【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集 現代アニメーションのいくつかの断章

2020年06月29日

ポストモダンと誤配の哲学




* 「大きな物語」の失墜と「小さな物語」の乱立

1970年代以降の日本社会は、社会を一つにまとめ上げる「大きな物語」を失い、いわゆる「ポストモダン化」と呼ばれる社会の断片化が加速していきました。

社会が断片化するということは、社会全体を見渡す特権的視点が消滅するということです。もっとも80年代は未だ社会全体を見通す欲望だけは辛うじて慣性的に生き残っていましたが、昭和の終焉、冷戦終結、バブル崩壊などの様々な「終わり」を経て迎えた90年代になると、こうした特権的視点に対する欲望すら不可能となりました。

こうして90年代後半には「大きな物語」は完全に失墜し、人々のアイデンティティは「大きな物語」によってではなく、各人が任意に選択するそれぞれの「小さな物語」によって支えられることになります。


* 象徴界の機能不全

こうした変化をラカン派精神分析の用語では「象徴界の機能不全」と言います。ポストモダン化した社会においては、想像的他者を接続する象徴的秩序が上位審級としてもはや機能していないということです。そして、ここから生じる問題は、いわゆる「政治と文学」の断絶と呼ばれます。

かつて文学(実存)を語ることは、これすなわち政治(社会)を語ることでした。ところが象徴界が機能不全に陥ると、政治(社会)の問題は想像界へと引き寄せられる一方で、文学(実存)の問題は現実界へと旋回します。

すなわち、一方で倫理的問題はもっぱら家族、恋人、友人知人といった身近な関係性の問題となり、他方で存在論的問題は「死」や「世界の終わり」などといった抽象的大問題へと直結することになるわけです。


* 郵便的不安

象徴界の機能不全による政治と文学の断絶。こうしたポストモダン的状況で生じる特有の感覚を批評家の東浩紀氏は「郵便的不安」と呼びます。郵便的不安とは「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

かつて象徴界が上位審級として機能していた時はこうした不安は生じなかったわけですが、いまや象徴界は機能不全を起こしている。90年代以降の日本社会はまさに郵便的不安が前景化した時代であるということです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中だけで充足する方向性です。けれども前者が極端化すればこれはオウム真理教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。いずれかの処方に特化するのはこうした危険性が伴うということです。

結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。そして「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。ではそれは一体、どのような方略となるのでしょうか?


* 動物化する情報社会

「郵便的不安」から「郵便的享楽」へ。東氏のデビュー以来の仕事は常にこうした問題意識に支えられていると言って差し支えないでしょう。氏のデビュー作「存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて(1998)」は、かつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏と柄谷行人氏が編集委員を務める「批評空間」において連載された一連のデリダ論をまとめたもので、同書は浅田氏による激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の俊英として脚光を浴びることになります。

ところがその後、東氏は浅田氏や柄谷氏と対立を深めて距離を置くようになり、2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となります。

東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の解離というべきポストモダンにおける二層構造モデルでした。そして、こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」です。

同書においては社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念を参照点として、社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース」としての「一般意志2.0」が構想されます。

もっとも、よくある誤解のように同書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではありません。むしろ同書は「一般意志2.0」を構築することで、従来型の議会制民主主義における「熟議」を再活性化して「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共性の創出を提案しているわけです。


* 「誤配」の再定義

熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していました。

そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていきました。この10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実でした。

この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていました。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになったわけです。

こうして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトします。ここで「誤配」は情報空間と現実空間の組み合わせによって能動的に生じるものと考えられるようになります。


* 郵便的マルチチュードとしての観光客

このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へと練成したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになります。

同書はナショナリズムとグローバリズム、コミュニタリアニズムとリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付けます。

「マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境下で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念です。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学的マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけです。

そこで氏は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学的マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示することになります。


* 「憐れみ」によって手を取り合うということ

基本的に人は「郵便的不安」から「誤配」を恐れる生き物です。近年多発するソーシャルメディアにおける炎上騒動の根底には、クラスター間における「誤配」があることは疑いないところです。また「共生社会」「ダイバーシティ」といった社会的課題においても「誤配」の問題は避けて通れません。こうした意味において、東氏の一連の仕事は哲学者の虚構的思弁とかではなく、むしろ我々が生きるこの日常の中で生起する現実的問題を取り扱っているとさえ言えるでしょう。

この点、氏が「一般意志2.0」で参照したルソーは人間嫌いの思想家でした。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。

ルソーが示す答えは「憐れみ」でした。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということです。

こうした「憐れみ」を生じさせる契機こそがまさしく「誤配」です。本来的に分かり合えない人と人が−−イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない−−「憐れみ」よって手を取りあえる可能性、大きな物語の支えなき公共性を創出していくという営みは、偶然に規定された「誤配」を肯定するところから始めていくしかないという事なのでしょう。















posted by かがみ at 00:05 | 心理療法