【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2020年01月30日

資本主義のディスクールと生の物語




* 理想・夢・虚構

人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの「生の物語」を紡ぎ出すことで、世界の中に自らの居場所を作りだす。

いわば人は「物語」の中で生きているということです。こうした「物語」を紡ぎだす想像力は、それぞれの時代において共有される想像力にある程度は規定されることになります。

戦後社会学の泰斗である見田宗介氏はこのような時代的想像力を「反現実」と呼びます。すなわち、我々の「現実」は「反現実」によって規定されているということです。

こうした観点から、見田氏は戦後日本史を3つの時期に区切り「プレ高度成長期(1945年〜1960年頃)」は「理想の時代」であり「高度成長期(1960年頃〜1970年前半)」は「夢の時代」であり「ポスト高度成長期(1970年後半以降)」は「虚構の時代」であると、それぞれ規定しました。


* ポスト・虚構の時代における「反現実」

そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。

この年、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。

こうして高度成長期以後、かろうじて日本社会を支えていた「理想・夢の残骸としての虚構」も、それはまさに文字通りの「虚構」でしかないことが明らかになった。こうして、ここで「虚構の時代」は臨界点を迎えたとひとまずは言えます。では、こうしたポスト・虚構の時代における「反現実」はどのように捉えるべきなのでしょうか?


* 動物の時代と不可能性の時代

1995年以降、日本社会においてはいわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定します。ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系の事です。

すなわち、現代は「大きな物語」の失墜した時代と言えるでしょう。この点、東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」への移行という現代における消費行動分析を切り口として、人間的欲望よりも動物的欲求を優先させる現代的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の現代を「動物の時代」であると規定します。

そして、大澤真幸氏は東氏がいう「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。大澤氏によれば「虚構の時代」は⑴「虚構」に反するかのような「現実への回帰」⑵「虚構」を強化するかのような「極端な虚構化」という一見相反する二つの傾向の間で分裂・解消されているという。そして、大澤氏はそこに「他者性なき他者」という「不可能性」を隠蔽する構造があるといい、1995年以降の現代を「不可能性の時代」であると規定します。


* 資本主義のディスクールと享楽社会

このように1995年以降の日本で加速したのは「大きな物語の失墜」「動物の時代」であり、ここで時代を規定する「反現実」とは「不可能性の時代」にあるとひとまずは捉えられます。そして、こうした時代の「反現実=内的現実」と照応する「実際の現実=外的現実」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの提出した「資本主義のディスクール」によって記述する事ができます。

精神分析の創始者、ジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そしてラカンはその欲動満足を「享楽」と呼びました。

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。これは端的に言えば享楽のデフレーションです。消費化情報化社会の進行の中、もはや享楽とは到達不可能なジュイッサンスではなく、計量可能なエンジョイメントへと変質し始めます。

こうした時代の変化を早々に察知したラカンが、かつて示した「4つのディスクールの理論」を更新すべく1972年に提出したものが「資本主義のディスクール」です。

資本主義のディスクール.png


資本主義のディスクールが表すのは資本主義システムが生み出す際限なき享楽の氾濫と個人の生を支える幻想の失墜です。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、溢れんばかりの対象 a の洪水の中、我々はネズミのように「資本主義のディスクール」という回し車を回し続けることを強いられる。「大きな物語の失墜」とは、いよいよ「資本主義のディスクール」が前景化して「享楽せよ!」が規範化されてしまった「享楽社会」に他なりません。



* エヴァが描き出した「他者の両義性」

以上に見たように現代とは内的には「大きな物語の失墜/動物の時代/不可能性の時代」によって規定され、外的には「資本主義のディスクール」によって規定された時代であるといえます。いずれにせよ、もはや何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けたということです。では、そうした時代において、人は「他者」とどのように関係して行けばよいのでしょうか?

こうした現代における「他者」との関係性を、あの時代の変わり目において真正面から問いに付した作品が「新世紀エヴァンゲリオン」でした。周知の通りエヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。この二つのエヴァの物語において提示されたのは両極端な「他者」のモデルでした。

すなわち「おめでとう」という承認を与える「反現実の他者=他者性なき他者」と「キモチワルイ」という拒絶を貫く「現実の他者=異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。


* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになります。

この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。

ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ、構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。

こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。

けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。


* 「きずな」と「生きづらさ」

こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動しました。総監督を務める庵野秀明氏はその所信表明において、エヴァという作品を「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと再定義します。

その第1部「序」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、その後に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。

すなわち「破」が「異質な他者」との間に「他者性なき他者」を発見していくというゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」は様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断されていくゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。


* 時に、西暦2020年

この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。

「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。

そしていま、平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。


* もう一つの「反現実」

こうして我々は「大きな物語の失墜」という内的現実と「資本主義のディスクール」という外的現実の下で、「きずな」と「生きづらさ」の間にある隘路を行くことになる。すなわち、こうした時代性を逆手に取る想像力こそがいま必要とされているということです。

この点、宇野常寛氏は見田氏や大澤氏の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まったこの現代における「反現実」とは、理想や夢や虚構、あるいは不可能性といった「ここではない、どこか」を夢想する「仮想現実」ではなく、我々が生きる「いま、ここ」を多重化していく「拡張現実」であると言います。

こうした「拡張現実」を「反現実」に位置付けることで、ある種の価値観の転換が可能となるでしょう。人はこの何気ないありきたりな「いま、ここ」の現実に深く潜っていく事で様々な豊かな「生の物語」をいくらでも紡ぎ出していけるということです。


* 物語を書き換えていく知

人は「物語」の中で生きています。これまで人の「生の物語」を基礎付けていた「大きな物語の失墜」は我々に「不安」をもたらしたことは確かです。けれどその反面で、人は多様な「小さな物語」の中で自分だけの「生の物語」を選択していく「自由」を手にしたことも確かです。また「資本主義のディスクール」から日々産出される様々なガジェットやコンテンツ達は使い方次第で現実を拡張していく上で良き媒介にもなるでしょう。

こうした時代の闇と光を見はるかし、内的-外的な現実における様々なめぐりあわせの中で自らの「生の物語」を自在に書き換えていく。このような「物語」に対するリテラシーこそが、享楽のデフレーション、幸福の規制緩和の時代ともいうべき現代を生きる上での知となるのではないでしょうか。













posted by かがみ at 23:15 | 心理療法