* 手紙は常に宛先に届くのか?
フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール(1956年初出)」はラカン派精神分析の基本的思考が集約されたテクストとして知られています(もちろん一読しただけではちんぷんかんぷんなんですけど)。
このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し、結論として次のように述べます。
つまり、言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)
このセミネールでラカンが提出したのは「手紙は常に宛先に届く」というテーゼです。これに対してフランスの哲学者、ジャック・デリダは論文「真理の配達人(1975年初出)」において「手紙は常に宛先に届かない可能性がある」というテーゼを提出します。
届くとか、届かないとか。ここで両者が現実の郵便制度を論じているわけではない事はもちろん明らかですが、なにぶん議論が無駄に抽象的すぎて、一体何を問題にしたいのか、何ともよくわかりません。この点について明快な読解を提示してくれるのが、東浩紀氏の「存在論的、郵便的」です。
* 形而上学と否定神学
東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になります。すなわち、それは「形而上学的思考」への批判と「否定神学的思考」への批判ということです。どういうことでしょうか?
まず「形而上学的思考」によれば、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には「超越論的シニフィエ」によって担保される事になります。エトムント・フッサールの現象学、バートランド・ラッセルの記述理論、アンナ・フロイトの自我心理学などは、こうした形而上学的思考の典型例とされます。
けれども数々の精神分析の症例が示すように、もちろん世の中はそんなにうまく出来ていない。真理、理想、正義、希望。こうした言語を超えた「過剰な何か」に奇妙なほどに魅入られてしまうのが人という生き物です。
これに対して「否定神学的思考」によれば、シニフィアンの循環運動は不完全であり、最終的には「超越論的シニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」によって担保されることになります。こうしたシニフィアンの循環運動の不可能性として「現実界」を想定するラカン派精神分析は否定神学的思考の典型例と言えるでしょう。
すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。
* 行方不明となる手紙
否定神学的思考は言語を超えた「過剰な何か」を一見うまく説明できています。けれども同時に、こうした思考法は、唯一の超越論的シニフィアンを想定することで、オブジェクトレベルでシステムを解体したと見せかけて、メタレベルで再びシステムの全体性が回帰することになります。これがいわゆる「クラインの壺」です。まさにデリダはこの点を批判するわけです。
もっとも、ここでのデリダの批判は自己批判の側面もあります。こうした否定神学的思考はデリダ的には「差延」に代表される「ゲーテル的脱構築」に相当するということです。そしてここでデリダが提示しているのは「否定神学的思考=ゲーテル的脱構築」から逃れるもう一つの脱構築です。東氏はこれを「郵便的脱構築」と呼びます。
つまり「手紙」が「デッド(行方不明)」となるのは郵便制度自体の欠陥に起因するのではなく、端的に一つひとつの手紙の、その都度その都度の送付行為の失敗に起因するということです。
すなわち、デリダがいう「手紙は常に宛先に届かない可能性がある」とは「全てのシニフィアンは常に様々な想定外のシニフィアンに回付される可能性がある」ということです。
こうしたシニフィアンの循環運動の決定不可能性をデリダは「幽霊」といいます。この点「現実界」は単数ですが「幽霊」は複数です。コミュニケーションの様々な失敗や揺らぎ。ここから様々な「幽霊たちの声」が出現する。このようなコミュニケーションに内在するメカニズムを東氏は「誤配」といいます。
*「苦海浄土」が描き出したもの
そして、こうした「誤配」が生み出す「幽霊たちの声」はしばし時代を突き動かす原動力となる事があります。東氏が近著「テーマパーク化する地球」において高く評価する「苦海浄土」も、まさにこうした「幽霊たちの声」に真摯に耳を傾けた作品と言えます。
周知の通り、同作は日本の高度経済成長がもたらした負の側面である「水俣病」の存在を一躍、世界的に知らしめる立役者となりました。ところが同作は一見、水俣病被害者の聞き語りをもとに構成されたノンフィクションの体裁をとっているものの、実際はかなりの部分が著者である石牟礼道子氏が「創作」した、いわば氏の「私小説」であるということが現在では広く知られています。
こうした手法は現代におけるエヴィデンス至上主義的な「正しさ」の基準に照らせば当然の如く批判を浴び、著作は回収され著者は謝罪に追い込まれることになるでしょう。
けれど「苦海浄土」はそうはならなかった。それどころか同作が描き出した「虚構」は文学的手法として広く理解され、公害反対運動という「現実」に大きな影響をもたらしました。
*「幽霊たちの声」に耳を傾けるということ
もちろん、このような石牟礼氏の手法が現代においてそのまま通用するかというと何とも言えないところがあります。けれど、ここで気付かされるのは「当事者の声」の「代弁」と「反復」は明らかに違うという事です。
当時の担当編集者に事実関係を問い正された彼女は−−まるでイタズラを見つけられた女の子のような顔で−−「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と、そう答えたそうです。
事実として語られた事だけが全てではない。あの人が心の中で言っていること。その無根拠の闇を引き受けた上で「正しさ」とは何かを問う。それこそが、本当の意味での「当事者の声の代弁」となるときもあるでしょう。
こうしてみると「苦海浄土」という作品が告発するのは水俣病という公害を超えて、現代のエヴィデンス至上主義の中、見せかけの「正しさ」で思考停止する我々の態度そのもののようにも思えてくるわけです。
見せかけの「正しさ」へと回収されない「幽霊たちの声」に真摯に耳を傾けていくということ。おそらくはこうした態度こそが、大きな公共なき現代において我々に残された数少ない、人が人たりうる公共性の在り処となるのではないでしょうか。