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現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2019年08月31日

「ドゥルーズの世紀」におけるラカン派精神分析



* 理想・虚構・症状

精神分析を想像界・象徴界・現実界からなる独創的なシステムとして再発明した事で知られるフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの名前はその難解な著作、晦渋な語り口と共に「ラカン対ラカン」という言葉があるように晩年に至るまで絶えず自らの理論を更新し続けた事でも知られています。

こうしたラカン理論の変遷を跡づけていく営みからは、単なる学説史研究に止まらない、社会のあり方、あるいは個人の生き方を論じる上で有益な理論装置を生み出す事ができるのではないでしょうか。

この点につき、精神病理学者の松本卓也氏はこうしたラカン理論の変遷をミシェル・フーコーの権力装置論やジル・ドゥルーズの制御社会論と連携させて、様々な社会統制のメカニズムを考察していく議論を展開しています。

以下では松本氏の議論を参照枠としていわゆる「享楽社会」の病理と倫理に関する多少の整理を行ってみたいと思います。

まず、50年代から70年代の間のラカン理論の変遷を〈父の名〉という概念を中心として(図式的になる事を承知であえて)示すとすれば、以下のようになります。

⑴ 50年代のラカン理論〜理想としての〈父〉

1950年代のラカンは精神分析に構造主義的言語学の考え方を導入し、神経症と精神病を鮮明に鑑別する手法をもたらしました。

当時、英米圏の精神分析臨床において大きな影響力を持っていたメラニー・クラインの理論によれば、全ての主体は原初的対象関係として「妄想分裂ポジション」と「抑鬱ポジション」からなる二つのポジションを抱え込んでおり、症状とはこの二つのポジションの様々な形での発現あるいは遷移の結果に他ならないとされる。従ってクライン派の理論によればある分析主体はある時は神経症的であり、ある時は精神病的であるということになります。

これに対して、ラカンは人間は神経症、精神病、倒錯という三つの構造のどれかに属し、これら構造の間には移行領域や中間形態は無いというラディカルな主体構造論を打ち出します。なぜならばこの三つの構造はそれぞれ抑圧、排除、否認という互いに区別される三つの否定メカニズムによって構造化されているからです。

ここでラカンが主体構造を鑑別するためのメルクマールとして持ち出すのは、主体にとっての「〈他者〉=象徴界」を統御するシニフィアンである「〈父の名〉(le Nom-du-Pe’re)」です。こうして50年代のラカン理論においては〈父の名〉によって象徴界が統御されている者は神経症であり〈父の名〉が排除されている者は精神病であるとされました。

こうした〈父の名〉が主体から排除されているかどうかは臨床的には「シニフィアン」と「隠喩」という二つの方向性から捉える事が可能です。すなわち⑴〈父の名〉の排除の証拠となる「要素現象」の有無と、⑵〈父の名〉の排除を間接的に示す「ファリックな意味作用」の成立の有無です。

この二つは1958年に発表された論文「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題」におけるシェーマIの二つの穴「P0(〈父の名〉の不在の効果)」と「Φ0(ファリックな意味作用の不在の効果)」に概ね対応します。50年代のラカン理論は臨床的に最も鋭くパラノイア(妄想型統合失調症)を鑑別できる理論と言われます。

⑵ 60年代のラカン理論〜虚構としての〈父〉

このように1950年代のラカン理論において、少なくとも「前提的問題」までは〈他者〉を根拠づける「〈他者〉の〈他者〉=〈父の名〉」を中心にその理論が構築されていました。

ところが1950年代終わりのセミネール6「欲望とその解釈(1958〜1959)」において、ラカンは「〈他者〉の〈他者〉はない」と言い出します。

つまりここでは精神病、神経症問わず〈父の名〉は排除されており〈他者〉はいかなる根拠も持たず、そこには単に「欠如のシニフィアン=S(Ⱥ)」が存在するだけであるということです。

こうした観点からは神経症者は本来存在しない〈父の名〉なる虚構を信じるようペテンにかけられた主体で、逆に精神病者はこうした「父性の欺瞞」を受け入れていない主体ということになります。

現代ラカン派で言われる「排除の一般化」すなわち「父性隠喩は社会的に共有された妄想性隠喩にすぎない」という考えは、この1959年におけるラカンの議論を引き継ぐものです。

こうして60年代のラカンはシニフィアンに還元不能なものとして「享楽」の側面を重視するようになります。

60年代のラカン理論からは享楽の回帰モードからパラノイアとスキゾスレニー(主として破瓜型統合失調症)が鑑別可能となります。すなわち、両者はともに精神病ではありますが、パラノイアでは享楽が「〈他者〉それ自体の場」に見出されるのに対してスキゾフレニーでは享楽は「身体全域」に回帰するという違いがあるということです。

⑶ 70年代のラカン理論〜症状としての〈父〉

このように、50年代ラカンが主としてシニフィアンの領域で神経症と精神病の鑑別を行い、60年代ラカンが主として享楽の領域でこれを行なっていたとすれば、70年代ラカンはこの2つの領域を統合的に論じるようになります。

これに伴って症状は従来のように象徴的意味の側面からではなく現実的享楽の側面から「サントーム」として捉え直されます。

もはや〈父の名〉とはこのサントームの一形式に過ぎず、神経症と精神病の違いとはサントームの形式の違いに過ぎないことになる。すなわち、サントーム概念の導入は、ある意味で神経症と精神病の境界線を消し去ってしまうわけです。


* 君主権・規律権力・安全装置

このようにラカンの中で〈父の名〉というものは年代を経るごとに順調に衰退していくわけですが、こうしたラカン理論の変遷はフーコーの権力装置論と興味深い符号を示しています。

⑴ アルカイックの時代(中世)における君主権

アルカイックの時代(中世)においては、君主が処罰権を独占しており、民衆は犯罪と刑罰の決定に関わることはできなかった。これは50年代ラカン理論に対応する「現前する父が支配する社会」です。

⑵ モダンの時代(近代)における規律権力

モダンの時代(近代)においては、刑務所の中で強制的な訓練・労働を行わせることで犯罪者を法に従属する主体への矯正しようとする規律権力が作動します。この点、モダンにおける権力装置は、それを司る君主はすでに不在であるものの、人々がその空白の中に、権力のまなざしを想定することによって機能する。これは60年代ラカン理論に対応する「不在の父が機能する社会」です。

⑶ コンテンポラリーの時代(現代)における安全装置

コンテンポラリーの時代(現代)においてもモダンの時代の原理である規律権力は維持されています。しかし現代ではそれとは別に「どのような地域でどのような犯罪が多いのか」「どのような刑罰システムを用いれば犯罪の発生率を抑えることができるのか」といった統計学的平均値により集団を制御する権力装置が作動する。これを安全装置といいます。これは70年代ラカン理論に対応する「もはや父とは無関係に作動する社会」です。


* 制御社会/享楽社会の病理

そしてドゥルーズはフーコーのいう安全装置が稼働する社会を「制御社会」といいます。この制御社会においてはかつての規律社会の様に大衆を刑罰の脅しによって従属させるのではなく、人々の生活に24時間恒常的に介入し、その行動を管理するような形で権力は行使されます。

ドゥルーズがいう規律社会から制御社会への移行とは、ラカン派の観点から言えば「享楽を殺す社会」から「享楽を生かす社会」への移行に他なりません。こうした制御社会/享楽社会の特徴として以下の点が挙げられます。

⑴ 享楽のデフレーション

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。端的に言えば享楽の規制緩和、あるいはデフレーションです。

享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変質していく。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、我々は溢れんばかりの対象 a の洪水の中、その日暮らしの終わりなき転調を踊らされ続ける羽目になる。

現代ラカン派の中で次第に「アディクション(依存症)」が注目されるようになってきたのはこのような文脈においてです。摂食障害、薬物依存といった広義の依存症において観察される特徴はまさしく享楽社会の病理そのものです。

⑵ サーフィン化する社会

ドゥルーズによれば、かつての社会における生き方が「砲丸投げ」のようなスポーツだとすれば、現代社会における生き方は「サーフィン」のようなスポーツであるといいます。要するに現代社会においては「主体とは何か」「症状とは何か」「自由とは何か」「生きるとは何か」という「起源」や「到達」に関する問いが蔑ろにされ、ただとにかく目の前にある波をスマートに乗りこなしていくことこそが最も重要になっているということです。

もっとも、ドゥルーズ自身はこうした「サーフィン化する社会」を肯定的に捉えます。要するに、全ては起源も到達もない中間的なもの、存在の間、間奏曲であり、その中で何が起こっているのかこそが問われるべきであるということです。

このような「サーフィン化する社会」は我々に絶え間なく変化する市場の波の中で、常にフレキシブルにセルフマネジメントし続けることを要求します。こうした社会のあり方と近年における自閉症スペクトラム障害ないし発達障害への注目はもちろん無関係ではないわけです。

⑶ 「鉄の秩序」と「統計学的超自我」

享楽社会の3つ目の特徴はまさしく〈父なるもの〉の回帰に関するものです。この点についてもドゥルーズは「父親の回帰以外に危険など存在しない」と指摘しています。

「〈父の名〉の衰退」とは具体的には〈父の名〉の機能が「命名」から「指名」に取って代わられることです。「命名」は、主体に文字通り「それ以外ではない」という絶対的な「名」を与える隠喩的機能を持ちますが、「指名」は、進学、就職、結婚というようなライフイベントによってどんどん横滑りしていく換喩的機能しか持ちません。

こうして象徴界から排除された〈父の名〉はラカンのいう「鉄の秩序」として現実界に回帰します。〈父の名〉は「それは正しくないからダメだ」という「否」を通じて主体を包摂する「法」ですが、「鉄の秩序」は「とにかくダメだからダメだ」という「否」を羅列して主体を排除する単なる「禁止」です。

ECF(フロイト大義派)の精神分析家、マリー=エレーヌ・ブルースはこのような「鉄の秩序」からなる統制を「統計学的超自我」と呼びます。〈父の名〉は諸々の統計データに基づく規範として回帰し、主体はそのガウス分布の中央値に過剰なまでの象徴的同一化を果たそうとする。現代ラカン派がいう「ふつうの精神病」とはこうした〈父の名〉の機能不全から生じる病理に他なりません。


* それでも享楽しかない

こうして享楽は押し売られる商品となり、〈父〉とはもはやデータの番人に過ぎなくなった。この意味で現代とはかつてフーコーが予言したように「ドゥルーズの世紀」となったわけです。では、こうした享楽社会の中で人が人たりうるための抵抗の拠点、成熟のメカニズムはどこに見出せるのでしょうか?

その答えはある意味でシンプルです。ジャック・アラン・ミレールが言うように、享楽社会における抵抗の拠点はむしろ「享楽しかない」ということです。

これはもちろん享楽社会に対する開き直りではありません。むしろ50〜70年代のラカン理論を反復するかの如き迂路を通り抜けたうえでの「享楽しかない」です。

すなわち、まずはとにかく「必ず享楽はある」という希望と「決して享楽はない」という絶望を正しく相転移させて、そしてその上でなお「それでも享楽しかない」という絶対的差異へ向かう欲望を自らのものにできるのか。「享楽しかない」とはまさにこのプロセスが問われているわけです。

こうして享楽社会を生きる上での倫理とは、まさしく享楽に対して享楽をもって抗うという態度に他ならないという事になります。そしてそれはむしろスマートとは程遠い、曲がりくねったでこぼこ道を泥だらけになりながら歩いていく中にこそあるのでしょう。


参考文献:『Library.iichiko 140-ラカンの剰余享楽/サントーム』113頁〜「享楽社会とは何か?(松本卓也)」


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posted by かがみ at 01:46 | 精神分析