* 帝国の体制と制御社会
今世紀初頭に出版され世界中でベストセラーとなった「〈帝国〉」において、その共著者であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは「国民国家の体制」と「帝国の体制」を対置して「国民国家」の衰退が「帝国」の到来を告げる主要な兆候の一つであると指摘しています。
つまり現代においては「国民国家(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつあるということです。
この点「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なります。ミシェル・フーコーの分類に準拠すれば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となりますが、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力(環境管理型権力)」が優位となります。
そして後者が優位になる時、アーキテクチャによる統制の下、人間がモルモットのように飼い殺されていく社会、ジル・ドゥルーズの言うところの「制御社会」が出現します。
* 現代における「悪」の病理
こうして、いまや「帝国の体制=制御社会」というシステムの下、ヒト・モノ・カネの流動化・情報化は日々際限なく加速し続け、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。そしてそのコストは時に悲惨な形で無関係な人々にさらに転嫁されてしまう。
これが現代における「悪」の病理です。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としての原理主義者のテロリズム、国内レベルで見れば格差社会の不適応としての「無敵の人」の無差別殺人事件という形で噴出する。
今年秋に公開され世界中で物議を醸し出した映画「JOKER」はまさにこうした現代的な「悪」の病理を描き出した作品と言えます。社会の「ババ」を押し付けられた存在として、あるいはもはや何も失うものがない「最強の存在」として、多くの人にドミノ的に災厄をばら撒く「悪い冗談」として。こうした何重の意味においてジョーカーは文字通りの「ジョーカー」として君臨する。
けれども当然のことながら、我々はジョーカーになるわけにはいかない。こうして現代に生きる我々にはシステムに飼い殺される事なく生のリアリズムを見出すための想像力が求められることになります。
* 現実界と対象 a
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが「精神分析の四基本概念(1964)」において提示した理論は近代哲学の一つの到達点を示しています。
イマヌエル・カントによって確立された近代哲学は、認識システムで捕捉可能な「現象」の外部にある不可知の「物自体」に人の超越性を見出しました。そして、ここでラカンが示したのはこの超越性を操作するための理論装置と言えます。
ラカンは人の精神活動を以下の3つの次元で捉えます。イメージの次元である「想像界」、言語の次元である「象徴界」、そして、イメージでも言語でも捕捉不可能な「現実界」です。
つまり「想像界」「象徴界」から構成される我々の認識システムは「現実界」という「穴」を中心にぐるぐると旋回しているということです。
ここでラカンのいう「現実界」とは、カント哲学における「物自体」に相当します。ラカンはこうした本来不可知の「現実界」を「欲動の往還運動」の中に囲い込むことで「欲動の対象=対象 a 」として切り出します。つまり精神分析においては、分析家が「対象 a 」の場を演じることで、分析主体の症状を規定する「幻想=$♢a」へ介入が可能となるわけです。
* 幻想と生きづらさ
ここで示されたラカンの理論は、当時の最も革新的な精神分析理論であると同時に、最も洗練された近代哲学でもありました。そしてその有効性と輝きは現在においても未だ失われてはいないでしょう。
けれども一方、これだけではあらゆる状況や価値観が夥しく出現しては目まぐるしく流転していく現代に対応する想像力としては不十分です。
わかりやすい例でいうと「一流大学を出て一流企業に入り、それなりの恋愛を経てそれなりの家庭を持つ」などという、もはや古色蒼然というしかないロールモデルに「幻想」を見出してしまい、そのプロセスのどこかで挫折した時、多くの場合、その「幻想」は「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。
いまや、何かしらの特定の「幻想」に夢を見出して、人生全てを預けてしまうかの如き態度は、相当にリスクを伴う生き方と言わざるを得ない。こうして現代における想像力は、ラカン的「現実界」の外側にある何かに求められることになります。
* 否定神学システムと郵便的誤配
この点、東浩紀氏は「存在論的、郵便的(1998)」において、上に述べたようなラカン理論を「否定神学システム」と呼び「現実界」から脱出する思考として「郵便的誤配」の概念を提出しました。
かつてラカンは人の認識システムが「現実界」を中心に巡る必然性を「手紙は常に宛先に届く」と表現しました。これに対して、ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者、ジャック・デリダは「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」と応答しています。
そして、東氏はある時期のデリダの著作の読解を通じて、単数的穴である「現実界」ではなく、複数的他者の交差する「端的な現実」におけるコミュニケーションの「誤配=すれ違い」の中に超越性を見出すことでラカン的否定神学システムの乗り越えを試みます。
* 物質界と思弁的実在
またゼロ年代以降のフランス現代思想の潮流も、東氏とは別のアプローチで「否定神学システム」からの脱出を試みます。
例えば、カトリーヌ・マラブーは、脳神経に物質的な変化や障害が起きれば、その「可塑性(外因的変化)」によって精神は変容を強いられるといい、ラカン的「現実界」とは別に「物質界」を位置付けます。
また、カンタン・メイヤスーは、カント的な認識論(つまりはラカン的否定神学システム)を「相関主義」といい、この相関主義の外部にある「思考不可能な実在」が非合理的な「信仰主義」の拠点となるとする。
そして、メイヤスーは「思考不可能な実在」とは別に「思考不可能ではない実在(物質的世界)」を措定し、この世界のあり方に必然性はなく、全くの偶然性で別様の世界に変化する可能性もあるし、このまま世界が維持されるとしてもそれは偶然の結果に過ぎないという思弁的な結論を導き出す。こうした考え方は「思弁的実在論」と呼ばれており、現代哲学における新しい潮流として注目を集めています。
* サントーム
さらに、近年はラカン派内部でも、ラカンが1970年代に行ったセミネールの再検証が進んでおり、晩年のラカンも、かつて自らが構築した「否定神学システム」の外側に精神分析の終結条件を見出していた事が明らかになっています。
ラカンは精神分析の終結条件について「主体の歴史の書き直し」「幻想の横断」「主体の廃位」「対象 a の転落」と様々な角度からの説明を試みていますが、1977年に決定的な定式を与えます。すなわち「症状への同一化」です。
ここでいう「症状」とは分析の果てに見出されたその人だけがもつ特異性あるいは単独性の結晶、すなわちラカンのいう「サントーム」です。
ここでラカンは「否定神学システム」の外側に「症状=サントーム」を見出していることになります。すなわち、人は自らの中にサントームを発見し、あるいは発明することで「否定神学システム」の呪縛を解き放ち、その人なりの幸福を生きていくことができるという事です。
* 特異点としての「生の現実」
誤配、物質界、思弁的実在、そしてサントーム。ここで共通する発想は「現実界」から自由になるための特異点を人それぞれ固有の「生の現実」に求めているところにあります。
「生の現実」。それは「象徴界のリミット」「不可能な領域」「世界の果て」という意味での「現実界」とは位相を異にする「いま、生きている」という「あたりまえの現実」です。
一見、ある種の開き直りとも取れる発想です。これはバカバカしいことなのでしょうか?2016年に映画化され、大きな反響を呼び起こした「この世界の片隅に」の作者、こうの史代さんは原作のあとがきで次のように書いてます。
「平成一八年から二一年の『漫画アクション』に、昭和一八年から二一年のちいさな物語の居場所があった事。のうのうと利き手で漫画を描ける平和。そして今、ここまで見届けてくれている貴方が居るという事。すべては奇蹟であると思います。」
(「この世界の片隅に(下)」より)
本作の主人公、北條すずは太平洋戦争末期に時限爆弾の炸裂に巻き込まれ、自分を慕っていた義理の姪と右手を一瞬のうちに喪ってしまいます。こうした悲劇は決して遠い昔の他人事ではない。マラブーの「可塑性」やメイヤスーの「思考不可能ではない実在」ではないですが、我々は次の瞬間も生きているという保証はどこにもないし、もしかして次の瞬間にこの日常が灰燼に帰している可能性だってある。
そうであれば次の瞬間も「のうのうと」と生きていられる「あたりまえの現実」があるという事は「すべては奇蹟である」という事ではないでしょうか。
こうして我々の前には、一方で日常的に生起する困難や理不尽な現実があり、一方で「いま、生きている」という瑞やかな現実があるということです。世界がディストピアになるか、可能性に満ちたものになるかの分岐点は、まさにこのどちらの「現実」を引き受けるかという選択にかかっているのでしょう。