* 心身症とヒステリー
「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理といえば、今日ではまず「心身症」と呼ばれるカテゴリーが想起されるでしょう。
1991年、日本心身医学会によって心身症は「その発症や経過に心理社会的な因子が密接に関係し、器質的ないし機能的障害が認められる病態を指す。ただし、神経症やうつ病などの精神障害に伴う身体症状は除外する」として定義され、1996年、厚生省(当時)によって心身症を専門とする「心療内科」が標榜科として認められました。
心身症は人によって様々な症状が見られますが、一般的によくみられるのは頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気などです。その中でも特定の身体症状が顕著な場合は「緊張性頭痛」「片頭痛」「急性胃潰瘍」「慢性胃炎」「過敏性腸炎」などの診断名が付きます。
ところで、かつてこうした「こころ」の問題が「からだ」の症状として現れる病理の代名詞といえば「ヒステリー」でした。ヒステリーは古代より長らく謎の奇病とされていましたが、周知の通り19世紀末に精神分析の始祖であるジークムント・フロイトによってその治療法がひとまず確立されることになります。
しかしながらその後、ヒステリーは急速に往時の勢いを失ってしまい、アメリカ精神医学会が1980年に発行した「精神疾患の診断・統計マニュアル第3版(DSM-V)」においてヒステリーは診断カテゴリ一覧から削除されます。
こうした「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」という変化は如何に理解されるべきなのでしょうか?そこには何らかの「こころ」の問題の変容があるのでしょうか?
* 生物学的身体とエロース的身体
この点、フランスの精神科医、クリストフ・ドゥジュールは「リビドー転覆」の理論によって神経症と心身症を切り分けます。
まず、ドゥジュールによれば人は「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体を生きているといいます。
「生物学的身体」とは人体を構成する臓器や神経系統の物理的総和としての身体であり、これに対して、「エロース的身体」とはセクシュアリティと密接に関連した、あらゆる主観的・心理的経験の舞台となる身体です。
ドゥジュールは、心身医学・生物学および精神分析の比較研究を踏まえ「生物学的身体」と「エロース的身体」は同じ肉体に宿りながらも異質な身体であるといいます。
* 寄りかかり理論
そして、ドゥジュールは「エロース的身体」は「生物学的身体」に寄りかかって発達してくるといいます。
ここでドゥジュールが参照するのはフロイトの欲動論です。周知の通りフロイトは人間に内在する根源的衝迫を「欲動」であると規定します。もっともフロイトの欲動論は時期によって様々に遷移していきますが、ある時期のフロイトは「欲動」を「自我欲動(自己保存欲動)」と「性欲動(リビドー)」として把握しています。
「自我欲動(自己保存欲動)」は、飢え、乾き、排泄、睡眠といった、人体の生命維持に関わるものです。我々が通常「生理的欲求」と呼んでいるものはこちらに属します。これに対して「性欲動(リビドー)」は人のセクシュアリティ形成に関係するものです。
そしてフロイトによれば生命維持に関わる自我欲動は生の初めから活動を開始するのに対して、性欲動はこの自我欲動に「寄りかかり」ながら遅れて発達してくるということです(寄りかかり理論)。
例えば口唇欲動(唇、口腔、咽喉を中心とした領域の快=満足を求める欲動)であれば、もともと母乳を吸飲するという行為(空腹という生理的欲求を満たすための行為)の中で芽生え、徐々に自己目的化して、最終的に自律性を獲得する。
こうした「寄りかかり」は口唇以外の−−肛門、尿道、目、耳、皮膚といった−−あらゆる身体器官におよび、それぞれの身体器官の機能に「リビドー化(性欲動による属領化)」がもたらされることになります。
* リビドー的転覆
このフロイトの自我欲動と性欲動の関係は、ドゥジュールのいう生物学的身体とエロース的身体に対応します。
すなわちエロース的身体は生物学的身体に寄りかかって発達した後、やがて生物学的身体を乗っ取ってしまうということです。
これをドゥジュールは「リビドー的転覆」といいます。こうして「リビドー転覆」によりエロース的身体が生じる。そして神経症とはこのエロース的身体の上で形成される病理ということです。
* 症例ドーラ
神経症における症状形成のメカニズムは「リビドーの固着と退行」です。
フロイトによれば、口唇期→肛門期→男根期と進んだ性欲動(リビドー)の発達は、その後、潜在期を経て思春期(第二次性徴)の訪れとともに再び活性化されて性器段階に達する一方、過去の各段階に一定量の「固着」を残すことになる。
こうした固着が強いとリビドー備給が阻害された時(例えば、意中の人にフラれた時)、このリビドーは過去の固着点へ「退行」し、そこで症状が形成される。この場合、症状は失われた愛の代理物(象徴)としての役割を果たしているわけです。
こうした神経症の古典的症例として有名なのがフロイト5大症例の1つに数えられる「症例ドーラ」です。
フロイトの分析によれば、彼女が繰り返していた神経症性の咳は、性的不能者であった父親が愛人との間で行なっていたクンニリングスの空想に結びついている、ということになります(ヒステリーにおいては一般に口唇期の固着が支配的であるため、口唇領域に症状が現れることが多いと言われます)。
このような手の込んだ症状は咽頭の機能が十分にリビドー化されているからこそ表現可能なものといえます。
* 抑圧における隠喩構造
こうしたエロース的身体の成立は「抑圧」と呼ばれる心的メカニズムによって説明できます。
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは周知の通り「抑圧」を「隠喩」の構造として捉えます。
ラカンの提出した有名なテーゼに「無意識とは言語のように構造化されている」というものがあります。一種の言語構造の場としての無意識において様々な表象(シニフィアン)の結合は「隠喩」と「換喩」という二つの効果として現れます。
ここでいう「換喩」とは、例えば「船」を「帆」で表すように、あるシニフィアンから、関連する他のシニフィアンへの置き換えをいいます。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造しているわけではない。
これに対して「隠喩」とは、例えば「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアンを、全く関連のない他のシニフィアンへの置き換えをいいます。
「船」と「帆」と異なり「ボアズ」と「麦束」の間に換喩的な結びつきはありません。しかしこの時「ボアズ」は「麦束」の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へと結びつきます。
「作詩や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています。」
(ジャック・ラカン「無意識における文字の審級」−−「エクリ」516頁)
つまり、エロース的身体において生み出される各種の神経症の症状とは、一面において無意識に保存された欲望の隠喩に他ならないという事です。
* リビドー的転覆の停止と心身症
問題は「リビドー的転覆」のプロセスが何らかの事情で停止し、エロース的身体の形成が不十分な場合です。この場合「リビドー的転覆」が及んでいない身体機能は未開発の領域として取り残されることになります。
こうした身体を持つ主体が、なんらかの精神的負荷を負った時、エロース的身体の代わりに当該負荷の受け皿となる生物学的身体は端的な失調状態に陥ります。
ここで現れるのが頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気といった「身体化」と呼ばれる各種症状です。
これらの症状は神経症のそれのように欲望の隠喩を担っているわけではなく、そこに読み取るべき無意識の詩学は存在しない。生物学的身体にかかる精神的負荷は端的な身体症状として「ダダ漏れ」している事になります。
ヒステリーが比較的込み入った症状を伴うのに対して、心身症がどちらかといえば単純な症状である点は、こうした受け皿となる身体の差異に起因するということです。
* アメンチア無意識
もっとも心身症の場合にもある種の無意識は関与しています。この点、ドゥジュールは「身体化」に関わる無意識を「アメンチア無意識(inconscient amentiel)」と呼び、「抑圧されたものの場」という意味での従来のフロイト的無意識と区別します(「アメンチア」とはラテン語でいう「a-mens(精神を欠いた)」という意に由来)。
この点、ドゥジュールの理論を紹介する立木康介氏は従来のフロイト的無意識を「抑圧無意識」と言います。この「抑圧無意識」には主体がその身体(エロース的身体)によって受け止めた様々な記憶や表象が保存され、主体はそれらを用いて思考したり行動したりするわけですが、これに対して「アメンチア無意識」には、条件反射の学習による思考しか存在しない。「アメンチア無意識」はドゥジュールの言うところの「思考なき無意識」です。
もとよりこうした「抑圧無意識」と「アメンチア無意識」は立木氏によれば、いかなる主体においてもつねに並存しているとされます。ただ「リビドー的転覆」が達成された度合いに応じて「アメンチア無意識」の相対的割合が小さくなったり大きくなったりするということです。
* 心身症化した社会
このように「リビドー転覆」の理論からすれば、神経症とは「エロース的身体」の上で形成される病理であり、これに対して、心身症とは「生物学的身体」の上で生じる病理ということになります。
すなわち、今日における「心身症の前景化」と「ヒステリーの衰退」というパラダイムシフトが示しているのは、端的に言えば「抑圧の衰退」ということになります。
こうした「抑圧の衰退」はいわゆる現代ラカン派でいうところの「象徴界の衰退」や「享楽社会」といった文脈の中で捉えることができます。
すなわち、現代はいわば心身症化した社会とも言えるでしょう。実際にドゥジュールは抑圧の衰退とエロース的身体の凋落による「身体化」の別ヴァージョンとして、暴力などの反社会的な「行為化」、あるいはいくつかのタイプの倒錯傾向を位置付けています。
こうして見ると、原理主義者によるテロリズムや「無敵の人」による無差別殺人など、資本主義システムの反作用として出現する現代の「悪」も、どこか心身症的なところがあるのではないでしょうか。
世界中がグローバリズムとネットワークによって常時接続された今、ヒトやモノやカネの流動化と情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。
そこで生じるのは様々な「生きづらさ」であり、こうした「生きづらさ」という負荷はエロース的身体によって隠喩化される事なく、生物学的身体からただただ単純な「暴力」として「ダダ漏れ」する。あるいはこれが現代の「悪」の病理なのではないかとも思うわけです。
いまや抑圧を行う超越的審級は完全に衰退し、代わりに世界を覆うのは享楽をばらまくシステムに他ならない。現代の社会構造をこのように捉えるのであれば、いま必要とされるのは、こうしたシステムから生じる不可避のコストを一点に収束させることなく、いかに緩やかに拡散させていくかという戦略と物語なのでしょう。
参考文献:『露出せよ、と現代文明はいう(立木康介)』103頁以下−−「コンテンツなき身体、思考なき無意識」