現代思想の諸論点
現代批評理論の諸相
現代文学/アニメーション論のいくつかの断章
フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2020年03月26日
共同幻想論とボロメオの環
* 自己幻想・対幻想・共同幻想
戦後最大の思想家とも呼ばれる吉本隆明氏の主著「共同幻想論」は「全共闘」と総称される全国的な学生運動の盛り上がりを見せていた1968年に刊行されました。
「共同幻想論」は「遠野物語」と「古事記」という二つの古典を素材として国家の成立条件を論じたものです。すなわち、人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(家族的関係)」「共同幻想(国家的共同体)」から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになるという事です。
この点、家族を成立させている「対幻想」は二種類あります。「夫婦/親子的対幻想」と「兄弟/姉妹的対幻想」です。子を再生産する前者は時間的永続性を司り、子を再生産しない後者は空間的永続性を司ります。
そしてこの二種類の対幻想を「宗教」とか「イデオロギー」などと呼ばれる操作で組み合わせる事で、対幻想は共同幻想に拡大されます。すなわち、人は疑似人格としての国家との間に国民として「夫婦/親子関係」を結び、そして国民相互は同じ親(国家)を持つ「兄弟/姉妹関係」となるわけです。
* 「大衆の原像」とは何か
「政治の季節」の極相を迎えていた当時、吉本氏は「天皇制」や「戦後民主主義」といった「共同幻想」に回収されない個の「自立」を模索していく「第三の道」を唱導しました。
この点、吉本氏は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の各幻想は原理的には「逆立」するものと考えました。「逆立」とは各幻想が反発しつつも独立している状態の事です。そして、ここで氏は「自己幻想」が「共同幻想」に「逆立」する為の起点として「夫婦/親子的対幻想」に着目します。
「夫婦/親子的対幻想」はそれ自体で二者間の閉じた世界の中に完結します。端的に言うとここでは「あなたさえいれば世界などどうでもいい」という物語が機能するわけです。吉本氏はこうした対幻想を起点とした自立を「大衆の原像」と呼びました。
これは言うなれば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックです。今考えれば相当にベタな戦略ですが、これは当時「革命の夢」に敗北した全共闘の学生達に、自分達の敗北を正当化する為の物語として受容されました。
こうして、かつて革命を志した学生達はゲバ棒を捨てヘルメットを脱ぎ、愛する家族と紡ぎ出す小さな幸せの営みを守る為、組織の歯車となって働きに働き、結果「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された80年代の日本経済の繁栄を築き上げました。
「革命という非日常」から「生活という日常」へ。共同幻想論はそれなりに誰かの背中を押し、誰かの人生を救い、一旦はその使命を全うしたわけです。
* しかし人は「自立」できなかった
ところが実際のところ、こうした吉本氏の戦略がもたらしたのは個の「自立」ではなく所属共同体への「埋没」でしかなかった。かつての革命学生の多くは企業戦士として横並びと前例踏襲を重んじる日本的企業文化に同一化していく。この時、吉本氏の対幻想を起点とした自立の処方箋は、こうした思考停止に「愛する家族を守るため」という大義名分を与えてしまいました。
そしてこのような思考停止こそが、集団主義と同調圧力による組織体系の硬直化と創発性の阻害を招く最たる要因であることは言うまでもないでしょう。果たして多くの日本企業が90年代以後、規律重視の工業社会からイノベーション重視の情報社会へという、世界的な産業構造の急速な変化に対応できず、バブル崩壊以後の日本経済は低迷の一途を辿っていきました。
こうしていまや「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、貧困と格差が進む中、経済的豊かさの指標とされる国民1人当たりのGDPは1988年には2位だったのが2019年にはなんと26位にまで転落する事になります。
一方で、世界的なグローバル化、ネットワーク化の進展は国家という共同幻想を零落させ、人々の自己幻想の肥大化を促進しました。スマートフォンの進化とソーシャルメディアの発達により、いまや人々は自分が見たい現実だけを見て信じたい物語だけを信じる事のできる情報環境を手に入れました。
そして、こうした母胎の如き環境下で幼児的に肥大化した自己幻想は今や零落した共同幻想へと容易く同致してしまいます。いわゆる「ポスト・トルゥース」と呼ばれる、事実が軽視されフェイクニュースが幅を利かすという今日のディストピア的状況の背後にはこうした構造があるわけです。
こうしてかつて半世紀前、吉本氏が提示した「自立」の戦略は今日において完全に破綻していると言わざるを得ないでしょう。では、現代における「自立」の方策はあるのでしょうか。
* 性愛的対幻想から友愛的対幻想へ
この点、宇野常寛氏は今日における「肥大化した母性(母胎の如き情報環境)」と「矮小な父性(自己幻想の肥大化)」の結託を「母性のディストピア(ボトムアップ的に醸成される共同幻想)」と呼びます。
そして氏はこうした「母性のディストピア」を解除する鍵を「もう一つの対幻想」に、すなわち「兄弟/姉妹的対幻想」に見出します。その論理は大まかに言えば以下のようなものです。
まず、グローバリズムとネットワークが極まった現代社会においては「国家という共同幻想」が零落する一方「市場という非幻想」が浮上する。
これは言うなれば市場という「ゲームボード」上に、個人、組織、国家が「ゲームプレイヤー」として配置されると同時に「ゲームデザイナー」として参加しているという事態を意味している。
そして、かつての「国家という共同幻想」が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場という非幻想」とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」という事になる。
すなわち、ここで世界と我々は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」によって接続される事になります。
そして、こうした「市場とゲーム」において、もし我々が他のプレイヤーに「夫婦/親子的対幻想(性愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは「家族」「国家」といった相対的に零落した共同幻想へと回収される事になる。
しかし一方、我々が他のプレイヤーに「兄弟/姉妹的対幻想(友愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは共同幻想に回収される事なく、対幻想のままに対象を拡大させる事が可能となる。こうした関係性を宇野氏は「相補性の片割れたちによる、寄り添いのアイデンティティ・ゲーム」と言います。
かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略はいわば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックでした。そしてまた、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略もその言葉だけを読むと「きずなの力でゲームを勝ち抜く」とか、何かそういう風にも読めてしまいますが、もちろんそういう陳腐な構想ではないわけです。ではその具体化なイメージはどのように捉えるべきなのでしょうか。
* ボロメオの環という参照点
まず吉本氏の「共同幻想論」と同様に、人の心的構造を三つの位相で把握する理論として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが示す「ボロメオの環」が知られています。
ラカンは人の心的構造を「想像的なもの(想像界)」「象徴的なもの(象徴界)」「現実的なもの(現実界)」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉えます。
すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているという事です。そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものです。
もっとも当初、ボロメオの環は、後に見るように「想像界」「象徴界」「現実界」と紐付けられてはおらず、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていました。
しかしその後、ラカンはボロメオの環を単にシニフィアンの構造を示すものとしてではなく「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域と紐付けます。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となります。
* ファルス享楽と〈他〉なる享楽
「共同幻想論」と「ボロメオの環」はどちらも三位一体構造を持つことから、両者の間には共通の発想を多く発見できます。まず、自己幻想と現実界、共同幻想と象徴界、対幻想と想像界の間には、少なくとも比喩的な意味での重なり合いを見出す事が可能です。そして、今日における「共同幻想の零落/自己幻想の肥大」という事象は現代ラカン派の文脈でいうところの「象徴界の失墜」という議論に重なります。
こうした点から言えば、かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略は、ボロメオ上では「対象 a 」を媒介として象徴界と現実界の境界で「性愛的な享楽=ファルス享楽」を得る動線に近接します。
これに対して、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略は、ボロメオ上ではやはり「対象 a 」から想像界と現実界の境界線上の「非-性愛的な享楽=〈他〉なる享楽」へ至る動線に近接します。
* ぎりぎりの自己破壊の饗宴
そして、こうした「〈他〉なる享楽」を千葉雅也氏は「ファルス享楽の分身」として位置付け「パラマウンド」と名付けます。そして氏は「〈他〉なる享楽」へ至る経路(享楽のジェンダー・トラブル)の例として「プロレス」について論じます。
氏はプロレスには一般スポーツにおける「記録」「勝敗」には回収されない「贅沢」があるといいます。プロレスラーの不敵な睨みと笑み、挑発する言葉の応酬、大げさで演技的な技の連結等々・・・プロレスは「結果のすべてではなさ」という夢を観客に与えるわけです。
この点、千葉氏はプロレスとは「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」であるといます。すなわち、プロレスのリングには「自己破壊のマゾヒズム」が満ちている。この「自己破壊のマゾヒズム」とは畢竟、子どもが持つ原初的エロティシズムに通じます。すなわち、プロレスラーの強さは子供の持つ弱さであり、それは同時に子どもの持つ強さでもあります。
ゆえに我々が潜在的にプロレスラーになろうとするのであれば、それはいわば「自己破壊のマゾヒズム」へ回帰する事に他ならない。男女の性別が曖昧であった思春期以前、ジェンダー以前の状況への回帰、日常のあらゆる経験が自己破壊的である子どもの弱さのただなかに回帰するということです。
* 「子どもの弱さ=強さ」への回帰
今日において世界を席巻する「市場という非幻想」とはまさしくプロレスのリングに準えることもできるでしょう。そうであれば、宇野氏の言う「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略とは、千葉氏の言う「プロレス=ぎりぎりの自己破壊の饗宴」というイメージで捉えることが可能ではないでしょうか。
すなわち、現代における「自立」とは「肥大化した母性」の中で「矮小な父」を演じるのではなく、むしろ他者との間の「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」によって「子どもの弱さ=強さ」へ回帰するという事です。
「ここではない、どこか」という虚構への超越ではなく「いま、ここ」という現実から別の「いま、ここ」という現実へ突き抜けるという事。
こうした自己破壊的生成変化のプロセスの中にこそ「市場とゲーム」によって常時接続された現代における倫理的作用点としての「弱さ=強さ」という「自立」があるのでしょう。
posted by かがみ at 23:11
| 精神分析