクシュアリティを「去勢」という同一の基盤の上で考えました。男児は「去勢」を恐れて父親に阿り、女児は既に「去勢」されているがゆえに父親を憧憬する、というわけです。そしてフロイトはまさしくこの「去勢の岩盤」に精神分析の限界をみたのでした。


* アーネスト・ジョーンズのひそかな離反

このようなフロイトの置き残した「宿題」に触発される形で、1920年代から1930年代にかけての精神分析界においては女性のセクシュアリティに関する論争が盛んになります。

この点、フロイトの最側近であり英国精神分析の基礎を築いたアーネスト・ジョーンズはフロイト理論の忠実な守護者を自認しつつも、当時気鋭の女性分析家として頭角を表していたカレン・ホーナイやメラニー・クラインの影響の下で、女児の性的発達に関してフロイト説の実質的な修正を試みる議論を展開しました。

周知の通りフロイトは幼児の性的発達は、口唇期、肛門期、男根期の順に形成されると仮定しました。通常、3歳〜5歳頃と想定される男根期はエディプス・コンプレックスが絶頂に達する時期となります。フロイトはこの時期において男児も女児も共に、その性的関心を方向付けるのは、ペニス(および女児におけるその解剖学的対応物であるクリトリス)というただひとつの性器のみであり、そこではまだ女性性器(膣)が発見されていないことを強調していました。

これに対してジョーンズは1926年の論文「女性のセクシュアリティの早期発達」で「去勢」を相対化する方向へと向かい、あらゆる神経症のベースにある根源的恐怖として性的享楽そのものの喪失を意味する「アファニシス」の概念を導入し、1932年の論文「男根期」においては、男女ともに男根期以前に既に女性器の存在に関する無意識知があるとするホーナイやクラインの側に立ってフロイト説を退けています。

その上でジョーンズは男根期を2つに分割してフロイト説との中和を図りつつ、女児においては母親から自らの女性器を破壊されるかもしれないという根源的恐怖があり、ペニス羨望とは畢竟、この恐るべき結末を回避するための二次的な防衛にほかならないと主張します(こうしたジョーンズの主張は複数の女性同性愛のケースを分析した彼自身の臨床経験に基づいているようです)。つまりここでは去勢不安とペニス羨望はエディプス・コンプレックスからの撤退として一元的に把握されることになります。

フロイトの理論では女児の場合、エディプス・コンプレックスがなぜ始まりいつ終わるのかが今ひとつ明確ではありませんでした。こうしたことから、フロイトは真のエディプス・コンプレックスは男児にのみ生じるという立場を終始とっていました。これに対してジョーンズの立場からは女児においても男児とほぼ同様のエディプス・コンプレックスのメカニズムが作動している事になります。

これをもってジョーンズは「王よりも王党主義的(フロイト本人よりもフロイト主義的)」であることを余儀なくされるなどと嘯いていましたが、実質的に見ればジョーンズの主張はフロイト説からの離反以外の何者でもないでしょう。


* 少女=ファルス

そんな中で、女性のセクシュアリティ論争において全く新しい機軸を打ち出したのが当時の精神分析教育のメッカであったBPI出身の俊英、オットー・フェニフェルです。

フェニヒェルは1936年に発表した論文、その名も「象徴的等式:少女=ファルス」において自身が分析した女装患者のケースを取り上げ、彼の少女願望が自身のペニスへのナルシシズム的愛情と分かち難く結びついていることを指摘して、フロイト以来の象徴的等式である「ペニス=子ども」は時として「ペニス=少女」という形を取ることがあると主張します。

実際、フェニヒェルによれば、少女たちが無意識において自らをペニスに同一視する事実はしばし観察されるといいます。フェニヒェルはこれを「根源的な自己愛的ペニス羨望を克服する方法」の一つと位置付けます。

ここでいう「ペニス羨望」とは、ジョーンズ的な意味ではなく、元々のフロイト的な意味で用いられています。もっとも、ここでフェニヒェルは、ペニス羨望を「父からペニス(の代わりの子ども)を貰う願望」から「父のペニスに『なる』という願望」に置き換えています。

ここで彼が引き合いに出すのは、覗き症の傾向を持つ一人の女性患者のケースです。この患者は2度にわたり「ペニスの代わりに子どもを腹からぶら下げた男(たち)」の夢を見ています。ここには「子ども=ペニス」に同一化するある種の「父体空想」を見出すことができます。

この空想において、少女はペニスのように父の身体にぶら下がります。言い換えれば彼女は父と分かち難く結びつき、父の身体の部分になっています。この部分はあくまでも全体の一部に過ぎませんが、しかし、なくてはならない一部であり、その最も重要な部分に他なりません。

ここに見出されるのは、古来の伝説や御伽噺にお馴染みの、偉大な英雄の危機を救う少女というモチーフです。「彼」は強いけど、私がいないと何もできないのだから−−まさにこの少女の「全能空想」のうちにフェニヒェルはペニス羨望の克服の試みを認めます。

ここからフェニヒェルはペニスの発見により脅かされた少女の幼児的全能はペニスの象徴的等価物たる「ファルス」への同一化によって回復されるという結論を取り出してきます。


* 構造としてのエディプス・コンプレックス

このような1920〜30年代の議論を総括し、1950年代に構造主義の立場からエディプス・コンプレックスを再解釈したのがフランスの精神分析家、ジャック・ラカンです。

ラカンは、形式的にはフロイトの顔を立てつつ、実質的にはむしろホーナイやクラインの説に立つジョーンズの二枚舌を「弁証法的スケーティング」などと揶揄する一方で、フェニヒェルが打ち出した等式「少女=ファルス」への評価は常に肯定的です。

まず前提としてラカンは解剖学的存在としてのペニスと言語的存在であるファルスを厳密に区別します。ラカンはエディプス・コンプレックスを徹頭徹尾「ファルス」という特権的なシニフィアンを軸としたセクシュアリティの構造化の運動として捉えます。

ここでファルスはまず母親(養育者)の現前不在運動の超越論的シニフィエとしての場に現れます。これを「想像的ファルス」といいます。子どもはまずこの想像的ファルスへの同一化を試みます。この点、フェニヒェルが見出した等式「少女=ファルス」という無意識の幻想は、このような子どもの「(母親の)ファルスである」に根ざしているとラカンは述べています。

けれども当然母親(養育者)の現前不在は止まらないので、その同一化は失敗に終わります。そこで子どもそこにひとつの欠如を発見し、これが超越論的シニフィアンの場としてのファルスを構成します。これを「象徴的ファルス」といいます。男女のセクシュアリティはこの「象徴的ファルス」への態度の相違に起因します。

この点、ラカンにおいて「欲望」とは「要求」の間で弁証法的に生じてくるものであり、この二つの水準が男女のセクシュアリティにおける非対称性を生み出すことになります。すなわち、まず男女ともに「欲望の水準」においては「ファルスをもつ」というポジションを取ることになります。

ところが「要求の水準」においては「ファルスである」というポジションが女性のセクシュアリティを構成します。ここでは「少女=ファルス」というポジションが無意識へ一旦抑圧された上で回帰していることになります。そしてラカンはこうした意味での「ファルス」がレヴィ=ストロースのいう親族の基本構造を安定させる装置として長らく機能してきたといいます。

ここでラカンはいわば〈少女〉に導かれる形でセクシュアリティの問題を解剖学的性差から決定的に切り離す事に成功しています。そしてその後、ラカンは言語と享楽(欲動満足)の絡み合いを考えていく中で、女性のセクシュアリティが持つ特異的な享楽を発見し、ここにフロイトのいう「去勢の岩盤」を乗り越える可能性を見出すことになります。

昨今においては、ますます「男らしさ」「女らしさ」などといったセクシュアリティの問題は「生きづらさ」に直結する問題となりました。こうした中、セクシュアリティの問題を解剖学的性差から切り離し、言語と享楽の問題として考えようとするラカンの理論は既存の「男らしさ」「女らしさ」に囚われることなく、我々がそれぞれ自らの特異的なセクシュアリティを生きる上でのひとつの道標を照らし出していると言えるのではないでしょうか。


















posted by かがみ at 22:47 | 心理療法