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2021年01月31日
実存と構造
* 果たして主体は存在するのか
我々は普段、自らを自由意志に基づいた主体として行動しているように思い込んでいます。けれど我々は時として、自由意志を超えた「何者か」によって「行動させられている」ようにも感じる事があります。
果たして自由意志に基づいた主体なるものは本当に存在するのでしょうか?ここで問題になるのが「実存」と「構造」の関係です。
* 実存は本質に先立つ
この点、自由意志に基づいた主体の存在を最大限に肯定したのがジャン=ポール・サルトルに代表される「実存主義」です。サルトルは1945年に行われた「実存主義はヒューマニズムか?」と題する講演において、次のように言います。
いま仮にここに1本のペーパーナイフがあるとする。これがどのようにして作られたのかというと、職人がまず頭の中にこれから作るペーパーナイフの姿を、いわばその「本質」を思い浮かべてから制作に取り掛かったはずである。すなわち物品の場合、その「本質」は「実存」に先立つ事になる。
ところが、人間の場合は全く逆である。もし神が天地の創造者だとすれば、神は一人の職人になぞらえることができる。そうであれば神は人間を創造する前に、自分がこれから作り出す人間の「本質」をあらかじめ知っていなければならない。従って人間の「実存」に先立ち、神の思考のうちに人間の「本質」が存在しなければならない。
けれども、今ここで仮に神の存在を括弧に入れるのであれば、全ての人間に共通した一つの「本質」というものが始めに存在することはあり得ないことになる。したがって人間の場合は物品の場合と異なり「実存は本質に先立つ」と言わねばならない。
* 実存とは何か
実存は本質に先立つ。こうしたサルトルのテーゼは、何か我々を勇気づける素晴らしい力を宿しているような気がします。では一体、ここでいう「実存」とは何なのでしょうか?
ここでサルトルが行ったのは「本質(essence)」と「実存(existence)」の区別です。この点「実存(existence)」の語源はラテン語の「existentia」ですが、中世のスコラ哲学は「SはPである=本質存在(essentia)」と「Sがある=現実存在(existentia)」を区別していました。
従って、この区別を踏まえると「実存(existence)=現実存在(existentia)」ということになりそうです。けれどそうだとすれば「実存が本質に先立つ」のは何も人間に限らず、例えばその辺にいる犬だって「実存が本質に先立つ」ことになってしまいます。
しかし当然のことながら、ここでサルトルがいう「実存」は、そういった「本質存在/現実存在」という伝統的形而上学の枠組みに依拠したものではありません。意味合いとしてはむしろマルティン・ハイデガーのいう「現存在(Dasein)」に近いでしょう。
ハイデガーは「存在」と「存在者」を厳格に区別します。この点、その辺にいる犬は「ある」という「存在」を了解していない「存在者」です。これに対して、我々人間は自らが「ある」という「存在」を朧げながらも了解している「存在者」です。そこでハイデガーは人間を「存在が開示される場/存在の現れの場」としての「現存在」として定義します。
この点、フランス語の「existence」という単語は、もともとはドイツ語の「Existenz」と「Dasein」の両方の意味を含んでいましたが、ハイデガーが「Dasein」にこのような特殊な意味を持たせて以降、フランスでは「Dasein」は「existence」ではなく直訳である「être-l à」が当てられています。
この「現存在(être-l à)」という語を、サルトルはその実質的意味である「人間存在(réalité humanine)」と言い換えています。すなわち、この「人間存在」こそが、ここでいう「実存」に相当するということです。
そして、サルトルによれば人間の「実存」とは一つの企てであるといいます。すなわち、事物が単に「あるもの」で「ある」に対して、人間は、自分が現に「あるもの」で「あらぬ」ように、かつ「あらぬもの」で「ある」ように、自己の外にある彼方へ向かって常に「自己」から「脱出」していく「脱自」的な存在であるという事です。
* 野生の思考
こうした「実存主義」に対して真っ向から鋭い批判を提起したのがクロード・レヴィ=ストロースに代表される「構造主義」です。
レヴィ=ストロースは1949年に公刊された学位論文「親族の基本構造」において従来の人類学において難問とされていた2つの謎を解明しています。その一つは「インセスト・タブー」と呼ばれる、なぜ近親間で婚姻が禁止されるのかという謎です。そしてもう一つはなぜ多くの部族で「平行イトコ婚(母の姉妹の子ども、父の兄弟の子ども)」が禁止され「交叉イトコ婚(母の兄弟の子ども、父の姉妹の子ども)」が奨励されるのかという謎です。
ここでレヴィ=ストロースはロマーン・ヤコブソンの音韻論を手掛かりに理論を構成し、これをブルバキ派の現代数学によって論証したことで、世界中の様々な親族関係を規定する一連の規則的な変換パターン、すなわち「構造」の存在を明らかにしました。
「構造」の発見は、それまで素朴に信じられてきた「進んだ西洋社会」と「遅れた周辺社会」という西洋中心主義的世界観を転倒させることになりました。周辺社会の人々が現代数学でようやく解明できた「構造」に基づく思考によって親族関係を作り上げていた事が明らかになり、もはや知的レベルの優劣で西洋社会と周辺社会を区別する事は適切ではなくなったということです。そしてこうした「構造」に基づく思考をレヴィ=ストロースは「野生の思考」と呼びます。
この点、サルトルによれば主体的決断の「正しさ」はマルクス主義という「現代的な思想」が明らかにした「歴史」の審級によって保証されるとされます。けれどレヴィ=ストロースに言わせれば、その「歴史」の「正しさ」など「構造」という点では周辺社会の部族民の掟と何ら変わらないということです。
* 無意識の主体
では、サルトルのいう「実存」とはレヴィ=ストロースのいう「構造」の前では所詮、まやかしに過ぎないのでしょうか?この点、構造主義の枠組みを前提としつつ、その中で「主体」の占める位置を究明したのがジャック・ラカンです。
ラカンは「無意識はひとつのランガージュのように構造化されている」といいます。もっともここでいう「ランガージュ」とは「ラング(既存の言語体系)」としての「言語」ではなく、既存の言語体系を超えた「シニフィアン連鎖(順列組み合わせ)」による自律的な構造化を行う「言語」です。そしてラカンはこうした自律的な構造化の中に「無意識の主体」を認めます。
「無意識の主体」は、語りの中における言い間違い、言い淀み、情動的な反応などの「裂け目」として現れ、次の瞬間消えていく拍動する点のようなものです。そして精神分析は、こうした「無意識の主体」を鋭く捉えて、解釈を投与することで「構造の変化」を引き起こします。
このように、ラカンの構造主義は「構造の変化」を問題にします。すなわち、ラカンの理論はレヴィ=ストロース的な「構造」を前提としつつも、その外部からサルトル的な「実存」のダイナミズムを再導入していると言えるでしょう。
* 実存が構造を乗り越えるということ
多くの人は普通、かけがえのない自らの生を主体的な「実存」として生きたいと思っているでしょう。けれども実際には「実存」は「構造」に規定されているということです。
しかし「構造」は揺り動かす事はできます。その限りで「実存」は「構造」を乗り越ることができる。少なくとも乗り越えたふりをすることができるでしょう。それはもとより錯覚なのかもしれません。けれど、そんな錯覚の中にこそ、生きているという手ごたえがあるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 20:55
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