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ラカン派精神分析の基本用語集
2020年08月30日
〈つながり〉から〈まとまり〉へ−−接続・切断・生成変化
* 見えるものと見えないもの
我々が認識するこの世界は「見えるもの」と「見えないもの」の二つの位相の上に成り立っています。ここで「見えるもの」とは日々繰り返されるこの端的な日常であり「見えないもの」とはこうした日常から外れた異界としての非日常です。
多くの場合、精神的不調や社会的逸脱行動といったトラブルは「見えるもの」への最適化の失敗に起因します。こうした時、問題を「見えるもの」の視点だけで考えても解決しないことが多いわけでして、一旦は「見えるもの」だけでなく「見えないもの」の視点から考えないといけないこともあります。けれども、そのまま「見えないもの」に魅入られてしまうと、今度は「見えるもの」が見えなくなりかねません。
こうして「見えるもの」と「見えないもの」の二つの位相からなる現実の中にいかに自己を位置付けるかが問題となります。そして、こうした問題を「生成変化の原理」として究明したのがフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズです。
* リゾームへの生成変化
ドゥルーズ哲学における生成変化の第一原理は「接続の原理」です。これはいわゆる「リゾーム」への生成変化です。
周知の通り、ドゥルーズはフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」において、1968年5月のフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた多方向へと迸る欲望を究明し、1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。そしてその続編に当たる「千のプラトー(1980)」において提出されたのが「リゾーム」という概念です。
「リゾーム(根茎)」とは特権的中心点なくして様々な方向に展開していく関係性のことです。要するに、ドゥルーズ&ガタリは、旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生を「リゾーム」という概念で肯定していくわけです。
* 現働性と潜在性
こうした華々しい「リゾーム」の背景には、ドゥルーズ哲学を特徴付ける「同一性」の批判と「差異」の肯定があります。
通常、我々はある事物Aは次の瞬間もやはりAであるという「同一性」を前提に世界を理解します。Aにどのような変化が起きようが、AはAであることは変わりない。「Aの変化=差異」は「AはA=同一性」に従属している。これが常識的思考です。
ところがドゥルーズはこうした常識的思考を「代理-表象」と呼んで批判します。要するにドゥルーズに言わせれば、「AはA=同一性」というのは所詮フィクションに過ぎず、Aの変化したものはもはや別なA’に他ならないという事です。
こうしてドゥルーズは同一性で区切られた世界の彼岸に、様々な差異が互いに接続する世界を真に実在的なものとして想定する。前者を「現働性」といい後者を「潜在性」といいます。これがドゥルーズにおける「差異の存在論」です。
現働性と潜在性。つまり「見えるもの」と「見えないもの」です。「リゾーム」への生成変化とは「見えるもの」から「見えないもの」へと突き抜けるということです。
* 〈すべて〉は〈ひとつ〉
こうしたドゥルーズの「差異の存在論」は世界中で熱狂的に歓迎されました。「同一性」から解放された様々な「差異」が互いに接続する世界。すべての多様性が祝福されるひとつの世界。みんなちがって、みんないい。そんな理想の桃源郷をドゥルーズは存在論のレベルで肯定しているかのようです。
けれど、それは果たして本当に理想の桃源郷なのでしょうか?そんな世界はどこか危うさを孕んではいないでしょうか?
問題なのは、ここで想定される世界が〈すべて〉は〈ひとつ〉の世界だということです。これをドゥルーズは「存在の一義性」と呼びます。すなわち、存在論的に〈すべて〉は〈ひとつ〉だということです。
こうした点を強調すれば、ドゥルーズ哲学が存在論のレベルで肯定する〈すべて〉の多様性が祝福される〈ひとつ〉の世界とは、裏返せば〈すべて〉を統べる〈ひとつ〉が君臨する世界でもあります。これを世間では「ファシズム」と呼びます。すなわち、ここで現出するのは接続過剰な世界、いわば〈つながり〉という名のファシズムが支配する世界です。
* 欲望の極点としての現実界
こうしたドゥルーズの「潜在性」の理論と似たような思考は他にもあります。その典型がフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの「現実界」の理論です。
ラカンによれば、我々の認識する「現象=想像界」とは「システム=象徴界」によって統制されているわけですが、このシステムを中心で駆動させているのが認識不能な「システムの穴=現実界」ということになります。
有名なラカンのテーゼに「人の欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがありますが、ここで言う〈他者〉とは「システム=象徴界」のことです。すなわち、人はシステムの中で欲望するということです。そしてこうしたシステムを駆動させる「システムの穴=現実界」を直接目指す欲望を「純粋欲望」と言います。
もちろん現実界とは認識不能な領域であり、そこに行くには端的に言うと死ぬしかない。まさにアンティゴネーの悲劇です。
50年代後半のラカンは人の欲望のオリジナル形態を「純粋欲望」として措定しましたが、実際に人がこんなものに目覚められては困りますので、60年代のラカンはむしろこの「純粋欲望」から退避する方向に向かいます。
ここで用いられるのが「対象 a 」という概念です。「システムの穴=現実界」の前にダミーとしての対象を置くことで「かりそめの現実界」が構成されることになります。このダミーが対象 a です。すなわち人は対象 a に囚われ続けることで、危険極まりない「純粋欲望」に向かうことなく、システムの中で安全に欲望し続けることができるわけです。ゆえに対象 a は「欲望の原因」なのです。
こうしてセミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」においては精神分析家の欲望とは「純粋欲望」ではなく「絶対的な差異を得ようとする欲望」と宣明されます。絶対的な差異を得ようとする欲望。これはつまり「純粋欲望」なる欲望のオリジナルから差異化する欲望と言うことになります。
* ドゥルーズ哲学の二つの位相
ドゥルーズの「潜在性」の理論にせよ、ラカンの「現実界」の理論にせよ、共通するのはそこに〈ひとつ〉が〈すべて〉を動員している構図があります。こうした構図を「ホーリズム(全体主義)」といいます。そして〈ひとつ〉へと向かう欲望には〈すべて〉を破滅させるオーバードーズへ向かう危うさが伴っているということです。
この点、千葉雅也氏はドゥルーズ哲学におけるホーリズム的側面を認めつつも、同時にそこから逃れていく非-ホーリズム的な側面もまた確実に内在しているといいます。
ここで氏が注目するのがドゥルーズのデビュー作「経験論と主体性(1953)」以来、主著である「差異と反復(1968)」「意味の論理学(1969)」などにおいて幾度となく再浮上を繰り返すことになるデイヴィット・ヒュームの経験論的哲学、いわゆる「ヒューム主義」です。
ヒューム主義において志向されるのは、バラバラな断片的所与の仮設的な連合と、それらの偶然的な解離からなる多元論的な世界です。これを「連合-解離説」といいます。
* 非意味的切断と再接続
こうしたヒューム主義/連合-解離説からドゥルーズを再読解する事で取り出されるのが、ドゥルーズ哲学における生成変化の第二原理としての「非意味的切断の原理」です。すなわち、リゾームは非意味的に接続されると同時に、非意味的に切断されるということです。
「非意味的切断の原理」によって〈すべて〉は〈ひとつ〉に統合される事なくバラバラな断片となります。そしてこの断片達はホーリズム的全体化とは別の「全体化しない全体」へと「再接続」される。これが「器官なき身体」への個体化です。
そして、こうした個体化の技法として「イロニー」と「ユーモア」があります。法の無根拠さを正面切って告発するイロニーが現働性から潜在性へと向かうサディズム的運動だとすれば、法の解釈をずらすことで嘲笑うユーモアは潜在性の手前で現働性へ折り返すマゾヒズム的運動と言えます。
イロニーとユーモアからなる接続、切断、再接続。サディズムとマゾヒズムからなる自己破壊。こうした運動によって切り出された非意味的断片は暫定的な〈まとまり〉として個体化する。
〈つながり〉から〈まとまり〉へ。これがドゥルーズ哲学における「生成変化の原理」ということです。
* 別の〈まとまり〉への生成変化
イロニーからユーモアへの折り返し。それはすなわち「見えないもの」から「見えるもの」への折り返しという事です。目の前の「見えるもの」だけに囚われず、一旦「見えないもの」へと回路を開き、そこから再び「見えるもの」の中に自らを暫定的な〈まとまり〉として位置づけてみる。
その時「見えるもの」としての世界のかたち、日常のありようは以前とは多少なりとも違って見えるはずです。なぜなら、そこにいるあなたは以前とは別の〈まとまり〉としてのあなただからです。
posted by かがみ at 00:50
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