* 少女のエディプス・コンプレックスが孕む曖昧さ
時は19世紀末、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは当時、謎の奇病とされていた「ヒステリー」の治療法を試行錯誤する中で、人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見します。そしてフロイトは、このような心的葛藤をギリシアのオイエディプス悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けました。
この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。
そしてフロイトによれば、少年と少女では去勢不安への反応は異なるものとされます。すなわち、少年はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在になろうとする。これに対して、少女はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在になろうとする。
こうした相違からフロイトの中では、去勢不安をドラスティックに克服する「少年のエディプス・コンプレックス」こそが「真のエディプス・コンプレックス」であるとされる一方、去勢不安がダイレクトに直撃しない「少女のエディプス・コンプレックス」は、あまりぱっとしない、曖昧な立ち位置に追いやられています。
けれどその一方でフロイトは、女性の夢には少なくとも一箇所、未知なるものにつながっている「臍」のような場所があるという趣旨のことも述べています。ここでフロイトは女性性における「謎」に直面しています。だとすれば現代における「少女のエディプス・コンプレックス」はどういった立ち位置にあるのでしょうか?
* 父性隠喩における女性の論理
エディプス・コンプレックス。現代の発達心理学の知見からすれば、およそまやかしにしか聞こえないようなこのフロイトの神話を構造言語学のアルゴリズムによって解読したものが、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンによる「父性隠喩」と呼ばれる以下の構造式です。
繰り返される母親の現前/不在というセリーに直面した子どもは「母親が不在になる謎=x」をシニフィエとする「原-シニフィアン=母の欲望」を構成し、子どもは「xの想像的形態としてのペニス=想像的ファルス」への同一化を試みることになります。これがいわゆる「鏡像段階」に相当します。
けれどもこの同一化は当然、上手くいかず、やがて「母の欲望」は〈父の名〉という「法のシニフィアン」に隠喩化されることになります。結果「言語構造としての無意識=A」が成立すると同時に、セクシャリティを規範化する「欲望のシニフィアン=象徴的ファルス」が成立します。
そして男女の性差はまさに、この象徴的ファルスに対する態度に関わります。ここで、象徴的ファルスを保有しようとする態度は男性性を構成し、象徴的ファルスを仮想しようとする態度は女性性を構成することになるわけです。これを「象徴的去勢」といいます。
こうした父性隠喩の理論は言語構造の導入やセクシュアリティの規範化の巧妙な説明である事は確かです。のみならず、セックスとジェンダーの区分が曖昧だった1950年代の時点で生物学的差異ではなく言語学的差異から性差を捉えるラカンの着想は注目すべきものがあるでしょう。
けれども、やはり〈父の名〉とか、ファルスなどといった術語から明らかなように、父性隠喩という理論はどうにも父権主義的な色合いの強い言説であることもまた事実です。けれどラカンはこの立場に留まる事なく、その後、セクシュアリティに関する理論を飛躍的に発展させています。そのひとつの到達点が、セミネール20「アンコール(1972〜1973)」において示された「性別化の式」です。
* 性別化の式における女性の論理
まず上図左側が男性性の式を表します。この点、先に見た父性隠喩の理論によれば、母の欲望が〈父の名〉によって隠喩化された結果、言語構造としての無意識と象徴的ファルスが成立し、この象徴的ファルスの保持を欲望するのが男性性のあり方でした。
これは性別化の式においては「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」という定式で表されます。そして「全ての男性」という「普遍」が成立するには、集合論的には少なくとも一つの「例外」を必要とするため、ここから「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃x
すなわち、男性性はファルス関数による象徴的去勢の結果、欲動満足の極点としての「絶対的享楽」へ達することは決して叶わず、せいぜい「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するしかない。このような享楽を「ファルス享楽」といいます。
これに対して上図右側が女性性の式を表します。この点、女性性といえども男性性同様、ファルス関数による象徴的去勢を逃れるわけではないため「ファルス関数に従わない女性がいるわけではない(
すなわち、女性性においてはファルス享楽にも絶対的享楽にも回収されない、その人だけが持つ特異的な享楽へ向かう可能性が開かれていることになります。このような享楽を「〈他なる〉享楽」といいます。
こうしてみると、かつてフロイトが直面した女性における「謎」としての「臍」のような場所は、ラカンのいう「〈他なる〉享楽」の在り処をすでに示唆していたようにも思えなくもありません。
* 少女小説における女性の論理
このように男性性を規定するのが「ファルス」なる超越論的シニフィアンを中心にすべてのシニフィアンが構造化される論理だとすれば、女性性を規定するのはこうした構造化を解体する可能性を内在させた論理であるという事です。
この点、日本ではすでに大正期において「少女小説」と呼ばれるジャンルの中で、こうした「女性の論理」を胚胎させた優れた物語が多く紡ぎ出されてきました。その例として、少女小説初期の代表作として知られる「花物語(吉屋信子)」に収められた「白百合」という一編を見てみましょう。
物語は主人公「私」の通う女学校に新任の音楽教師がやってくるところから始まります。まだ女学生の初々しい雰囲気を幾許も残し、教師らしさとはまるで程遠く、おずおずとはにかむその姿が印象的な「葉山先生」は瞬く間に女生徒たちの心を囚えてしまいます。
そして「私」も葉山先生に想いを募らせるあまり、その日記には毎日の如く葉山先生の一挙手一投足が偏愛的に書き連ねられていくわけですが、気の弱い「私」は先生とお近づきになりたくともとても近づけず、ただ悶々とした日々をおくります。
そんな折に、上級生の誘いから禁を犯して活動写真へと出かけ、遅い帰宅を寮監に咎められた「私」は、葉山先生が咄嗟に機転を利かした偽りのアリバイ証明のおかげで窮地を救われます。
この御恩は忘れませんと泣き縋る二人に対して、葉山先生は自分もあの日、実は同じ場所に行っていたことを告白した後、次のような後にも先にも一度限りの熱弁を振るいます。
「しかし、この事を、私のこの心を長く忘れないで、どうぞ(純潔)を、常に変わらぬ魂の純潔、行為の純潔を私に誓って守ってください。これが私の対するあなた方お二人の何にも優る報恩ですの、ね、忘れないで、純潔!私の大好きなあの白百合の花言葉の(純潔)をお互い守りましょう、生涯通じて私達は!」
その後、健康を害した葉山先生は教職を辞して故郷に帰り、翌年には帰らぬ人となりました。そして物語は「私」の次のようなモノローグで結ばれます。
「こうして先生のお姿は見えなくなりました。けれども先生の清い愛の生命を形取った白百合の花が(純潔)と囁いてこの土の上で咲く限りは、その花の姿とともに先生の、みこころは私共に永久に生きるのでございます。」
言うまでもなく、白百合の花は「純潔」の象徴として知られています。けれども、ここで葉山先生が言っているのは父権主義的な貞操観念に規定された処女としての「純潔」ではない「魂の純潔、行為の純潔」です。そして「私」は、こうした意味での「純潔」を「清い愛の生命」として称揚するわけです。
このように「白百合」という物語は、同性を思慕する女性の物語として始まりながらも、異性愛のオルタナティブとしての同性愛に回収されることなく、むしろファルス関数を逃れていく「純潔」の物語として幕を閉じていると言えます。
* 特異性を手放さなずに生きるということ
人は本来、ひとりひとりが特異的な存在でありながらも、我々は一般的な規範の中で生きていかなければなりません。
この点、社会共通の規範である「大きな物語」が強力に機能していた近代社会においては、特異性を切り捨てて一般性へと同一化していく「少年のエディプス・コンプレックス」が範例的位置にくるのは確かに不自然なことではありません。
けれども消費化、情報化、ポストモダン化の進行により「大きな物語」が失墜した現代社会においては、特異性を手放さないまま一般性とも調和していく「少女のエディプス・コンプレックス」こそが範例的位置にくるのではないでしょうか。
少年から少女へ−−おそらく葉山先生の言う「純潔」とは、ここでいう「特異性」のことに他ならないでしょう。あるいは晩年のラカンが精神分析の終結条件として「症状への同一化」を宣明して「サントーム」の臨床へと向かったのも、こうした時代の変遷とリンクしていたと言えます。そういった意味で、現代においては男女関わらず、まさしくすべての人に「魂の純潔、行為の純潔」が問われているという事なのでしょう。