* 象徴的秩序における「時間」
我々は普通「時間」というものを「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものだと考えています。そして、こうした連続的に発展していく線状の「時間」の上に、我々は「記憶」を形成し「自己(物語的自己)」を規定しています。
もっとも、この「過去→現在→未来」という「時間」とは、あくまで人の象徴的秩序に属するものです。すなわち、我々の生きる「時間」とは自然発生的なものではなく、ある種の象徴的決定を経ることにより初めて生じるものであるということです。
*「記憶」の形成
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「盗まれた手紙のセミネール」において「Fort/Da」で有名な「エルンスト坊やの糸巻き遊び」を例に象徴的決定のシステムの組成を論じています。
すなわち、全くの偶然の連鎖にすぎない糸巻きの現前(+)/不在(−)は、コード化されることで、連鎖を支配する秩序が帰結される事になりますが、そこで同時に連鎖の不可能性が生じる事にもなる。
もっとも、ラカンによれば、まさにこの連鎖から常に抜け落ちる不可能な一点により我々は「記憶」が可能になるということです。
* 想像的縮約と象徴的共存
そして、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは「差異と反復」において、上のラカンの議論を下敷きにした時間論を展開します。
ここでドゥルーズは「時間」をある種の保存能力として捉えます。この保存能力は想像的縮約と象徴的共存の二段階があります。
まず、ある瞬間が次の瞬間には保持されていない不連続的瞬間が次々と継起する非時間的位相のカオス状態から、直近と直後の瞬間を「いま、ここ」という「現在」へ構成するのが想像的縮約です。これはドゥルーズの「反復」においては「裸の反復」に対する「着衣の反復」の行使として位置づけられます。
もっとも、想像的縮約は、あくまで直近の瞬間と直後の瞬間のみを暫定的な「現在」として留めることができるに過ぎない。そこで、不連続的瞬間を個別要素として縮約した「現在」それ自体を、さらに個別要素としてその中に含み保存する大域的な時間形式である「過去」を構成するのが象徴的共存です。
* タイムスリップ現象
こうした想像的縮約と象徴的共存という二段階の保存を経たものが、多くの人にとっての「時間」という事になります。けれども、その一方でこうした「時間」とはまったく別の「時間」が存在します。この別の「時間」の位相を端的な形で示すのが自閉症におけるタイムスリップ現象です。
タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前(つまりは、ラカンのいう象徴的決定のシステムの組成以前)まで遡ることがあります。
こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。すなわち、自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での「自己(物語的自己)」は成立していないことになります。
* 点状に散在する「記憶」
すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。
定型発達者の「記憶」とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の「記憶」は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての「記憶」である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。
自閉症者はこうした点状に散在する「記憶」を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの「記憶」をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。
けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。
*「能力/技法」としての自閉的行動
このタイムスリップ現象はドゥルーズの時間論を裏側から説明しているようです。すなわち、自閉症者は大域的な時間形式としての「過去」に支えられていない暫定的なまとまりである「現在」の連続としての「時間」を生きているということです。
これはまさに底沼なしのカオスと紙一重の綱渡りに他ならない。けれども、このことは同時に自閉症者が持つ特異的な「能力/技法」の存在を示唆しています。
例えばDSM-Xは自閉症スペクトラム障害の診断基準の一つとして「限定的で反復的な行動、関心、活動」をあげています。これは具体的には⑴常同的で反復的な行動⑵同一性保持、ルーティーンへの固執、儀式化された行動、⑶きわめて限局的で固定された関心、⑷感覚的入力や環境の特定の側面に対する鋭敏と鈍感、などを言います。
こうした常同的で反復的な行動がなぜ自閉症の特徴とされるのか?それは自閉症者の生きる「時間」と密接に関わっているからです。すなわち、自閉症における常同的で反復的な行動は「症状」というよりは、むしろ象徴的共存なきところでの想像的縮約により「裸の反復」に対する「着衣の反復」を生み出す「能力/技法」であるということです。
* リトルネロ
そして後に、ドゥルーズは後にこうした「裸の反復」に対する「着衣の反復」をより肯定的な概念へと洗練させます。すなわち、それがフェリックス・ガタリとの共著「千のプラトー」において提出された「リトルネロ」です。
暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌を頼りにして、どうにか先に進んでいく。
歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものである。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を早めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。
歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。
(千のプラトーより)
リトルネロ。同じ節や文句の反復。それは絶えず生成流転するカオスを相対的に減速させる暫定的な秩序を設立する営みに他ならない。もちろん、それはあくまで暫定的なものであり、ひとたび紡ぎあげたリトルネロも、いつまたバラバラになるかわからない。
こうしてリトルネロは、まさに子どもが暗闇の中で歌を口ずさむことで、おぼつかないながらも歩き出したり足を止めたりするように、途切れ途切れに展開していきます。それはある種の環境調整でもあると同時に、世界を「有限化」する技法でもあります。
* 世界に「住み処」を見出すということ
周知の通り「千のプラトー」の枢要概念となるのは「リゾーム」です。確かに近代秩序という「ツリー」が曲がりなりにも機能していた当時において、そのオルタナティブとしての「リゾーム」は、ある種の「華麗なる逃走」としての輝きを放っていました。
けれども、近代秩序という「ツリー」が完全に解体され、全世界がグローバル化/ネットワーク化という「リゾーム」に覆われた現代においては、むしろ接続過剰な世界の中に自分なりの「住み処」を見いだす「リトルネロ」の方に我々は賭け金を置くべきなのでしょう。
そういった意味で、現代における哲学/精神分析が切り開くべきフロンティアは、まさしく自閉症者の懸命な日常実践の中にこそ見出されるのではないでしょうか。