【参考リンク】

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年03月27日

形而上学・否定神学・郵便空間



* 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉があります。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスですが、ソクラテス自身は何も書き残さなかった人ですので、ソクラテスの言葉を書き留めたプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったともいえます。
 
そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれています。形而上学は世界を「内部/外部」という二項対立へ切り分けることで構築されてきました。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他なりません。
 
こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーです。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものでした。
 
けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに当の形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体(デストルクチオーン)」を目指した「反-哲学」と呼べるものです。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築(デコンストリュクシオン)」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダです。
 

*「いわゆる脱構築」と「もう一つの脱構築」

「脱構築」とは既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。このような「脱構築」を武器に、1960年代におけるデリダは様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていきます(「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」)。ところが1970年代になるとデリダは何を思ったのか、これまでの明晰な文体を放棄して、何が言いたいのかよく分からない奇妙なテクストばかり書くようになります(「弔鐘」「絵葉書」)。

70年代におけるデリダのテクスト群は謎の実験文学として、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。こうした中で「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いに徹底してこだわり、ここからデリダの「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」を取り出すことに成功したのが東浩紀氏のデビュー作「存在論的、郵便的」です。

同書はかつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏の激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の若き俊英として脚光を浴びることになりました。では、ここで示された「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」とは一体何なのでしょうか?


*〈かもしれない〉という幽霊

ある具体的なシステム/テクストの「こうである/そうでなかった」という解釈の背後には「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という「可能性の束」が無数にひしめいています。こうした「可能性の束」をデリダは「幽霊」と呼びます。

「幽霊」とは反復可能性がもたらす「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という変異のことであり、同時に事実としては「こうである/そうでなかった」という唯一性でもあります。所詮「幽霊」は「幽霊」でしかない。けれどこうした〈かもしれない〉という「幽霊」の声に真摯に耳を傾けようとした結果が、まさに70年代におけるデリダの変化でもあります。これがデリダの「郵便空間」です。


* 手紙は宛先に届かないかもしれない

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出します。

「言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)」

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないかもしれない」というテーゼを提出します。どういうことでしょうか?


* 形而上学・否定神学・郵便空間

この点、東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になります。すなわち、それは「形而上学的システム」への批判と「否定神学的システム」への批判ということです。

まず形而上学的システムにおいて、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には超越論的シニフィエによって担保されます。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別される。この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。こうした形而上学的システムの例としてルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義やエトムント・フッサールの超越論的現象学があげられます。

これに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガーの存在論であり、これをより洗練させたのがラカン派精神分析ということになります。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれます。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまいます。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムです。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということです。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しています。


* 存在論的、郵便的

こうしたことから東氏はデリダの脱構築を二つに分けます。すなわち、まず「差延」などに代表される「いわゆる脱構築」をハイデガー由来の否定神学システムからなる「(論理的-)存在論的脱構築」として名指した上で、ここから逃れる「もう一つの脱構築」の可能性としてフロイト由来の「(精神分析的-)郵便的脱構築」を提示することになります。

この点、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通します。もっとも存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここで用いられるのは精神分析における転移のメカニズムです。いわば哲学素の転移化です。

郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じます。
 

* シニフィアンとエクリチュールの二重性

すなわち、ハイデガーとデリダの世界(Da)の相違は以下のようなものです。ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いている。ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させるクラインの管を経由して超越的審級から「存在の声」が降り注ぎます。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものが無意識という「郵便空間」を経由して「幽霊の声」として再来する。こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の可能性をあらゆるレベルのコミュニケーションに見出すのが「存在論的、郵便的」の理論的核心となります。


* 「大きな物語」の失墜と郵便的不安

「存在論的、郵便的」は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いから出発しました。ではなぜ東氏はデリダの奇妙なテクストを読み解くテクストを書いたのでしょうか?それは畢竟、本書が書かれた当時の日本社会がまさにデリダ的な状況にあったからに他なりません。

1995年以降の日本社会は社会共通の価値観である「大きな物語」が失墜した、いわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況へと突入しました。これはラカン派精神分析でいうところの「象徴界の機能不全」と呼ばれる状況です。そして、こうした状況で生じる感覚を東氏は「郵便的不安」と呼びます。それは「大きな物語」という上位審級なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中で充足する方向性です。

けれども前者が極端化すればこれはカルト宗教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。

そこで必要なのは「コミュニケーションの失敗=誤配」から生じる「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。デビュー以降、東氏の哲学の根底には一貫して、こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」をいかに肯定していくかという問題意識があります。


*「誤配」を歓待するということ

こうした東氏の問題意識は同時にゼロ年代という時代を規定した問題意識でもありました。そして、そのひとつの到達点が「つながり」という名の想像力です。

異なる物語を生きる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼としての「つながり」。それは一見して、異なる物語を生きる他者同士の理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。

もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が閉じたものになるのであれば、それは自ずから「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。

人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在です。けれども物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられる。そうならない為には、物語を内に閉じることなく常に外に開き続ける必要がある。それがまさしく「誤配」を歓待するということです。

「誤配」を歓待するということ。物語の外で手を取り合うことで物語は書き換わる。人は物語に囚われてしまう存在です。けれど同時に人は物語を書き換える事ができる存在でもあります。そしてこの「ある物語」から「別の物語」への跳躍の間にこそ、人の実存的な生の輝きの在り処を見ることができるのではないでしょうか。












posted by かがみ at 23:59 | 心理療法