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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2020年12月30日

無意識からララングへ



* ポスト・神経症の時代

1952年の初版発行以来、今や精神医学のグローバル・スタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」は、1980年発行の第3版において「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリーから削除しました。ここから「ポスト・神経症」の時代が幕を開けることになります。

ラカン派精神分析の強い影響下にあるフランスにおいても、1990年代後半になると、ラカン派の伝統ともいうべき「神経症」「精神病」「倒錯」という三位一体の構造論を揺るがせる患者群が注目されるようになり、神経症はもはや往時の勢いを失ってしまったことはもはや明らかでした。こうしてラカン派内部で「ポスト・神経症」における新たな主体概念の議論が活性化しました。

この点、ジャック・ラカンの娘婿にしてラカン派の主流「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なるカテゴリーを提唱します。これは、近年、前景化してきた「精神病の軽症化」に対処するための暫定的なカテゴリーです。ミレールは予備面接段階において、幻覚や妄想を伴う古典的な「並外れた精神病」ではないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られる場合は、ひとまず「ふつうの精神病」として、自由連想などの通常分析を控えるべきであると言います。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」のジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢」あるいは「享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。ところが「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴があります。

こうした「消極的否認」の背景には、現代における核家族化や消費化情報化社会の進展があり、このような環境をルブランは「否認共同体」と呼びます。否認共同体の庇護のもと、子どもはいつまでたっても「欠如」に直面することができず「自分は本当はすごいんだ」という幼児的万能感を大人になっても持ち続けることになります。このような「ふつうの倒錯」の主体を「ネオ主体」と言います。


* フロイト的無意識の衰退

また「ヒステリー」の衰退と入れ替わるように顕著になったのが「心身症」の増加です。同じ身体症状でもヒステリーにおける比較的手の込んだ劇的な症状と違い、心身症で顕著なのは、頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気といった、どちらかといえば単純な症状です。

この点、フランスの精神科医、クリストフ・ドゥジュールは「リビドー転覆」の理論によって神経症と心身症を切り分けます。まず、ドゥジュールによれば人は「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体を生きているといいます。「生物学的身体」とは人体を構成する臓器や神経系統の物理的総和としての身体であり、これに対して「エロース的身体」とはセクシュアリティと密接に関連した、あらゆる主観的・心理的経験の舞台となる身体です。

そして、ドゥジュールはフロイトの「寄りかかり理論」という欲動論を参照し「エロース的身体」は「生物学的身体」に寄りかかって発達してくるといいます。すなわちエロース的身体は生物学的身体に寄りかかって発達した後、やがて生物学的身体を乗っ取ってしまうということです。これをドゥジュールは「リビドー的転覆」といいます。こうして「リビドー転覆」によりエロース的身体が生じる。そして神経症とはこのエロース的身体の上で形成される病理ということです。

問題は「リビドー的転覆」のプロセスが何らかの事情で停止し、エロース的身体の形成が不十分な場合です。この場合「リビドー的転覆」が及んでいない身体機能は未開発の領域として取り残されることになります。

こうした身体を持つ主体が、なんらかの精神的負荷を負った時、エロース的身体の代わりに当該負荷の受け皿となる生物学的身体は端的な失調状態に陥ります。ここで現れるのが頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気など、心身症と呼ばれる各種の身体化症状ということです。

この点、ドゥジュールはこうした身体化症状に関わる無意識を「アメンチア無意識(inconscient amentiel)」と呼び「抑圧されたものの場」という意味での従来のフロイト的な「無意識」と区別します(「アメンチア」とはラテン語でいう「a-mens(精神を欠いた)」という意に由来しています)。

このように「リビドー転覆」の理論からすれば、神経症とは「エロース的身体」の上で形成される病理であり、これに対して、心身症とは「生物学的身体」の上で生じる病理ということになります。そして心身症の増加とは「エロース的身体」に関わる従来のフロイト的な「無意識」の割合が低下し、代わりに「生物学的身体」に関わる「アメンチア無意識」の相対的割合が大きくなっていることを意味しています。


* ラカン派における「無意識」

こうした状況を前提にすれば、我々の生きる現代は「無意識」が失墜した時代と言えるでしょう。周知の通り、従来の精神分析的実践とは「無意識の形成物」たる症状に隠された「意味」を読み解く作業でした。では「無意識」が失墜した時代において精神分析はもはや無用の長物なのでしょうか。

少なくともラカン派にあってはそうではないと言えます。では、そもそもラカン派において「無意識」はどのように捉えられているのでしょうか。この点、ラカンは1950年代において「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼを提示しました。ここで無意識は一種の言語構造の場として捉えられ、そこでは様々なシニフィアン(表象)の結合が「メノトミー」と「メタファー」という、以下のような異なる二つの様式として現れています。

⑴ メノトミー(換喩)

まず、ラカンによれば「メノトミー」とは「シニフィアンとシニフィアンの連結」を言います。ラカンはメノトミーの例として「30の帆」という表現を引き合いに出します。このメノトミーが表すのは、言うまでもなく「30艘の船」ですが、この両者の連結からは新たなシニフィエ(意味)は生まれてきません。メノトミーにおいてシニフィエはシニフィアン連鎖の上で先送りされていくだけです。ゆえにラカンはメノトミーのアルゴリズムを以下の式で表します。

f(S...S')S≅S(-)s

ここで大文字のSはシニフィアン、小文字のsはシニフィエを指しています。そして左辺のS...S'はシニフィアンの通時的な連結を表わします。すなわち「船→帆→甲板→船員・・・」と伸びていく連想や「私は一人っ子で、いまは祖母と一緒に住んでいて、好きなものは・・・」などという言語連鎖のことです。そして右辺の(-)は「意味形成の抵抗」の横棒とされ、シニフィアンとシニフィエを分かつ断絶が乗り越えられていないことを示しています。

⑵ メタファー(隠喩)

これに対して、ラカンによれば「メタファー」とは「ひとつのシニフィアンの他のシニフィアンへの置き換え」を言います。ラカンはメタファーの例として旧約聖書の「ルツ記」に因んだヴィクトル・ユゴーの詩「眠るボアズ」の一節「彼の麦束はまったくごうつくでもなければ人嫌いでもなかった」を引き合いに出します。

ここで「彼の麦束」が「ボアズ」の名を代理していることは明らかですが、両者の間に換喩的な結びつきはありません。そして、この「置き換え」によって、落ち穂が取り持ったボアズとルツの馴れ初めから、やがてダビデ王を産む系譜へ至る結末までもが一挙に想起されます。すなわち、ここではメノトミーには生じない「意味効果」が生じているということです。ゆえにラカンはメタファーのアルゴリズムを以下の式で表します。

f(S'/S)S≅S(+)s

左辺の分数が「置き換え」に当たります。ここでシニフィアンSはシニフィアンS'に置き換えられてます。そして右辺では括弧の中が−ではなく+である点がメノトミーと異なります。この+が表すのが単にシニフィアンにシニフィエが加算されるのではなく、メノトミーにおける「意味抵抗の横棒」がここでは乗り越えられ、それによって「意味効果」が生じていると言うことです。

そして、ラカンによればメノトミーはメタファーに先行します。そしてメタファーの介入により、置き換えられたシニフィアンはメノトミー的連鎖から弾き出され、ここに詩的意味が生じるということです。こうしたメタファーの詩学は、まさに神経症の構造と同一平面にあります。すなわち各種の神経症的症状とは、一面において無意識に弾き出された欲望の隠喩に他ならないという事です。


* ララングの方へ

このようにラカン派において長らく「無意識」とはもっぱらシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」として捉えられていました。ところが1970年代においてラカンは「無意識」における理論を大幅に更新することになります。

70年代におけるラカンはシニフィアン連鎖以前の、言語として構造化されていない「単独のシニフィアン」を重視します。この点、子供が最初に出会うトラウマ的シニフィアンを、ラカンは「ララング(lalangue)」といいます。ララングとはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。

子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ、トラウマ的享楽がもたらされることになります。子どもにとってララングとは情報の伝達手段ではなく、トラウマ的享楽を反復するための私的言語に他なりません。そして、ラカンによれば、こうしたララングは「神経症」「精神病」「倒錯」の区別なく、凡そ全ての主体に刻み込まれているということです。

しかしある時から、大多数の子どもはララングを使うことを諦め、情報の伝達手段としての言語(langage)の世界である「象徴界」へ参入します。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ、結果、シニフィアンによって構造化された言語的無意識が形成されるわけです。

換言すれば、従来の言語的無意識の根源にはトラウマ的享楽と結びついたララングがあります。そして、こうしたララングが支配する領域こそがまさにラカンが象徴界のリミットとして位置付ける「現実界」の境位に他ならないということです。


* 逆方向の解釈

こうして晩年のラカンは症状における象徴的側面ではなく、その現実的側面を重視するようになります。ならばその実践としての精神分析的解釈においても従来のような無意識の「意味」を読む解釈(順方向の解釈)とは正反対の技法が要求されることになります。これが現代ラカン派が言うところの「逆方向の解釈」です。

逆方向の解釈は、シニフィアン連鎖を切断し、まさしくララングの方へと向かいます。すなわち、ここで解釈とはもはや症状の「意味」を読む実践ではなく、症状の「無意味」を読む実践に他ならないということです。そして、こうした実践においてはフロイト的な無意識、言語的無意識は二次的な問題に過ぎません。このような現代ラカン派の実践は「ポスト・神経症」の時代、すなわち「無意識」が失墜した時代における精神分析の新たな可能性を示しているといえるでしょう。


* 生きている手ごたえ

臨床心理学者、河合隼雄氏は、不朽のベストセラーとして知られる名著「こころの処方箋」の最終講において、人は誰でも全ての人がその内にその人だけの「創造の種子」を持っているといい、心理療法とはクライエントの「創造の種子」が発芽して伸びてゆくことを援助して、その人の生き方全体をまさに「私が生きた」ものとして創造していく営みであるといいます。

そして、その結びでは「私が生きた」という創造の実感を持った時、あまり社会的評価は気にならなくなり、普遍的な存在の一部としての責任を果たした自己評価につながっていくと、氏は述べています。

ここで述べられていることをラカンの言葉で翻案すれば「創造の種子」とはまさしくその人だけが持つララングに他なりません。それゆえに「私が生きた」といえるには、自らの中にあるララングの方へ向かい、その特異的な創造性を手放さないままに普遍的な一般性へと調和を果たしていく過程が必要となってくるということです。

多くの場合、それは苦しみの伴う試行錯誤の過程となるでしょう。けれども、こうした過程も含めて「創造」される生の中にこそ「私が生きた」という「生きている手ごたえ」と呼ぶべきものがあるのではないでしょうか。













posted by かがみ at 02:55 | 精神分析