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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2020年02月27日
不在の神からデータベースへ
* 統合失調症中心主義
統合失調症は多くの場合に思春期から青年期に発症し、その後その人の人生に内面的・外面的な様々な重大な影響を及ぼす極めて厄介な精神疾患です。そして、その症状といえば、自分に向かって他者が命令してくる「幻聴」や、周囲の出来事などが全て自分に向けられていると感じる「関係妄想」が有名でしょう。ただ、これらの症状は他の精神疾患でも見られるものであり、統合失調症特有のものというわけではありません。
統合失調症の症状は患者ごとに多種多様ですが、どの症例にも認められる共通点として「不確実な自己性」があると言われています。患者の自己が確実な自己性を有していないという事です。この「不確実な自己性」は患者の日常的意識や行動において独特の不自然さを作り出します。
この「不確実な自己性」をはっきりと反映する臨床症状として「作為体験」「させられ体験」などと呼ばれる自分の意思や感情や思考が他者によって操られているという体験、「思考奪取」「思考伝播」「思考察知」などと呼ばれる自分自身の意思や感情や思考が勝手に他者に筒抜けになっている体験があげられます。
この点、精神病理学者の木村敏氏は統合失調症者の時間意識について「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)」と呼びます。これは常に未来を先取りし現在より一歩先を読もうとする時間意識です。裏返せば統合失調症者は現在に棲まえていないという事です。こうした独特な時間意識が「不確実な自己性」となって立ち現れると言われます。
ところで統合失調症はしばし偉大な創造を可能とする特権的な狂気として語られる事があります。これを「統合失調症中心主義」といいます。
「統合失調症中心主義」は長きにわたり精神病理学や病跡学の支配的言説の位置にありました。しかし一方、現代の精神科臨床において顕著な傾向と言えば統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化です。このような状況の中で未だに「統合失調症中心主義」は妥当性を維持しているのでしょうか?
* 否定神学構造
まず「統合失調症中心主義」はいかにして形成されたのか。この点、統合失調症は近代以降に出現した精神疾患と考えられています。その最初期の統合失調症患者と言われるのが「狂気の詩人」として知られるフリードリヒ・ヘルダーリンです。
ヘルダーリンという人は同時代の大詩人シラーという理想へとまさにアンテ・フェストゥム的に跳躍しようとして統合失調症を発症させてしまうわけですが、その結果、人格荒廃を代償に精神病理学者ヤスパースの言うところの「形而上学的な深淵」が啓示され、これが数々の特異的な詩作を紡ぎ出す源泉となったと言われます。
そしてこのヘルダーリンの詩作と人生に真理を見出したのが、かのマルティン・ハイデガーです。ハイデガーによれば、ヘルダーリンの詩は「不在の神」を歌っているといいます。すなわち優れた詩人とは逃げ去った神々の痕跡に名を与えることで、将来において再び神々が到来する可能性を見い出す人であるということです。
こうしてヘルダーリンに導かれるようにハイデガー哲学はいわば「統合失調症化」する。その特徴はいわゆる「否定神学構造」にあります。「否定神学」とは「神は不在という仕方で現前する」という神学における議論であり、より一般的に言えば「ある構造において、中心にあるべきものが欠如しているが、それが欠如しているがゆえにその構造はより強力に機能する」という思考様式です。
* 〈父の名〉の排除と外の思考
このような否定神学構造を基盤として精神病論を構築したのがフランスの精神分析医、ジャック・ラカンです。精神病(統合失調症)の発症は、進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントの際によく観察されることが知られています。ラカンの精神病論はこのメカニズムを「〈父の名〉の排除」に起因するものだと考えます。
ラカンによれば人間には「象徴界」と呼ばれる言葉の秩序があり、その秩序においては様々な言葉(シニフィアン)が相互にネットワークを作っていると考えます。このネットワークの中であるシニフィアンの意味は他のシニフィアンによって決定されるわけです。そして、ラカンはこのシニフィアンのネットワークそれ自体を固定させる為の中心的なシニフィアンを〈父の名〉と呼びます。
ところが精神病構造においては、この〈父の名〉のシニフィアンが排除されており、いわば象徴界に穴が空いているという状態と言えます。それでも思春期くらいまでは「想像的杖」となる他者の行動や発言の模倣によってなんとか適応できていたりするわけです(かようなパーソナリティ)。しかしいよいよ進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントを迎えた時にはどうしても〈父の名〉を参照する必要がある。
この時点でそれまでは漠然と「あそこにあるのだろう」と思っていた〈父の名〉が実は無かったという事実が明らかになってしまう。するとこれまで仮固定のような形でネットワークを形成していた諸々のシニフィアンがバラバラになり、多くの場合、幻聴という形で不在の〈父の名〉の在り処を示すかの如く歌い始めてしまう。これが精神病(統合失調症)の発症という事です。
そしてラカンの弟子にあたるジャン・ラプランシュはヘルダーリンの狂気の詩作をラカンの理論で読み解き、さらにミシェル・フーコーはこうした一連の議論を「外の思考」として整理し、これを19世紀から20世紀に至る現代文学の主要な特徴とみなしました。
こうした過程を経て確立したのが「統合失調症中心主義」です。そして、ここから導かれるのは真の創造とは理性の解体と引き換えにしか手に出来ないという悲劇主義的なパラダイムに他なりません。
* 深層から表面へ
けれどもこうした「統合失調症中心主義」は前述したような統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化という臨床的現実から遊離したものになりつつあります。そしてそもそも「統合失調症中心主義」は創造の源泉を「形而上学的な深淵」とか「不在の神」とか「〈父の名〉の排除」などといった単一の特異点に求めているため、ジャック・デリダが批判するように、個々の作家の特異性が完全に無視される金太郎飴的言説に陥る憾みがあります。では「統合失調症中心主義」のオルタナティブとなる現代的な創造の源泉はどこに求めるべきなのでしょうか。
この点、ポスト・構造主義の代表的論客と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学」において、典型的な統合失調症者であるアントナン・アルトーと現代では自閉症スペクトラム障害と診断されうるであろうルイス・キャロルの文学論を並走させています。
ここでドゥルーズはアルトーの文学は「深層」にあり、キャロルの文学は「表面」にあるといいます。そして「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学は「深層」を拒絶し「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。
そしてドゥルーズ後期の代表作「批評と臨床」ではキャロルの他、やはり自閉症スペクトラム障害の特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家をドゥルーズは評価します。
キャロルの代表作「不思議の国のアリス」の「かばん語」などがその典型ですが、彼らはアルトーのように言語の「深層」に不在の神を見出すのではなく、言語の「表面」をある種の情報の束、データベースとして捉え、これをハッキングしようとする。これは言語を一旦拒絶した上で、自らの特異的な仕方で言語に再接続する試みに他ならない。ドゥルーズはここに単一的な特異点に回収されない個別的な特異性を見出しているわけです。
* 幸福の在り方を創造するということ
統合失調症から自閉症スペクトラム障害へ。深層から表面へ。不在の神からデータベースへ。こうした創造のパラダイム転換は芸術論に留まらず、現代を生きる我々が生のリアリズムを獲得する上で参照点の在り処を示します。規範的幸福のロールモデルが失墜した現代においては、我々もまたそれぞれの幸福の在り方を自ら「創造」していかなければならないということです。
posted by かがみ at 22:56
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