* はじめに
「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医、オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり、現実からの遊離が生じることを指しています。
それからおよそ30年後の1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数でした。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い、1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり、統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。
その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されます。
ウィングは成人の症例にもアスペルガー論文の症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群をアスペルガー症候群と名付けます。アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があります。
ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されます(ウィングの三つ組)。こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において、カナー型自閉症とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。その診断基準は概ね以下の通りです。
以下のA、B、C、Dを満たしていること。
A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)
1 社会的・情緒的な相互関係の障害。
2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。
B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)
1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。
C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。
D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。
その他、知的障害やその他の発達の遅れではうまく説明できないことが確認された時、当該疾患は自閉スペクトラム障害と診断されることになります。端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」「独自のルール・こだわりに執着する」といった特性をいいます。
もっとも自閉症における様々な臨床例は、こうしたDSMの操作的診断基準だけで捉えきれるものではありません。以下では、今日の精神病理学からみた自閉症の世界をいくつか素描してみようと思います。
* 同一性保持
いわゆる「症例ドナルド」は1943年にカナーが発表した自閉症における世界初の症例報告です。本症例の患者、ドナルドは驚くべきことに1歳の時点で多くの詩歌を暗唱することができて、2歳前には23番の讃美歌と長老派の25もの教義問答の質問と答えを覚えたそうです。
ところが彼は様々な言葉を覚えることは得意だけれども、これらをを分節化して臨機応変に組み変えて使うことができなかった。定型発達者の場合、おおよそ1歳で一語文を獲得して、2歳で二語文を獲得します。つまり定型発達における2歳児は「ママ、いた」「ぼく、ごはん」などのように、2つの言葉を組み合わせて使えるということです。これに対してドナルドは、最初の一語文しか使えない状態のままで様々な言葉を覚えてしまったわけです。
例えばドナルドは母親の「あなたの靴を引っ張って」というひとかたまりの言葉と「靴を脱ぐ」という行動を1対1で結びつけています。ドナルドにとって「あなたの靴を引っ張って」という母親の言葉は「あなた/の/靴/を/引っ張って」というふうにいくつかの単語が分節化されたものではなく、むしろ「開けゴマ!」のような「靴を脱ぐための呪文」として扱われています。ゆえにドナルドは「あなたの靴を引っ張って」という呪文を、後日、自分が靴を脱ぎたくなったときにもそのまま反復的に使用するようになります。
彼は最初に覚えた言葉を、まるでテープを再生するかのように同じ形で、つまりは臨機応変に組み変えることなく、最初に覚えた時のままの状態で繰り返しています。このような特徴をカナーは「同一性保持」と表現します。
* タイムスリップ現象
カナー型の自閉症例においては、しばし「此性」の充溢というべき事態が出現することがあります。その一つがタイムスリップ現象です。タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前まで遡ることがあります。
こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。普通、我々にとって時間とは「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものであり、記憶もまた過去のことが現在に至るまで連続的に発展してきたものとして与えられており、未来もまた現在から連続的に発展するものだと漠然と考えられます。そしてそのような線状の時間の上に、自分が何者であるかをある種の「物語」として規定する自己(物語的自己同一性)が成立します。
これに対して自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での自己(物語的自己同一性)は成立していないことになります。
すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。
定型発達者の記憶とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の記憶は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての記憶である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。
自閉症者はこうした点状に散在する記憶を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの記憶をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。
* 此性の不在
その一方で、アスペルガー症候群においては逆に「此性」の不在というべき事態が出現します。これは具体的には人の顔や名前を覚えるのが苦手という事象として現れます。
定型発達者の場合、顔を一つのゲシュタルト(まとまり)として認識しています。ところがアスペルガー症候群の症例においては、他人の顔を一つのまとまりとして認識できないケースが見られます。その場合、人物の特定は、目や鼻や髪型など顔の構成要素、身体的特徴、あるいは出会う場所と時間など様々な情報の組み合わせによって行われます。従って、この組み合わせが少しでも変わってしまうと人物の特定がたちどころに困難になるわけです。
この点「此性」の機能は固有名をめぐる記述主義と反記述主義の対立から理解できます。記述主義の立場では固有名は確定記述(=その固有名を定義する属性や説明)の束に還元できるとされます。例えば「アリストテレス」という固有名は「古代ギリシアの哲学者」「アレクサンダー大王の師」といった一連の確定記述の束に還元されます。他方で反記述主義の立場からは、固有名は確定記述の束には還元できず、むしろ確定記述に還元しようのない「あのアリストテレス」「このアリストテレス」という「此性」こそが固有名を支えているとされます。
つまりカナー型自閉症に見られる「此性」の充溢は「固有名」を「此性」が支える反記述主義の立場から、アスペルガー症候群に見られる「此性」の不在とは「固有名」を「此性」が支えることなく確定記述の束に還元する記述主義の立場から、それぞれ並行的に理解できるということです。この二つのケースはまさしく両極端に見えますが、自閉症者の中ではしばしばこれらの特徴が矛盾なく同居することがあります。
* 志向性遮断とブラックホール体験
先述したドナルドは他者にまるで興味がなく、人見知りもせず、その一方でフライパン回しなど一人遊びを好み、それを他者に妨げられるとかんしゃくを起こすことがあったそうです。こうしたドナルドの振る舞いは他者から自分に向けられた「志向性」を遮断しているように見えます。
ここでいう「志向性」とは他者からの「まなざし」や「声」という形で自分の側に向けられたベクトルのことを言います。他者と自然と目を合わせたり、呼びかけに応じたり、他者の存在を前提にした振る舞いなどは志向性に気づくことで生じる間主観的な行動ということです。
他者からの「まなざし」や「声」を遮断することで自閉症者は自分だけの他者性のない安定した世界を作り上げようとします。そしてこの志向性遮断が破れ世界に他者性が侵入してくる時、自閉症者の世界は破滅的な状況に陥ってしまい、この混乱をより強い刺激で収めようとして、時には飛び降りやリストカットといった衝動的な自傷行為を起こしてしまうことがあります。
こうした破滅的な状況は「ブラックホール体験」と呼ばれます。この「ブラックホール体験」は自閉症の世界が「欠如の欠如した世界」であることを示しています。自閉症者がパニックに陥るのは他者の「まなざし」や「声」が彼らを触発して、その内的世界の中になんらかの「不在」が現れる時です。この点、定型発達者は不在を「あるべきものがない」という「欠如」として象徴的に処理します。ゆえに定型発達者は「不在」に対してそれほどパニックになることはありません。
ところが自閉症者はこの象徴化が上手くいっていない為「不在」を「欠如」として象徴的に処理することができない。こうして何の「不在」のないはずの「欠如の欠如した世界」の中に突如現れた「不在」はこれまで体験したことのない「現実的な穴=ブラックホール」として現れて根源的不安を引き起こすことになるわけです。
* 閉じることによって開かれるということ
このように見ていくと、自閉症における様々な「症状」は、定型発達者のように「言語」という象徴化の回路とは別の仕方でどうにか世界へ棲まうための営みという側面も持ち合わせているように思えます。
この点、ラカン派精神分析では自閉症を「シニフィアン」と「享楽」の2つの側面から把握します。まず、自閉症をもっぱら「シニフィアン」の側面のみで捉えた時、それはラカン派のタームでいうところの原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病(統合失調症)は同一圏内にあるということになります。こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。
ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの「我、自閉症に生まれて」や、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになりました。そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。
こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。このマルヴァルによる自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。
これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。
−−自閉症だった私へ(24頁)
世界から身を守りつつ世界へ加わろうとすること。閉じることによって開かれるということ。自閉症の世界における様々な事象は「症状」というよりも、むしろ世界に棲まうための「闘い」であり、もはやそれは一つの「技法」と呼ぶべきものでしょう。そしてこうした「自閉的技法」はエディプス的幻想が失墜した「ポスト・神経症時代」における現代的主体のパラダイムを照らし出しているように思えます。