* 「キャラ化」する子どもたち
精神科医、斎藤環氏は「承認をめぐる病」という著書において、現代の、とりわけ思春期におけるコミュニケーションの本質には「キャラとして承認されること」があると述べています。
「キャラ」とは、例えばクラスなどの特定の人間関係内における個人の「役割」のようなもので、必ずしも決して本人の性格とは一致しません。
典型的なキャラの類型としては「委員長キャラ」「毒舌キャラ」「いじられキャラ」「オタクキャラ」「天然キャラ」などがあるでしょう。
「キャラ」は当該人間関係内におけるコミュニケーションを通じて半ば自然発生的、無意識的に振り分けられ、以降、いったん割り当てられた「キャラ」を逸脱する振る舞いは難しくなると言われます。
斎藤氏はこうしたキャラ文化の最大のメリットはコミュニケーションの円滑化にあるといいます。相互のキャラが適切に把握できていれば、そのキャラというコードを通じてコミュニケーションのモードは自ずと定まってくるわけです。
すなわち、ここではコミュニケーションがキャラに規定される一方で、キャラはコミュニケーションを加速させるという関係性が成り立っています。このようにキャラとコミュニケーションは相互依存的関係にあるわけです。
そしてここでいう「コミュニケーション」なるものは「レトリック(弁論)」や「ダイアローグ(対話)」といった本来的意味ではもちろんありません。いわゆる「空気を読む」とかいうあの謎の技術です。
言うまでもなく、こんな下らないものと人の価値は無関係です。組織に「空気を読む」人間だけしかいないとすればそれはもう悲劇以外の何物でもないでしょう。けれども一方、人間関係のクラスター化が加速する昨今、この「空気」なるものの存在感がますます増しているのもまた事実でしょう。
こうして我々はクラスター毎に「キャラ」をあたかもSNSのアカウントのごとく素早く切り替え、その場の「空気」に最適化する「コミュニケーション」を日々、強いられているわけです。
そういうわけで、我々は否応なくこの「空気」なる得体の知れない物をどうにかして捉えなければならない。ここで強力な手がかりを与えてくれるのがラカン派精神分析における「まなざし」という概念です。「まなざし」とは何でしょうか?
* 「まなざし」の作用
「まなざし」というのは視覚の問題と表裏に関係に立っています。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが、セミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」おいて「まなざし」について論じた際、次のような若き日の体験談を紹介しています。
20代の頃、都会のインテリ知識人という身分をもて余していたラカンは、過酷な自然の中に飛び込み危険な肉体労働に従事するという実践体験に興味を持ち、ある日、田舎の漁師と小さな船に乗って漁に出る。
船上のラカンが網を引揚げようとしたその時、同船していたプチ・ジャンという漁師が波間に漂う「鰯の缶詰」を指し示して、若きラカンに対して次のように言いました。「あんたあの缶が見えるかい、あんたはあれが見えるだろ。でもね、奴のほうじゃあんたを見ちゃいないぜ」。
漁師はあくまでユーモアのつもりで言ったみたいですが当のラカンはあまり面白い気分ではなかった。つまり、自分が今やっているのは所詮インテリのなんちゃってごっこ遊びに過ぎないことに気付いてしまったからです。
これが「まなざし」の作用です。若きラカンは波間に漂う鰯缶を眺めるうちに、その乱反射するきらきらした光の中に「まなざし」を意識しかけていることを、図らずも漁師から否定形のメッセージとして受け取ったわけです。要するに斎藤氏の文脈で言えばラカンは「キャラ」になり切れていなかったということになります。
* 「見る」と「見られる」
見かけと存在の関係、哲学者が視覚の領野を征服することによって簡単に支配者となってしまったこの関係の本質はもっと他のところにあります。その本質は線の方にあるのではありません。それは光点、つまり放射の原点、きらめき、炎、輝きの湧出の源にこそあるのです。
(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」124頁)
ラカンは同じ講義中で二つの三角形からなる図式を使用して、「視覚」と「まなざし」の関係性を示しています。次のようなものです。

(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」122頁の図表をもとに制作)
まず、上段の図は、人間の視覚機能を構成する実測的領野、すなわち「見る」という領野を構成します。
この「実測点」に位置するのが「主体」です。そしてその主体の向こう側に対置されるのが「対象」であり、両者の間には「象」すなわち「表象」が定位します。
こうして「見る」という領野においては、主体は対象を表象化する存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の外部に、描き手ないしは鑑賞者として位置することになります。
そして、下段の図は、「見る」とは異なるもう一つの領野、すなわち「見られる」という領野を表現しています。
ここで「光点」に位置するのは〈他者〉です。ここでいう〈他者〉とは、ある象徴的秩序それ自体を体現する超越的外部をいいます。例えば、両親、国家、神、あるいは言語、法、倫理などです。
こうして「見られる」という領野においては、主体は〈他者〉にとらわれた存在であり、もし世界が一枚の絵だとすれば、主体は絵の内部に−−例えば若きラカンのように−−「シミ」として位置することになります。
* 「対象 a 」としての「まなざし」
そしてこの「見る」と「見られる」の交差点に発生する理念上の平面が「スクリーン」です。
「スクリーン」とは我々の意識に相当します。そして「スクリーン」が遮蔽する向こう側に隠された〈他者〉。これが我々の無意識に相当します。
そして、若きラカンが見たあの鰯缶に見たきらめきがまさにそうであったように、主体はある対象を表象として「見る」という活動のその只中で、〈他者〉から「見られる」という錯覚に捕らえられてしまうことがあります。
こうした「スクリーン」上には、我々の「見る」という実測的領野を歪ませる光の揺らめき、あるいは今「見えるもの」がまさに「見せかけ」でしかないということを示す何かが現れる。これがいるはずのない〈他者〉を仮構する対象、すなわち「対象 a 」としての「まなざし」ということになります。
光の空間として私へと現れているもののの中で、眼差しとはつねに、光と透過不能性による何かの働きです。それは、さっきの私のちょっとした物語の中心にあったあの輝きです。そしてそれは、スクリーンであったり、スクリーンから溢れるきらめきとして光をあらわにしたりすることによって、つねに私を引きつけ魅了するものです。要するに、眼差しの点はいつも、宝石の輝きのような曖昧さを帯びているのです。
(ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」126頁)
* 「空気を書き換える」ということ
こうしてみると、我々が血眼になって読んだり抗ったりするあの「空気」なるものも「まなざし」の一種である、という言い方ができるでしょう。
もしそうだとすれば「キャラ」を演じるという行為は、ラカンのいう「想像的同一化」と「象徴的同一化」のメカニズムの上に成立している事になる。つまり「キャラ」という鏡像イメージへの同一化の前提には、「空気」という名の「まなざし」を通じた「コミュニティ」という〈他者〉それ自体への同一化があるわけです。
このように「空気」を「まなざし」として捉える時、我々はコミュニケーションの空間にまた違う可能性を開くことができるのではないでしょうか。
それはすなわち、我々が「対象 a 」として「まなざし」それ自体の位置を取ることで、一旦確立された〈他者〉に動揺を加え、そこに再び流動性や誤配性を呼び込んでいく可能性です。これは端的にいうと「空気を読む」のでも「空気に抗う」のでもない、いわば「空気を書き換える」というコミュニケーションのあり方と言えます。
もはや絶対的な超越性が信じられなくなった現代において人は、その時々に生じる相対的な超越性へ複数的に帰属して生きていく事になる。そうである以上、我々はどうあってもキャラからも空気からもコミュニケーションからも逃れることはできない。
ここで「コミュニケーションなど下らない」などという「正論」をいくら闇雲に叫んでもおそらく世界は何も変わらないでしょう。もしコミュニケーションのあり方を変えたいのであれば、それは結局のところ、コミュニケーションを通じて実現していくしかないわけです。
ラカン『精神分析の四基本概念』解説
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